神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

大谷口石橋

2015-09-10 06:48:27 | 千川用水6

 「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)によれば、千川上水が長崎村、上板橋村境沿いを273間(≒491m)流れたところに、上板橋村字大谷口の石橋(「巾石四枚五尺六寸渡七尺」)が架かっていました。それから160年後の昭和15年(1940年)、武蔵高校の生徒が千川上水を調査した時にも、やはり同じような石橋がありました。「谷端川(長崎)分水口から六百米川に沿って下ると板橋町四丁目入口に至る。・・・・ここに架してある橋は、この附近によく見られる一枚石を四五枚川を跨いで並べたもので・・・・」 (武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」) なお、「見分」当時はこの石橋から15間下流が上板橋村と下板橋宿の境でしたが、明治に入り石橋のところにシフト、結局、ここまでは左岸上板橋村、右岸長崎村、ここからは両岸とも板橋町となりました。

 

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    ・ 大谷口五差路  右手に向かう広い通りは、昭和初期の区画整理時にできた新道です。旧道は正面右手の狭い道ですぐに右折しますが、明治時代は長崎村と板橋町の境、現在は豊島区と板橋区の境です。

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    ・ 大谷口五差路  上掲写真の正面左手の通りが千川上水跡です。昭和15年当時、下流からの暗渠化工事がこのあたりまで及んでいたと、「千川上水」は冒頭の引用個所に続けて報告しています。
 <字境久保>  「新編武蔵風土記稿」では長崎村の字として収録されており、明治に入ると隣接する長崎村、板橋町双方にまたがる字となります。文字通り境にある窪地の意ですが、→ 「東京近傍図」の右上で、区境近くから発する水路が、この窪地にかかわるものでした。中丸村を流れる谷端川の支流で、地元では中丸川と通称されていたものについては、→ 「谷端川・小石川2 / 金井窪村境」以下で扱っています。

 

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    ・ 中丸川跡  その先端は大谷口五差路から百数十メートルのところにあり、これまでの例からしても、千川上水の助水、ないし漏水が水源となっていた可能性が考えられますが、確証はありません。