「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)によれば、千川上水が長崎村、上板橋村境沿いを273間(≒491m)流れたところに、上板橋村字大谷口の石橋(「巾石四枚五尺六寸渡七尺」)が架かっていました。それから160年後の昭和15年(1940年)、武蔵高校の生徒が千川上水を調査した時にも、やはり同じような石橋がありました。「谷端川(長崎)分水口から六百米川に沿って下ると板橋町四丁目入口に至る。・・・・ここに架してある橋は、この附近によく見られる一枚石を四五枚川を跨いで並べたもので・・・・」 (武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」) なお、「見分」当時はこの石橋から15間下流が上板橋村と下板橋宿の境でしたが、明治に入り石橋のところにシフト、結局、ここまでは左岸上板橋村、右岸長崎村、ここからは両岸とも板橋町となりました。
- ・ 大谷口五差路 右手に向かう広い通りは、昭和初期の区画整理時にできた新道です。旧道は正面右手の狭い道ですぐに右折しますが、明治時代は長崎村と板橋町の境、現在は豊島区と板橋区の境です。
- ・ 大谷口五差路 上掲写真の正面左手の通りが千川上水跡です。昭和15年当時、下流からの暗渠化工事がこのあたりまで及んでいたと、「千川上水」は冒頭の引用個所に続けて報告しています。
- ・ 中丸川跡 その先端は大谷口五差路から百数十メートルのところにあり、これまでの例からしても、千川上水の助水、ないし漏水が水源となっていた可能性が考えられますが、確証はありません。