神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下板橋宿

2015-09-30 07:40:02 | 千川用水6

 「新編武蔵風土記稿」によると、下板橋宿(一般には板橋宿)は「中山道第一の宿駅にて、人馬各五十を定額とし、日本橋迄二里、蕨宿へ二里十町の継立てをなせり、・・・・始て宿駅を置れし年代詳ならず、宿並の長十三町十五間にて道幅五間」でした。天保14年(1843年)の調べでは、男1053人、女1395人が住み、家数は573軒、旅籠は大小54軒ありました。宿内は一里塚のある入口から平尾宿、中宿(仲宿)、上宿に分れ、本陣は中宿に、脇本陣は各宿に一軒置かれていました。平尾宿と中宿の境は、川越街道が分岐する平尾追分付近で、中宿と上宿の間には石神井川が流れ、そこに板橋宿のシンボル、「長九間幅三間」の板橋が架かっていました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 板橋駅 乗蓮寺」  乗蓮寺門前の往還が中山道、この前後が中宿の中心で、高田道の起点のある仲宿交差点は左手100m、本陣は逆に右手に300m、石神井川に架かる板橋まではさらに200mです。

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    ・ 旧中山道平尾追分  正面が旧中山道、三角コーナーを挟んで左手が国道17号線(現中山道)で、旧川越街道の起点でもあります。千川用水を利用していた旅籠や料理屋は、この平尾追分の前後に集中していました。

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    ・ 旧中山道仲宿交差点  平尾追分から四百数十メートルのところです。高田道(雑司ヶ谷道)の起点でもあり、左手に折れるとワンブロックで五兵衛橋の架かっていた交差点に出ます。右手は明治になって開削された王子新道です。

 <板橋宿と千川上水>  宝暦4年(1754年)12月、「千川用水堀通吐水之儀」で始まる願書が、下板橋宿(平尾)の名主と千川家の連名で代官所に提出されました。千川用水の吐水が詰まり、うまく流れなくて難儀している、ついては、宿内の在来の下水路に落としたいが、いかがなものかとの内容です。一方、これを新たな分水開設と見なす滝野川村、巣鴨村は、翌年2月の訴状で、同様の事態が延享3年(1746年)にもあり、その際田用水優先が認められた旨、先例を引いて差し留めるよう求めます。
 結局後者の訴えが認められますが、千川の利用はなくなったわけではありません。例えば、慶応2年(1866年)、滝野川大砲製造プロジェクトのための調査の際、下板橋宿の複数の旅籠や料理屋の庭先に、「千川抱込之場所」が発見されます。防火用水や家水に利用していたのですが、この場合も翌年には差し留となっています。これら下板橋宿の千川利用は、田用水のように分水口を設け、宿全体で利用していたのではなく、悪水吐の水を横堰などで各自、家に引き入れていました。その際、毎年金三分を千川家に支払う旨の覚書も残されています。(「千川上水・用水と江戸・武蔵野 / 第13章 千川用水と板橋宿」)