神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

伊勢(殿)橋

2015-05-21 06:36:59 | 千川用水3

 千川上水が青梅街道を越えていたところに戻り、新しいクール、千川用水3を開始します。そこには伊勢橋ないし伊勢殿(いせどの)橋が架かっていました。「板橋 竹下新田ニアリ伊勢殿橋長一間四尺幅一間半五寸」 「東京府志料」(明治5年 1872年)の千川上水に架かる橋梁リストに記載されています。伊勢殿は上水開設を監督した道奉行、伊勢平八郎のことと思われます。「武蔵国新座郡保谷村地先ヨリ豊島郡巣鴨村ニ至ル迄延長五里二十四町余ノ地ヲ相シ、敷地ヲ撰定シテ、道御奉行伊勢平八郎殿御掛ニテ工事ニ着手シタルニ・・・・」 千川上水と自家のかかわりに関し千川家が残した文書(「千川上水履歴」)中、「東京市史稿上水編」に引用されているものの一節です。

 

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    ・ 「明治22年米軍撮影の空中写真」  前クールでUPした→ 「空中写真」の左上隅を拡大したものです。道路を最短距離で越えるよう、直交している様子が分かります。

 この伊勢橋には別名があり、石神井村の字から出店(でだな)橋とも呼ばれました。練馬区のホームページ内の「練馬の地名 今むかし」によると、出店とは本村から商いに出た店の意で、青梅街道が御嶽詣のコースとなり、茶店などができたことに由来するようです。よく引用される御嶽詣の案内書「御嶽菅笠」(天保5年 1834年)には、千川上水が青梅街道を越えたところに、橋を挟んで水番小屋と二八そば屋(石神井村伊国屋)が向かい合っています。また、これまでもたびたび引用した「小川家文書」中の「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)には、「五三間 関店前橋迄 板橋巾弐間渡弐間」と記載があります。「出店」でなく「店前」という微妙な異同ではありますが、位置からして同じ橋を指しているようです。

 

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    ・ 伊勢橋  千川緑道の起点にあった伊勢橋の欄干です。数年前の、緑道が改修される以前のもので、現在は→ 写真のように撤去されています。

 <千川家負担の七橋梁>  明治2年(1869年)、新宿・田無間に乗合馬車が開通しました。明治10年代中頃には、青梅街道の往来する車馬の増加に伴い、伊勢橋を石橋にする案が浮上します。 推進したのは千川家です。なぜ千川家かというと、上水開削時のいきさつから、伊勢橋を含む主要七橋が千川家持ちになっていたからです。ということは田用水組合村の納める使用料が原資となるわけですが、その不足分の援助を東京府に求める書類が残されています。数年に及ぶ請願の結果は定かではありませんが、明治に入っても続く千川家の役割を知ることができます。なお、橋梁リストは上流から、吉祥寺村土橋、関村土橋(筋違橋)、伊勢橋、下石神井村土橋(筋違橋)、下板橋村石橋(大山橋)、同村板橋(五兵衛橋)、同村石橋(平尾橋)です。