神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

合流・山崎橋

2015-09-09 07:07:54 | 千川用水5

 二つの溜池を水源とする水路は、右岸段丘の裾をめぐり、川越街道手前の山崎橋で石神井川に合流していました。もっとも、こうなったのは昭和10年頃の区画整理の結果で、本来の合流地点は→ 「段彩陰影図」に重ねたように、現在の川越街道に架かる上板橋付近でした。段丘の裾をめぐり、可能な限り下流に向かうのが灌漑用水のパターンで、一方、区画整理後、排水路へと機能変更した水路は、みな直線化して最短距離で合流しています。今回の水路の場合も、エンガ堀との合流地点など、直線化しているのは同じ区画整理時です。なお、合流地点の橋名は当時の字によっていて、「いたばしの地名」によると、一帯の通称、山崎田んぼは田毎の月の名所として知られていました。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正測図) / 練馬」  同一個所、同一縮尺の「昭和4年第三回修正測図」は→ こちらです。区画整理前後の変化が分かります。

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    ・ 水路跡の道路  前回UPの最後の写真から240mほどで山崎橋ですが、その途中の写真です。上掲「第四回測図」ではこの幅広道路の右側に水路が描かれています。

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    ・ 石神井川  山崎橋から下流方向です。奥に見えるのが川越街道に架かる上板橋で、本来の合流地点のあったところ、そこまでの右手が山崎田んぼ跡です。

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    ・ 下頭(げとう)橋  上板橋の一つ下流の橋で、旧川越街道に架かっています。傍らの六蔵祠には、喜捨を得て石橋に架け替えた乞食六蔵の伝承があり、橋名の由来の一説ともなっています。

溜池の水路4

2015-09-08 07:53:51 | 千川用水5

 向原溜池からの水路を追っての四回目で、大谷口溜池から本線に戻り、引き続き東に向かいます。途中、車止めやコンクリート蓋など、明らかに水路跡とわかる個所が200mほど残されています。ところで、向原溜池を出てから地蔵坂下までの前半は、今回の流路が向原と大谷口の二つの字を分けていました。一方、地蔵坂下以降ここまで、右岸は引き続き大谷口ですが、左岸の字は山崎に変わります。ただ、昭和7年(1932年)の板橋区成立時にどちらも大谷口町となり、現在はともに大谷口を冠した上町と北町ですが、境界は段丘寄りの道路にズレてしまいました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前々回の最後から引き続き、大谷口小学校を左手に見ています。同校の開校は昭和33年(1958年)ですが、その直前まで田んぼだったところです。

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    2. 大谷口小学校と連続する児童遊園脇を抜けると、その先のやや右手に車止めが見えています。

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    3. 左カーブで北に向きを変えると、車止めの先は今度はフェンスです。

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    4. フェンスの先はコンクリート蓋の水路跡が続きますが、すぐに中断し通り抜けはできません。

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    5. 回り込んで見つけた細長いスペースですが、これ以上進めないので再び回り込み、石神井川に直線で向う幅広の道路に出ます。

大谷口溜池

2015-09-07 06:32:42 | 千川用水5

 「北豊島郡誌」の数字によると、字大谷口の溜池は1396坪(≒4607㎡)あり、向原溜池(390坪)の3.5倍強の規模を有していました。戦後埋立てられ、自然発生的な住宅密集地となりましたが、住宅地区改良事業が平成21年までに完了しています。なお、大谷口は「新編武蔵風土記稿」に収録された上板橋村の小名ですが、「小田原衆所領役帳」に板橋大炊助の所領、三貫三百文として初出しています。地名由来に関しては、「いたばしの地名」のいうように、「広く大きな谷の口」の意でしょう。→ 「段彩陰影図」で見ると、扇形に広がる石神井川右岸の低地に面しているのが分かります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」 

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    ・ 合流地点付近  右手が谷筋に入る道路、左手に30mほどで前回の水路です。正面は日大板橋病院で、下屋敷と通称されていたところです。

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    ・ 溜池跡地  溜池のあった東側の谷頭付近です。住宅地区改良事業により、谷筋の底にある道路の拡幅が行われました。

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    ・ 溜池跡地  上掲写真の正面奥の崖上にある大谷上町公園からのショットです。手前が溜池跡の谷頭、奥は谷筋の出口にある日大病院関係の建物です。

溜池の水路3

2015-09-05 06:18:24 | 千川用水5

 向原溜池からの水路を追って三回目で、氷川神社のある右岸段丘の裾をめぐり、東に向かいます。現在の地図でもそれと分かる、クネッた路地が二百数十メートル続きます。途中、「北豊島郡誌」に「字大谷口にあり」と書かれていた、もう一つの溜池からの合流がありますが、合流地点の水路跡は失われています。これは昭和10年代に日大板橋病院が当地で開業、その関連施設の敷地となったことが影響しているものと思われます。なお、「いたばしの地名」によると、病院のあるところは下屋敷と通称されていました。幕臣、酒井日向守の屋敷があったためとありますが、「新編武蔵風土記稿」の「酒井弥門抱屋敷七千九百十九坪余」のことでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 氷川神社下の商店街(パステル宮の下)です。地蔵坂下から100mほどで、右手の路地に入ります。

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    2. 路地の先です。地図上からもそれとわかる蛇行があります。

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    3. 250mほどクネッた路地は続きますが、右写真の左カーブの先でいったん途切れます。

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    4. このあたりの右手から、大谷口溜池の水路が合流していたのでしょうが、その痕跡は不明です。

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    5. 昭和十年頃の区画整理時に出来た幅広の通りを横切ると、間もなく左手は大谷口小学校です。

溜池の水路2

2015-09-04 06:37:12 | 千川用水5

 向原溜池からの水路を追っての二回目で、狭い谷筋を抜け、向原団地の敷地に出たところからです。ここで二流に分かれ、向原田んぼを灌漑しエンガ堀と合流するもの、右岸段丘の裾をめぐり、下流の山崎田んぼへと向かうものです。前者に関し板橋区教育委員会「いたばしの河川」は、エンガ堀のところで、「大谷道の地蔵橋付近で、大谷口二丁目35番付近の湧水池から流れる小川と合流し」と書いています。ただ、エンガ堀との合流の様子などは、→ 「段彩陰影図」に重ねた流路と異なり、昭和10年頃の区画整理時に直線化されています。なお、大谷道は下掲地図の中央を横断している通りで、氷川神社前の坂の中腹に地蔵堂があったことが、坂や橋の名前の由来となったものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 向原団地の敷地の、ということは向原田んぼのということですが、その東縁に沿って左カーブします。

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    2. 左右に分岐するところです。まず、左手に向かうと、正面に車止めの付いた幅広の歩道があります。

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    3. 大谷道に出ます。右写真の奥の歩道あたりに、エンガ堀に架かる地蔵橋がありました。

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    4. 右手の路地の先です。やはり大谷道に出たところで、地蔵坂下にあたります。水路は正面のアーケードの通りに向かいます。

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    5. 右岸段丘上にある大谷口の鎮守です。延宝2(1674年)の古文書に記載があり、それ以前の創建とされています。

溜池の水路

2015-09-03 06:51:18 | 千川用水5

 向原溜池の続きです。溜池から流れ出た水路は、北上して向原田んぼを灌漑、その後右カーブで東に向かい大谷口溜池の用水と合流して、現大谷口北町にあった山崎田んぼを灌漑していました。「エンガ堀」のところでUPした→ 「段彩陰影図」で、エンガ堀の右手にあるもので、今回から数回に分け、この水路を石神井川との合流地点までたどります。なお、「段彩陰影図」に重ねたのは、主として「東京近傍図」に描かれたものですが、一部「迅速測図」で補充しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 前回の最後の路地の先で、大谷口二公園の下に出ます。

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    2. 向原中学のキャンパスに突き当たって中断しますが、校庭を縦断する向原と大谷口の境が、かっての水路の位置を教えてくれます。

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    3. 向原中の先の水路跡は二本です。「第三回修正」に描かれた幅の狭い水田の両縁に沿っていたものなのでしょう。 

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    4. 向原団地の敷地に出ます。右写真は左手の水路の出口から、右手の水路方向のショットです。

向原溜池

2015-09-02 06:16:24 | 千川用水5

 「村内に溜池三箇所あり、一は字大谷口にありて面積千三百九十六坪、二は字向原にありて面積三百九十坪、共に字山崎向原の用水となる、三は字小竹に在り、面積七十坪許、浅間神社の後に當り昔より同社の御手洗と稱へらる。」 大正7年(1918年)の「北豊島郡誌」の一節で、最後の浅間神社御手洗池のところで一度引用しました。最初のものは→ 「東京近傍図」の上端に描かれていますが、ここでのテーマは二番目の字向原(むかいはら)の溜池で、昨日UPの→ 「昭和4年第三回修正」の左上にあるものです。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  七差路の左上に写っているのが向原の溜池で、「空中写真」の当時は釣堀となっていました。

 板橋区教育委員会「いたばしの地名」によると、溜池では大正、昭和の初めころまでは毎年梵天祭がおこなわれ、旱魃時には群馬県の榛名神社の水を奉じて、雨乞がなされたようです。それが、田用水として利用されなくなったのでしょう、昭和に入り釣堀営業に転じます。「昭和の初期、釣堀を営業していて、戦後千川上水が暗渠化されたとき釣堀ができなくなったのは、水源が千川上水からの漏水であったのであろうかといわれています。」 ことの真偽はわかりませんが、これまでの悪水吐と(非公式の)分水の関係を考え合わせると、相当量の漏水があった可能性は否定できません。なお、「戦後千川上水が暗渠化されたとき」とありますが、この区間の暗渠化は昭和30年(1955年)前後です。

 

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    ・ 向原溜池跡  板橋高校前の七差路から、直線で百数十メートルのところにあり、現在は釣堀跡を留めたままマンションの敷地になっています。

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    ・ 水路跡  向原と大谷口の境となっている水路跡の路地です。マンション敷地の北側から始まり、途中向原中学キャンパスで中断したあと、向原団地に向かいます。

上板橋村境

2015-09-01 07:30:33 | 千川用水5

 千川上水が要町3丁目交差点を越えるところに戻ります。上水跡はいったん都道420号線と接しますが、すぐに右手に離れ、100mほどでまた接します。その間は現在、孤状の細長い駐輪場となっています。その駐輪場の先で、(自身を含めて)七差路に突き当たり、右折します。ここが豊島区と板橋区の境で、「千川素堀筋普請所積見分」が、「是迄長崎村分上板橋村境」と書いているところです。V字ターン以降長崎村を流れてきた上水は、右折後は500mほど左岸上板橋村、右岸長崎村の境となっていました。なお、「所積見分」は方向転換の際、その旨付記することが多く、ここでも「子(北)・・・・橋より曲り寅(北北東)」と書いていています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。左上にある谷筋と溜池については次回詳細します。

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    1. 「千川素堀筋普請所積見分」にあった、長崎村分水口から11間目の石橋(「巾四尺 石三枚 渡七尺」)の架かっていたあたりです。

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    2. 上掲写真の茂みの裏から、上水跡の細長い空間が再開します。この区画は駐輪場になっています。

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    3. 板橋高校前の七差路に突き当たったところで駐輪場は終了、千川上水はここで右折します。

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    4. 板橋高校前です。左手の植込みのところが千川上水跡で、新クール「千川用水6」を開始する予定の大谷口まで500mほど続きます。