神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

溜池

2014-09-26 07:50:32 | 城西の堀川2

 「溜池 江城の西方赤坂のほとりの池を溜池とよふ。その水流るゝ事なく、よどむ水なればしかいふにや。『江戸鹿子』 昔此池水を江戸中の水道に引注ぎし事は、既に上水の條に弁ぜり。案に古は殊に広き池なりしにや、永禄二年改の『北条役帳』に、島田衆(島津衆)太田新次郎弐貫三百文桜田池分を領するよし載たり。桜田は虎の門内より山王辺までの古名なれば、桜田池分と云もの今の溜池なるべし。」(「御府内備考」)

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 城西の堀川3」 薄いブルーは「寛永江戸全図」や「正保年中江戸絵図」に描かれた江戸初期の溜池、濃いブルーは「1/5000実測図」や切絵図を元にした、江戸末から明治初めの溜池です。

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    ・ 弁慶堀  弁慶堀と溜池を連絡する暗渠の水路のあったところで、数回前にUPの→ 「1/5000実測図」にも点線で描かれています。

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    ・ 外堀通り  出雲松江藩上屋敷跡にある、エクセル東急前の外堀通りです。通りの幅とこの区間の溜池の幅はほぼ一致していました。

 <溜池と上水>  「見しは昔、江戸町の跡は今大名町になり、今の江戸町は十二年以前(慶長8年ごろ)まて大海原なりしを、当君の御威勢に、南海をうめ、陸地となし、町を立給ふ。然るに町ゆたかにさかふると云へ共、井の水へ塩さし入、万民是をなけく。君聞召、民をあはれみ給ひ、神田明神山岸の水を北東の町へ流し、山王山本の流を西南の町へなかし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給う。」 「慶長見聞集」(慶長19年 三浦浄心)中の「江戸町水道のこと」の一節で、冒頭にある「御府内備考」の「上水の條」でも引用され、「山王山本の流」を「今の溜池なり」と注記しています。「備考」にはありませんが、「武州豊嶋郡江戸庄図」にある「溜池 江戸水道之水上」との書き込みが、この裏付けとしてよく引用されます。なお、承応元年(1652年)の玉川上水の開削によって、溜池の上水機能はお役御免となり、その頃から埋立てが始まりました。