神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

鮫河橋谷町2

2014-09-11 08:45:18 | 城西の堀川2

 鮫河橋谷町で二本の水路が合流していたところまで戻り、「日宗寺境内池」を水源とする北側からの水路をたどります。こちらは「御府内備考」に「町内表通地先を相流」とありますが、日宗寺前からJR線の鮫ヶ橋通ガードへと向かう通りの、西側に沿って流れていました。この通りは地図上でもそれらしくクネッていて、水路跡なのは一目瞭然です。なお、鮫河橋谷町の起立は寛文4年(1664年)、それまで半蔵門、麹町あたりに居住していて、本所に代替地を与えられた伊賀者31人が、仲間の居住地である南北伊賀町に隣接した当地、「一ッ木村之内鮫河橋之田地」を希望したことによります。当初は鮫河橋新伊賀町と呼ばれていました。町奉行支配となったのは、他の元鮫河橋の町屋と同様、元禄9年(1696年)です。

 

Sametani2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 二本の水路の合流地点まで戻り、直進して北側の水路をさかのぼります。

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    2. このあたりから左手は鮫河橋谷町、右手は将軍警護の鉄砲隊である御持筒組の大縄地でした。

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    3. ここで右カーブですが、左折すると元鮫河橋北町です。「町内入口ニ而名目入江之橋共入之橋共申候」とあった板橋は、ここに架かっていたのかもしれません。

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    4. 鉄砲坂下に差し掛かります。坂名は上記の御持筒組大縄地によっています。

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    5. 次いで戒行寺坂下です。左手台上は四谷南寺町で、坂名となった戒行寺も現存します。