神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

鐙ヶ淵

2014-09-10 07:06:49 | 城西の堀川2

 西側から合流する谷筋のうち、右手からの水路の水源である鐙(あぶみ)ヶ淵は、元鮫河橋北町の西隣にある陽光寺境内の池でした。寛文から明和にかけて、池畔の庵で放生会が営まれたため、放生池と呼ばれていまたが、その後埋立てられ規模を縮小しました。「鐙ヶ淵と相唱候場所ノ儀者前書入より西之方永井信濃守様御下屋敷山下ニ而只今少之水溜有之候」と、「御府内備考」に収録された元鮫河橋北町の書上の一節です。また、その名前の由来については、「往古源義家公之乗馬只今之鮫河落候砌(みぎり)右鐙者此淵ニ留主と成候由申伝」と、鮫河橋の地名由来と絡めた伝承を紹介しています。ちなみに、鮫河橋の由来の一つ、「さめ馬が橋」説に関しては、馬の持ち主としてこの源義家のほか、徳川家康、牛込行元寺の僧が挙げられています。義家の場合、奥州遠征の途上の出来事とされますが、これは当地が→ 「長禄年間江戸図」に書き込まれた奥州古道中、山中分にあたるとする説と関連しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。 

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    1. 路地を出て右折、20mほどで左折ですが、上掲「実測図」には反対側からの水路も描かれています。

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    2. 左折した先です。元鮫河橋北町の書上によると、このあたりの下水は「巾弐尺」でした。

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    3. 右手崖面に沿い始めます。台上には四谷南寺町があり、今でも多くの寺院があります。

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    4. 若葉公園に突き当たります。「実測図」で池が描かれているのはこのあたりです。

元鮫河橋北町

2014-09-09 06:51:23 | 城西の堀川2

 鮫河橋谷町の西隣の町屋、及び北隣の離地から鮫河橋北町は構成されていました。表町や仲町から見て北側にあるための名前です。二つの区画のうち、本町一円には入、離地には日宗寺前という通称がありましたが、うち、今回の西からの谷筋と関わる本町の通称について、「御府内備考」は次のように書いています。「町内里俗一円入と相唱申候右者同所仲町ニ而申上候通此辺往古豊島之入江之角ニ付古名今以残居候儀ト奉存候」 また、この通称は橋名にも反映していました。「板橋 長壱間巾五尺 右者町内入口ニ而名目入江之橋共入之橋共申候」 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 前回の路地の続きで、徐々に狭くなりながら北西に向きを変えます。

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    2. 左手から合流する谷筋の底にある道路ですが、出来たのは昭和になってからです。

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    3. 徐々に上り坂に差し掛かります。ここから先は現行の住居表示で信濃町です。

 <永井家下屋敷>  上掲「実測図」で沼地の描かれている谷筋は、江戸時代初め→ 「寛永江戸全図」の描く永井家の下屋敷内にありました。永井尚政は山城淀藩10万石の藩主で、秀忠、家光時代の老中でもあります。その子孫の代になり、宗家である大和新庄藩永井家下屋敷をはじめ、旗本屋敷などに細分されましたが、一帯は尚政の官名である信濃守にちなみ、信濃原、信濃(殿)町と通称されるようになります。「信濃原 信濃町とも云鮫ヶ橋に接地なり永井信濃守屋舗あるゆへの里俗名なりといふ」(「御府内備考」) 明治に入り、範囲を拡大して東西の信濃町が成立、現在は併せて信濃町となっています。

 


鮫河橋谷町

2014-09-08 07:18:56 | 城西の堀川2

 鮫河橋のあった元鮫河橋表町まで戻り、鐙(あぶみ)ヶ淵を水源の一つとする、北側からの水路を追います。元鮫河橋表町の北側の町屋が今回テーマの鮫河橋谷町ですが、ここでも二本の水路が合流していました。→ 「段彩陰影図」の描く北側、甲州街道近くからのものと、西側の二つの谷頭からのものです。「下水 巾三尺 右者は町内表通地先を相流四谷南寺町日宋寺境内池より流出武家屋舗脇より元鮫河橋北町え相掛当町に入末者元鮫河橋表町之方に相流候」 「下水 巾弐尺程 右者当町西裏地附を相流申候水源者同所陽光寺境内鐙ヶ淵より流出元鮫河橋北町より当町裏ニ相掛南之方ニ而前書下水ニ落合申候」(「御府内備考」) 後者の水源の鐙ヶ淵については、数回前に引用した元鮫河橋表町の書上にもありました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 出羽坂下です。「切絵図」には1.と2.を結ぶ流路を描いているものもあります。

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    2. 北側からの水路はこのまま直進ですが、今回は左折して西側からの水路をたどります。

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    3. 40mほどで右折です。数年前に訪れた時、この横道には「公共溝渠(水路敷)につき駐車禁止」とありました。

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    4. 右折した先の路地です。「御府内備考」のいう「当町西裏地附」ですが、徐々に狭くなります。

千日谷

2014-09-06 18:08:00 | 城西の堀川2

 元鮫河橋南町の旧名は千日谷町、元鮫河橋千日町ですが、これは当地が千日谷と呼ばれていいたためで、その由来となった一行院は現存しています。「永固山一行院 鮫河橋の西の方、千日谷に在り。浄土宗にして、開山は源蓮社本誉利覚和尚といふ。慶長年間草創す。昔は僅(わずか)の草庵なりしを、永井家開基して一宇の浄刹とす。開山利覚和尚は則(すなわち)永井信濃守尚政に仕へけるが、剃染して此地に庵をむすび、千日の間常行念仏をす。結願の時、千日不退転の回向を勤む。依て道俗群衆せしより、千日寺と唱へ、又此所を千日谷と呼ぶとなり。」(「江戸名所図会」) なお、元鮫河橋南町の書上では、庵をむすんだのは利覚和尚ではなく、「(尚政の先代の)永井直勝様御仲間」となるなど、事実関係に異同が見られます。

 

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    ・ 元鮫河橋南町通り  昨日UPの通りの西端です。正面台上は外苑東通りですが、昨日UPの→ 「実測図」を見ると、谷頭を築堤で分断しているのが分かります。

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    ・ 千日谷  上掲写真の左手の坂からのショットです。元鮫河橋南町の書上に「水源者西之方久野伊織様御屋舗」とあった、紀州家家老久野氏の屋敷はこのあたりを占めていました。

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    ・ 千日坂  信濃町駅に上る坂ですが、解説標識には、「かつての千日坂は明治39年(1906年)の新道造成のため消滅し、現在の千日坂はそれと前後して造られた、いわば新千日坂である」とあります。

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    ・ 一行院千日谷会堂  千日坂の中腹からのショットで、高架は首都高新宿線のものです。首都高工事によって境内は縮小されましたが、その際の出土品は区の有形文化財に指定され、保存されています。

元鮫河橋八軒町

2014-09-05 07:01:03 | 城西の堀川2

 西側からの大下水の南側は元鮫河橋南町ですが、北側には同じ元鮫河橋に属する八軒町がありました。東にあった元地が明暦年中、紀州藩の屋敷地に囲い込まれたため、当地に移転してきたもので、住居が八軒だったことがその名の由来です。なお、移転当時の当地について、「御府内備考」は次のように書いています。「其比(ころ)池沼ニ付築立候得共一体山際ニ而地低平生清水湧出雨後ニハ乾兼候・・・・今ニ土中え壱弐尺細竹ヲ差込候得者水吹出申候」 また、下水については「巾壱尺 右者町内南側雨落ち下水ニ有之西之方より東之方得流同所北側大下水え本述寺前ニ而落合申候」としていますが、明治27年(1894年)の甲武鉄道の新宿・牛込間開通に伴い、大半がその用地となったため、この区間の流路をたどることは困難です。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ JR線下の側溝  甲武鉄道開通の際、築堤下の側溝に付替えられたものと思われます。なお、右手のガードの先は新助坂ですが、ここまでの右手が八軒町でした。

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    ・ 元鮫河橋南町通り  水路の一つ南側は、江戸時代、元鮫河橋南町の表通りにあたります。上掲「実測図」にある発昌寺の前からのショットで、この右手にも水路が描かれています。

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    ・ 元鮫河橋南町通り  千日谷と呼ばれる谷頭付近です。「実測図」の描く通りは右折、左折のクランクで千日谷を抜け、今は外苑東通りのある正面の台上に上っていました。

元鮫河橋南町

2014-09-04 17:25:00 | 城西の堀川2

 前回引用した元鮫河橋表町の書上のいう「南町より之下水」を追って、赤坂御用地鮫が橋門前から西に向います。元鮫河橋南町は百姓町屋として起立の当初は、千日谷町、元鮫河橋千日町と称していましたが、元禄年中に町方支配となった際、仲町や表町の南に位置することから、元鮫河橋南町と改称したものです。「御府内備考」に収録された南町の書上によると、同町を流れる下水は「巾弐尺」でした。「右者町内雨落下水ニ而西方より東方え流当町裏通ヲ流候水源者西之方久野伊織様御屋舗内より出当町ヲ経而八軒町大下水え落合同所仲町同所表町裏通より鮫河橋下水え落合申候」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。  

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    1. 香蓮寺門前です。赤坂御用地鮫が橋門前から香蓮寺門前の石橋まで、水路跡を思わせるものはありません。

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    2. 香蓮寺の西隣の本述寺前を過ぎます。ここにも石橋が架かっていました。「御府内備考」の数字で「長弐尺幅七尺五寸」です。

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    3. 高架は首都高新宿線ですが、水路はその右手にあったはずです。ただ、JR線の築堤によって、水路と重なる道路は失われました。

元鮫河橋表町

2014-09-03 07:04:10 | 城西の堀川2

 鮫河橋の架かっていたところには、元鮫河橋表町という町屋がありました。そこで北および西からの二本の下水が合流し、鮫河橋を経て紀州藩中屋敷に流れ込んでいました。「下水 巾五尺 右者町内北之方ヲ相流申候水源者同所北町ノ西之方鐙ヶ淵と申所之清水流出又此辺悪水其外南町より之下水等落合有之末者南之方ニ而紀州様御屋舗え入赤坂之方え流出申候鮫河と相唱候儀者同所仲町町名之所ニ委細申上候元此辺田地ニ而有之節用水堀之由ニ御座候」(「御府内備考」) 下掲「実測図」に描かれた水路中、北側からのものが鐙(あぶみ)ヶ淵を水源とするもの、西からのものが「南町より之下水」です。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 鮫が橋門前  赤坂御用地鮫が門から北側のショットです。正面がみなみもと町公園ですが、その手前付近で二本の下水は合流していました。

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    ・ 鮫ヶ橋せきとめ神  みなみもと町公園の片隅に祀られています。元は鮫川の堰の傍らにあり、堰き止めが咳き止めに通じるとして、信仰されたともいわれています。

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    ・ JR線、鮫ヶ橋通ガード  JR線以南の道路は付替えられていて、水路とは重なりませんが、ガードがあるのは上掲「実測図」の上端で、北側からの水路がクランクしているところです。

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2014-09-02 06:57:23 | 城西の堀川2

 「鮫河(さめが)橋 紀州公中館の後、西南の方、坂の下を流るゝ小溝に架すを云。今此辺の惣名となれり。俚諺に、昔此地海につゞきたりしかば、鮫のあがりしゆゑに名とすといへ共、証とするにたらず。或人云く、天和二年公家の御記録に、上一木村鮫が橋とありと云々。然(しかる)時は此辺も一木の内なりとおぼし。又佐目河に作る。千駄ヶ谷寂光寺鐘の銘に鮫が村ともあり。」(「江戸名所図会」) 「御府内備考」の数字で、「長二間幅二間」の板橋でした。「東京府志料」では「町一間半幅二間」となっています。なお、橋名の由来としては、「図会」にある鮫の出没する「鮫が橋」説のほか、「江戸砂子」は、さめ馬(目の縁の白い、ないし毛の白い馬の意)が落ちた「さめ馬が橋」説、周辺の雨水の流れ込む「雨が橋」説を紹介しています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 鮫が橋」  「鳥の跡 淋しさや友なし千鳥声せずは何に心をなぐさめがはし 茂睡翁」

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    ・ 鮫河橋坂  左手にある紀伊藩中屋敷(現赤坂御用地)の西縁に沿い、鮫河の谷筋へと下る坂で、「御府内備考」では大坂となっています。その先はすぐ安鎮坂(権田坂)の上りです。

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    ・ 鮫が橋門前  江戸時代の坂は傾斜を緩やかにするため、左手に大きくカーブしていました。そのため、坂下にある橋も現在の坂下とはズレ、正面の赤坂御用地鮫が橋門の奥にありました。

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    ・ 安鎮坂(権田坂)  付近にあった安鎮と呼ばれる小社が名前の由来です。また、別名は権田家の屋敷があったことから、一帯が権田原と呼ばれたことに因んでいます。

鮫河橋

2014-09-01 07:06:29 | 城西の堀川2

 汐留川水系に属する河川のうち、最上流の一帯の惣名が鮫河橋(さめがはし)です。「紀伊国坂の下に、大溝あり、その所にかゝる橋なり、今は此の辺の地名となりて、すべて鮫ヶ橋と云へり『江戸紀聞』 案(あんずる)に世の人鮫河橋を四ッ谷中の小字とするは誤なり、此辺古へ山中村と称せしを、御入国の後伊賀者の知行に賜はりしより、一ツ木村と改めしよし、然(しか)るに橋の名殊に名高かりければ、後年町並と成し時、橋名をおはせて町の名に唱へ来りしより、遂に此辺の惣名となれりと、土人いひ伝へり。」(「御府内備考」) 前回引用した「東京府志料」が鮫河について、「水源ハ鮫河橋ヨリ出テ」としているのは、広域地名としての鮫河橋だということになります。なお、橋のほうの鮫河橋やその名前の由来については、次回のテーマとします。

 

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    ・ 「寛永江戸全図」  寛永19年(1642年)頃とされる「寛永江戸全図」(之潮刊)の該当個所をイラスト化したもので、武家屋敷名などの大半は省略しています。なお、濃いグレーは崖面で、前回UPの→ 「段彩陰影図」の描く谷筋の様子と重なります。

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    ・ 須賀神社  四谷の総鎮守で、北端の谷頭を右岸から望んでいます。寛永年間に稲荷社が移転、のち須佐之男命が合祀され、四谷天王社、牛頭天王社として信仰を集めました。

 <元鮫河橋>  「御府内備考」によると、鮫河橋を冠する町屋は七つあり、谷頭にある谷町のみが鮫河橋谷町、他の仲町、表町、南町、北町、八軒町、陽光寺門前には、元の一字がついていました。これは寛文4年(1664年)、伊賀者35人が新たに拝領した町屋(鮫河橋新伊賀町、のちの鮫河橋谷町)に対し、従来の町屋に元を冠したものです。これら従来の町屋の起立の経緯を、「御府内備考」の元鮫河橋仲町の項から要約すると、家康入国当時は、伊賀者の知行する一木(ひとつぎ)村内の「葭沼」であったが、元和年中から新田開発が行われ、寛永13年(1636年)の外堀開削の際は、「上土頂戴仕右田地ヲ弐三丈位築立」、慶安(1648~52年)の頃までに百姓町屋となりました。
 同書には「地低之場所故平生共清水湧出道悪処ニ付同上土猶又頂戴仕築上候間相応の町並ニ相成候」、「当所葭沼之儀古来より申伝之所今ニ所々ニ而井戸等堀候節弐三丈下より古腐葭等一面ニ有之候其上深く堀等候得者(えば)貝殻出候儀御座候」といった記述もあり、上掲「寛永図」の描く谷頭の様子と重なります。なお、同図に黒実線で書き込んだのは、「明暦江戸大絵図」の紀州屋敷の範囲で、周囲の百姓地などを取り込み、「寛永図」のそれよりも拡張しています。また括弧付の田、町も「明暦図」のもので、谷筋全体はなお田地ですが、紀州屋敷と隣接する鮫河橋仲町、表町のところに町屋が出来ているのが分かります。これが次の「寛文図」になると、谷筋の全域が町屋となり、田の書き込みはなくなります。