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須賀神社

2014-09-16 06:08:00 | 城西の堀川2

 日宗寺のある谷頭を右岸から望むのが、江戸時代は四谷天王社、牛頭天王社と呼ばれた須賀神社です。「牛頭天王社 同所伝馬町一丁目、二丁目の間の左側の横小路を入て、二丁許り西にあり。故に俗字名(あざな)して此小路を天王横町といふ。祭神素戔嗚尊。」(「江戸名所図会」) 天王横町から東福院坂、別名天王坂を下り、その先が須賀神社です。なお、社伝によると、元々は清水谷にあった一ッ木村の鎮守の稲荷社で、寛永11年(1634年)、江戸城外郭拡張のため当地に遷りました。それから数年後、島原の乱の当時、輸送に従事し功のあった日本橋大伝馬町の人々が、甲州街道沿いを拝領して四谷伝馬町を起立ますが、その際、旧地の守護神である素戔嗚尊をこの稲荷社に合祀します。以来四谷地域の総鎮守、四谷天王社として信仰されてきましたが、例によって明治の神仏分離令によって、須賀神社と改称され今日に至っています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 四谷牛頭天王社」  源氏雲に覆われた右下のくぼ地が今回の谷頭一帯で、右下隅の妙行寺は日宗寺の南隣の寺院です。

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    ・ 須賀神社  参道を上って右手の鳥居、奥の社殿と位置関係は今も変わりません。ただ、「図会」に描かれた文政11年(1821年)竣功の社殿は、先の大戦で失われました。

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    ・ 須賀神社  その参道の中腹から谷頭を見下ろしています。正面が「図会」にもある妙行寺で、その奥が日宗寺です。前回の水路は両寺院の間に位置しています。

 <四谷>  「今四谷と称するの大様東は四谷御門御堀に限り西は内藤宿追分に及ひ南は紀伊殿御屋舗及ひ鮫ヶ橋千駄ヶ谷等に続き北は市ヶ谷大久保に境ひたれと地形多く犬牙して定かならす又内藤新宿ハ元四ッ谷の地なれと元禄年中新に宿駅を立られしより御代官の支配所となり四ッ谷外の地となれり」(「御府内備考」)
 地名由来は大きく二説で、四谷との表記から四番目の、ないし四つの谷説、そして四家との表記から四つの家説です。市ヶ谷(一ヶ谷)と対の四番目の谷説、「千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷の四谷」(「江戸砂子」)、「東西南北とも谷有故に四ッ谷と号する」(「南向茶話」)などの四つの谷説に対し、「御府内備考」は「文字につきての憶説にして取べきものあらざれは」と切って捨てています。同書は四つの家説に立っていて、「右四家の内梅屋保久屋は子孫今に此地にあり」としています。