神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

元鮫河橋八軒町

2014-09-05 07:01:03 | 城西の堀川2

 西側からの大下水の南側は元鮫河橋南町ですが、北側には同じ元鮫河橋に属する八軒町がありました。東にあった元地が明暦年中、紀州藩の屋敷地に囲い込まれたため、当地に移転してきたもので、住居が八軒だったことがその名の由来です。なお、移転当時の当地について、「御府内備考」は次のように書いています。「其比(ころ)池沼ニ付築立候得共一体山際ニ而地低平生清水湧出雨後ニハ乾兼候・・・・今ニ土中え壱弐尺細竹ヲ差込候得者水吹出申候」 また、下水については「巾壱尺 右者町内南側雨落ち下水ニ有之西之方より東之方得流同所北側大下水え本述寺前ニ而落合申候」としていますが、明治27年(1894年)の甲武鉄道の新宿・牛込間開通に伴い、大半がその用地となったため、この区間の流路をたどることは困難です。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ JR線下の側溝  甲武鉄道開通の際、築堤下の側溝に付替えられたものと思われます。なお、右手のガードの先は新助坂ですが、ここまでの右手が八軒町でした。

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    ・ 元鮫河橋南町通り  水路の一つ南側は、江戸時代、元鮫河橋南町の表通りにあたります。上掲「実測図」にある発昌寺の前からのショットで、この右手にも水路が描かれています。

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    ・ 元鮫河橋南町通り  千日谷と呼ばれる谷頭付近です。「実測図」の描く通りは右折、左折のクランクで千日谷を抜け、今は外苑東通りのある正面の台上に上っていました。