神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

赤坂川

2014-09-17 07:14:15 | 城西の堀川2

 「大下水 紀伊殿御屋敷より流て来り、元赤坂町表伝馬町一丁目を通し、田町一丁目より明地上水堀の西を流れ、葵坂辺に至て溜池に合す、溜池落口の処を少しく幅広まりて、その形瓢に似たり、よりてひょうたん堀といへり、『江戸砂子』に赤坂川は鮫河橋の方より来りて、流末桜川に落ると書しは、此大下水の事なり、榎坂の辺より分派して、地中を堀通し、霊南坂の脇より桜川の方へ達せり。」(「御府内備考」) なお、「明地上水堀」というのは玉川上水のことで、四谷門外で城内に入るものと分かれ、右折して外堀沿いを南下する分流です。「喰違外元赤坂町の辺より、御堀端明地の内を堀通し、表伝馬町一丁目より埋樋と成り、それより又溜池明地内を流れて、南の方葵坂に達す、此上水元は大下水の西を流れしが、水利不便なるにより、文化八年今のごとく堀改められしなり。」(「御府内備考」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、元の外堀(溜池)を挟んで左が港区、右が千代田区ですが、「近傍図」当時は赤坂区と麹町区です。

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    ・ 赤坂見附交差点  外堀通りと青山通りの交差点を、赤坂見附跡横の陸橋から撮影したもので、外堀通りが谷筋にあるのが分かります。この谷筋を手前から外堀、玉川上水、大下水が流れていました。

 <赤坂>  「赤坂は元一ツ木中の小名なりしが、後年広く推及ひて惣名となりしなり、・・・・今赤坂と称する地域の大やうは、東の方御堀に限り、西は青山に接し、南は麻布に隣り、北は紀伊殿御屋舗に限たれと、昔は猶(なお)四ツ谷御門外辺まで一ツ木の地域なりしとみへ、・・・・」(「御府内備考」) 一ツ木は中世からのの地名で、「小田原衆所領役帳」に太田大膳亮の所領として「一木貝塚」の名がみえ、また江戸初期には鮫河橋も一ツ木村のうちであったことは、該当個所で触れたところです。
 ところで、赤坂の地名由来ですが、大きく分けて二説あります。一つは紀州家中屋敷辺がアカネの産地だったためアカネ山と呼ばれ、そこに上る坂を赤坂といったとするもので、「江戸名所図会」は迎賓館脇の→ 紀伊国坂を赤坂としています。もう一つは一帯が赤土の多い土地だったという説で、安芸広島藩浅野家屋敷(現赤坂サカス)付近と、その場所を特定するものもあります。