神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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鮫河橋

2014-09-01 07:06:29 | 城西の堀川2

 汐留川水系に属する河川のうち、最上流の一帯の惣名が鮫河橋(さめがはし)です。「紀伊国坂の下に、大溝あり、その所にかゝる橋なり、今は此の辺の地名となりて、すべて鮫ヶ橋と云へり『江戸紀聞』 案(あんずる)に世の人鮫河橋を四ッ谷中の小字とするは誤なり、此辺古へ山中村と称せしを、御入国の後伊賀者の知行に賜はりしより、一ツ木村と改めしよし、然(しか)るに橋の名殊に名高かりければ、後年町並と成し時、橋名をおはせて町の名に唱へ来りしより、遂に此辺の惣名となれりと、土人いひ伝へり。」(「御府内備考」) 前回引用した「東京府志料」が鮫河について、「水源ハ鮫河橋ヨリ出テ」としているのは、広域地名としての鮫河橋だということになります。なお、橋のほうの鮫河橋やその名前の由来については、次回のテーマとします。

 

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    ・ 「寛永江戸全図」  寛永19年(1642年)頃とされる「寛永江戸全図」(之潮刊)の該当個所をイラスト化したもので、武家屋敷名などの大半は省略しています。なお、濃いグレーは崖面で、前回UPの→ 「段彩陰影図」の描く谷筋の様子と重なります。

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    ・ 須賀神社  四谷の総鎮守で、北端の谷頭を右岸から望んでいます。寛永年間に稲荷社が移転、のち須佐之男命が合祀され、四谷天王社、牛頭天王社として信仰を集めました。

 <元鮫河橋>  「御府内備考」によると、鮫河橋を冠する町屋は七つあり、谷頭にある谷町のみが鮫河橋谷町、他の仲町、表町、南町、北町、八軒町、陽光寺門前には、元の一字がついていました。これは寛文4年(1664年)、伊賀者35人が新たに拝領した町屋(鮫河橋新伊賀町、のちの鮫河橋谷町)に対し、従来の町屋に元を冠したものです。これら従来の町屋の起立の経緯を、「御府内備考」の元鮫河橋仲町の項から要約すると、家康入国当時は、伊賀者の知行する一木(ひとつぎ)村内の「葭沼」であったが、元和年中から新田開発が行われ、寛永13年(1636年)の外堀開削の際は、「上土頂戴仕右田地ヲ弐三丈位築立」、慶安(1648~52年)の頃までに百姓町屋となりました。
 同書には「地低之場所故平生共清水湧出道悪処ニ付同上土猶又頂戴仕築上候間相応の町並ニ相成候」、「当所葭沼之儀古来より申伝之所今ニ所々ニ而井戸等堀候節弐三丈下より古腐葭等一面ニ有之候其上深く堀等候得者(えば)貝殻出候儀御座候」といった記述もあり、上掲「寛永図」の描く谷頭の様子と重なります。なお、同図に黒実線で書き込んだのは、「明暦江戸大絵図」の紀州屋敷の範囲で、周囲の百姓地などを取り込み、「寛永図」のそれよりも拡張しています。また括弧付の田、町も「明暦図」のもので、谷筋全体はなお田地ですが、紀州屋敷と隣接する鮫河橋仲町、表町のところに町屋が出来ているのが分かります。これが次の「寛文図」になると、谷筋の全域が町屋となり、田の書き込みはなくなります。