神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

元鮫河橋北町

2014-09-09 06:51:23 | 城西の堀川2

 鮫河橋谷町の西隣の町屋、及び北隣の離地から鮫河橋北町は構成されていました。表町や仲町から見て北側にあるための名前です。二つの区画のうち、本町一円には入、離地には日宗寺前という通称がありましたが、うち、今回の西からの谷筋と関わる本町の通称について、「御府内備考」は次のように書いています。「町内里俗一円入と相唱申候右者同所仲町ニ而申上候通此辺往古豊島之入江之角ニ付古名今以残居候儀ト奉存候」 また、この通称は橋名にも反映していました。「板橋 長壱間巾五尺 右者町内入口ニ而名目入江之橋共入之橋共申候」 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 前回の路地の続きで、徐々に狭くなりながら北西に向きを変えます。

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    2. 左手から合流する谷筋の底にある道路ですが、出来たのは昭和になってからです。

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    3. 徐々に上り坂に差し掛かります。ここから先は現行の住居表示で信濃町です。

 <永井家下屋敷>  上掲「実測図」で沼地の描かれている谷筋は、江戸時代初め→ 「寛永江戸全図」の描く永井家の下屋敷内にありました。永井尚政は山城淀藩10万石の藩主で、秀忠、家光時代の老中でもあります。その子孫の代になり、宗家である大和新庄藩永井家下屋敷をはじめ、旗本屋敷などに細分されましたが、一帯は尚政の官名である信濃守にちなみ、信濃原、信濃(殿)町と通称されるようになります。「信濃原 信濃町とも云鮫ヶ橋に接地なり永井信濃守屋舗あるゆへの里俗名なりといふ」(「御府内備考」) 明治に入り、範囲を拡大して東西の信濃町が成立、現在は併せて信濃町となっています。