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赤坂門

2014-09-20 07:21:12 | 城西の堀川2

 「赤坂御門 赤坂への出口なれば名とせしならん。『正保御国絵図』には赤坂口と註せり。」(「御府内備考」) 寛永12年(1635年)から翌13年にかけて、まず枡形石垣が出来ました。筑前福岡藩黒田家の担当で、石材は伊豆真鶴から搬送した旨記録されています。門の造営はやや遅れて寛永16年のことで、加藤正直、小川安則両名が普請奉行でした。この日程は江戸城北西の外郭門の場合と同様で、筋違、小石川、市ヶ谷、四谷、喰違の各門も同じ寛永16年の造営です。なお、明治に入り赤坂門は撤去され、その後の現青山通りの開通などによって、石垣の大半も失われました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 弁慶堀  弁慶橋からのショットで、堀の突き当たりに赤坂門がありました。右手の高架は首都高4号新宿線です。 

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    ・ 赤坂門跡  青山通りで南半分が削られた後の石垣です。平成3年の地下鉄工事の際、発掘された地中部分も地下に保存されているようです。

 <寛永13年、最後の天下普請>  慶長8年(1603年)の江戸幕府開府以来、数次にわたる天下普請により、江戸城は整備、拡張されてきましたが、その最後を飾ったのが寛永13年(1636年)のもので、これにより江戸城をめぐる外堀が完成し、外郭門が揃いました。うち外堀の担当は関東、東北の諸大名で、仙台藩伊達正宗、高田藩松平光長、米沢藩上杉定勝などを責任者に七組に分かれ、飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘抜きました。四谷から喰違までの分水界を掘抜いた四谷堀は、松代藩真田家が担当したため真田堀の別名が今に残っています。
 これに対し枡形石垣を担当したのは西国大名で、金沢藩前田利常、熊本藩細川忠利などを責任者に六組に分かれました。この時造営された枡形石垣と担当大名は以下の通りです。浅草(松平忠昌)、筋違(前田利常)、小石川(池田光政)、牛込(蜂須賀忠英)、市ヶ谷(森長継)、四谷(毛利秀就)、喰違(生駒高俊)、赤坂(黒田忠之)、虎の門(鍋島勝茂)、幸橋(細川忠利)。