「赤坂御門 赤坂への出口なれば名とせしならん。『正保御国絵図』には赤坂口と註せり。」(「御府内備考」) 寛永12年(1635年)から翌13年にかけて、まず枡形石垣が出来ました。筑前福岡藩黒田家の担当で、石材は伊豆真鶴から搬送した旨記録されています。門の造営はやや遅れて寛永16年のことで、加藤正直、小川安則両名が普請奉行でした。この日程は江戸城北西の外郭門の場合と同様で、筋違、小石川、市ヶ谷、四谷、喰違の各門も同じ寛永16年の造営です。なお、明治に入り赤坂門は撤去され、その後の現青山通りの開通などによって、石垣の大半も失われました。
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社基準(72dpi)で掲載しています。
- ・ 弁慶堀 弁慶橋からのショットで、堀の突き当たりに赤坂門がありました。右手の高架は首都高4号新宿線です。
- ・ 赤坂門跡 青山通りで南半分が削られた後の石垣です。平成3年の地下鉄工事の際、発掘された地中部分も地下に保存されているようです。
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