神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

喰違見附

2014-09-25 07:39:38 | 城西の堀川2

 「喰違御門 清水坂より紀州御中屋敷へゆく喰違土手の前なれば、かく名付しならん。『事跡合考』云、四ッ谷門の続き木戸喰違門は、小畠勘兵衛昌盛が綱也。先年より井伊掃部頭下館の後、彼木戸間際の榎の大木共は、勘兵衛逆茂木として植たるもの、今に至り数株しげりあるなりと、是台徳院殿(二代秀忠)御代始の事といへり。万治二年所々の御門御造営の時、喰違御門は長谷川久三郎、日根半助を奉行に命ぜられしよし、『万治年録』に載たれば、古くは外々御門とひとしき造りなりしならん。今は仮そめの冠木門となれり。或は喰違土橋とも称す。」(「御府内備考」) 小畠(小幡)勘兵衛は昌盛の子で、「甲陽軍鑑」の編者である景憲の間違いでしょう。なお、赤坂門のところでも参考にした「東京市史稿」収録の史料によると、「喰違小升形」は寛永13年(1636年)、讃岐丸亀藩生駒家が担当しています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 紀尾井坂  紀尾井町通りからの上り口です。左手は井伊家屋敷跡のホテルニューオータニ、右手は尾張家屋敷跡の上智大学です。

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    ・ 喰違見附跡  江戸時代のクランクはS字に緩和されています。右手の土塁は四ツ谷駅まで続くお花見スポットとなっています。

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    ・ 真田堀(四谷堀)  戦後の瓦礫処理で埋立てられ、現在は上智大グランドに貸与されています。(休日には一般公開されています。)