(東マレーシア・ボルネオ島の熱帯雨林の巨大樹たち)
他に類を見ない圧倒的な読後感を持つ、のけ反るような精緻な文学を読んだ。谷崎由依「天蓋歩行」『すばる』2016年5月号(片山杜秀による朝日新聞・文芸時評の記事)。その文学的な美質はとても纏め切れないが、以下、私的な覚書として。
表象の中に自然のあり方を扱っているという意味では、ノンフィクションではないが、ネーチャーライティング。人間と木や花粉の生命活動を言語を超えて捉え、その転生を語るという点では、ある意味、マルチスピーシーズ人類学。それは、我々が訳したコーンの『森は考える』の似姿をした小説である(島田雅彦による朝日新聞の書評記事)。
マレー半島の熱帯雨林からクアラ・ルンプールとおぼしき現代のメトロポリタンを、記憶と感情を区別せずに生きたり死んだりして、時空間に出没する「巨大樹」が主人公。
この都会を構成するものは、すべてかつては森だった。
そしてこの私は、木であった。
泥の川のあわさるところ。
それがこの都市の名前であった。
都市がいまだ都市でなく、二つの川の合流点にある集落にすぎなかったころ、私は森の一部だった。
私は巨大樹と呼ばれていた。私は森そのものだった。
種子として着床する地面を求めて宙を飛んだころの記憶はないが、幼木のころ大木たちが枝葉を見上げるのをただ見ていた。ただひたすら待って、半島を襲った台風のせいで、老いた巨木が倒れひかりが訪れ、細胞という細胞がいたるところで分裂し、光と水を吸い込んで成長していった。
菌類は樹木の神経であり、真菌は糸のかたちをして、地下を複雑にめぐりながら、広大な森の端から端まで繋がっていた。その網の目を通して、蝶の群れが大陸から訪れることを知った。双羽柿がそれを察知し、羽の動きが糸を伝わって根の先を刺激した。報せは信号として伝わった。
木は森でもあり、都会でもある。町の中央の大通りが幹であれば、両側から生えて伸び、その先で幾つにも分岐する道は枝そのものだった。そして、半島では多くの街の名が、木の名にちなんでつけられていた。私たちはかつて木であり、同時に街でもある。
過去のなかで、記憶のなかで、あるいはべつの前生のなかでーー私にとってはどれもおなじことだ。記憶と感情を区別しない私は、過去と前生も区別しない。
女と出会ったのは数年前、あるいは百年の昔。「私はかつて森を狩猟に生きた者であり、その以前には虎であったが、それは束の間だけのことで、そのさらに以前には、長いあいだ木であった」と告げると、女は眦をあげ、あり得ない、と言った。海に囲まれ森林に住まう者たちの国では、命の成り立ちが違うのだ。
私が大陸から来た者である女主人の部屋に呼ばれたのは、彼らにとって不吉な白蝙蝠に餌をやるためであった。白蝙蝠が私のことだけを警戒しないのは、自分たちの仲間がはるか昔、木であったころの私の腕にとまったことを知っているからだ。女は言う。
早朝に目が覚めて、彼方を見遣れば猛るほどにもうつくしい森が、切り出したばかりの貴石のように赤くまばゆく輝いて、一日が、手つかずのままそっくり私に与えられている。すべて、何でもどうにでもできるようにそこにあるのに、昼になっても午後をまわっても、夕べになっても何もできない。ほんとうは何ひとつ私のものではないと知らされる。手のなかで、あんなにも生き生きと鮮やかだった朝は死に、榕樹の林で鳥たちはもはや歌わずに、私は与えられたはずのものが、手のなかでみすみす腐っていくのを日々目にしなければならない。
女は、大都会のかたわらのささやかな森に行くことを好んだ。龍脳樹の葉には消毒作用があり、他の生物の活動を抑制する。がらくたをひっくり返したように散らかっているはずの林床が、その木々の下だけは静まりかえっているのだった。「憐れんだら、負けなのよ。憐れんだほうは憐れまれたほうに、何もかも持っていかれてしまうわ」という女の言葉は、幼木だったころとはべつの、長大な長屋にいた幼年期を思い出させた。
木陰に潜み、大きな口をあけ、虫たちの好むにおいを発しては誘い寄せて虜にする、あの虫喰らいの植物ーー靭葛の膨れた胴体を、村では袋のように扱った。内側に米を詰め、竹筒のなかで炊くことさえもしたーーその靭葛の風船玉のように、自在に膨らませては萎ませることのできるもの。それは前の晩に見た夢だった。
私は靭葛を裏返して内側を覗いたりすると、夢のなかにまた夢があった。そこでは過去が現在を夢見ていた。過去の内側に潜ってゆけば、その果てには現在が、あるいは未来があった。そして、
彼女が私へ入ってくる。私は私の樹冠のなかへ、その身体を受け入れる。地上をはるかに見おろす天蓋を、彼女はゆっくりと歩いてくる。重さのないような足取りで、うっそうとした葉叢を掻き分けて。
やがて中心へと辿りつく。そこは空洞で、私はいない。私は私の樹冠そのもので、輝きながら広がってゆく。彼女のまわりをまわっている。
彼女の正体は、天蓋を歩行する重さのない無数の花粉に包まれたものだった。それが私のなかに入ってくるのだ。
無数の白い花々が私から迸り生まれ出る。ひらき、蜜をあらわにし、蕊は濡れて粉とまじわる。私の器官は膨れ、花心はふくよかとなって鳥たちの歓声を誘う。百年に一度の一斉開花。花は花を呼び、実は実を呼んで、巨大樹と巨大樹は共鳴しあい、葉擦れの音さえも唱和してゆく。地の下を通る菌類のおずおずとしたやり取りでなく、宙空という過分な広がりのなかを渡ってゆく。声。樹木たちの声。
森のなかの交歓のエロティシズム。
ある種の植物はある種の蜂と共犯関係を結ぶ。片方が進化したならば、もう一方もそれに合わせて変わる。蜂の口吻が長く伸びれば、花は蜜を奥深くに隠す。その蜂にしか届かないように。蜂が絶えれば花は絶え、花が絶えれば蜂も絶える。
数万の種が入り乱れる熱帯の相において、はるか遠くに離れた種族へと花粉を届ける手段だった。おなじ形状のべつの花に、おなじ虫をとまらせるための。なまじな恋愛などより恋愛的に見える間柄に、かつて憧れたものだった。巨大樹はへいぜいから茸たちと結びあっていたけれど、森そのものより長い寿命を持つ菌類が絶えることはなく、その関係は共犯というより単に一体だった。
そして、絞殺しの無花果が描かれる。
蔓性の植物のなかには巨大樹の枝で発芽して、長い気根を大地へと差し込み燐の成分を盗むものもいる。樹冠へかぶさるように枝葉を広げて太陽のひかりを奪う。やがて巨大樹を死に至らせて、代わりにその場に立ち尽くすのだ。
あるとき、女は私に、自分の名前を教えるといった。私は即座にそれを制した。言葉以上の名前を教えることは、契約を意味していたからである。しかし、虚を突かれるかたちで、名は告げられる。耳に名前が入り込んでしまったのである。お返しに、私自身の名を告げようとするが、「私をあらわすその名前を私のなかに探した。けれども見つからなかった。私というものはいなかった。言葉において、私は、ただの空白にすぎなかった」。
しかし、名前の魔力が作用し続けており、やがて、女主人の部屋に押し入って乱暴を働いたとして、屈強な男たちによって私は追い出されてしまう。私は船に乗り、やがて私は、陸地にたどり着く。そこで、老貴婦人の世話をするように誘われる。
老貴婦人はその巨大な穴から体液を染み出させている。どうしようもなく湧き出してきて困っているのさ。それを汲み取ってさしあげる。楽にしてさしあげるのだ。
偉大なる老貴婦人とは油田であった。移民労働者たちは、掘り起こした穴を貴婦人と呼んだ。しかし、私にしてみれば、その大地は私の身体にほかならなかった。
じくじくと、皮膚の下から染み出してくる漿液。私の身体が百万年の永い時間をかけて変成したもの。それは私の体液であり、私の懐かしい肢体だった。掘削機を使いながら、あるいは鶴嘴を使いながら、あるいは鶴嘴を振るいながら、土地を掘り、また土地を掘り、灰色の地脈にじわじわと分泌する駅に出会うとき、私は私の硬い皮膚の下に流れるものに気づくのである
魂は休むことなく次々かたちをかえていった。私は、犬となり、鶲であるように感じ、やがて、人間のかたちを回復した。藍色のベールを頬までかぶった女は、私を愛していないなどといいながら、抱きにくるのをやめなかった。「彼女との交わりは、自分の内側を読んでいくような行為だった」。
私は、ひとである必要はなかった。ひとである女と交わりながら、このうえもなく、木であった。
一粒の種子が、私へ芽吹いた。そのことに気づくのと、女が動かなくなるのと、同時だった。
私に着床した一粒の種子は双葉となり、長い気根が地面へ向けてまっすぐに伸びていた。地中の林の成分を吸い上げた。樹冠に咲き乱れる花の香を嗅ぎながら、私は眠っていた。私にぴったりと肌を押しつけた腕は、次第に太く、頑丈に、私を締めつけるようになった。締め殺しの無花果。
房状に生った無花果の実は、じきに艶やかな赤となるだろう。一斉開花の年以外にもつねに実をつける無花果の蔓。生きものたちにとって僥倖である木の、私はこのとき、宿ぬしだった。動物たちが食事を終えれば、家の役目を果たした私を、蔓植物の胴体がいよいよ殺しにかかるだろう。
迫りくる、締め殺しの無花果。しかし、なんのことはない。森の生命現象は、つねに既にそのようなものなのだから。
私を殺し、乗っ取って、無花果は命を振りまく。彼もまたいつか森に喰われる。それは淘汰で成り立っている。記憶も感情も意識さえもが砕かれて、この世界の一部となっていく。
私というものは、やがて消える。一本の朽ちかけた木が、そこに立っている。