たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ビル

2011年01月25日 14時07分02秒 | 文学作品

なぜいま、きみはわざわざそこに行ったのか。これまで何度もその近くまで行っていながら、きみは、いままでそこを通るのを慎重に避けてきた。有名な菓子屋のある四つ角から、大通りを少し上がったところにある住居ビル。扉を押すと、その勢いで、急な階段を駆け上がることになる。一階には部屋はなかった。なぜそうした構造になっていたのか、つらつらと考えてきた。一階は店舗だったのかもしれない。二階の手前にある部屋に、彼女は住んでいた。きみは、四半世紀の時を経て、そのビルがあるはずだと信じてその場所を訪れたが、それはなかった。通り過ぎたのだろうかと思ったのではないだろうか。きみはすぐさま引き返してみたが、なかった。なかったのかどうかも、定かではない。どこにあったのかさえ、たしかではない。ビルの前にあった、鄙びた八百屋も見当たらない。通りの全体の雰囲気はき記憶のなかにあるものと同じだが、細部が違っている。通りを経て向かい側に、きみが彼女とよく行っっていたトロピカルな雰囲気の喫茶店があったが、それは、まだあるのだろうか。オーナーは、親切な女性だった。きみは、通りを渡るために、長い信号を待った。横断歩道の向こう側で、ケータイで話しながら、信号が変わるのを待つ女性がいた。きみは、その女性を、一瞬、彼女と見間違ったのかもしれない。横断するときに、きみがまじまじと顔を見つめたとき、その女性は怪訝な顔をきみに向けた。きみは、細い路地に入って、あの喫茶店を探したが、見当たらなかった。そのあたりは、小ざっぱりした住宅街だった。ことによると、路地を一本間違えてしまったのかもしれない。そうきみは思ったのだろう。そのうちに、きみは道に迷い始めた。突き当りがあって引き返したあたりから、ますます分からなくなった。どれくらいの時間歩いていたのだろうか。そのうちに、きみは、小さな児童公園に行きあたった。年老いた男性が、ベンチで日向ぼっこをしていた。その公園を通り抜けると、大きな通りに出た。その向かい側には、彼女が住んでいたはずの雑居ビル群があるはずだった。南中前の冬の太陽の光が、きみの目に突き刺さり、目くらましをした。それは、車が通らない、音のない大通りに静かに注いでいた。

フリオ(・コルタサル)的な断片