たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



わたしは、日ごろから付き合いのあったプナンの少年からの求めに応じて、彼のことを「信頼/信用」して、100リンギット(約3000円)を貸し与えた。彼は、その金を元手にして、町にスナック菓子などを買出しに行って、それをプナン人の居住地に持ち帰って売却し、150リンギット(約4500円)にした。しかし、彼は、その後、元金を、わたしに返金しようとはしなかった。それどころか、少年は、そのすべての金を、段階的に、自分の飲み食いに使い果たしてしまっていた。  

プナンは、商業的森林伐採の賠償のために支払われる予定の「給料」を担保にして、わたしに、しばしば、借金を申し入れることがある。わたしは、場合によっては、彼らのことを「信頼/信用」して、金を貸し与えることがある。しかし、状況によっては「給料」が出なかったり、出たとしても、病気療養などのために使ってしまったりして、あるいは、ビールなどに消費してしまったりして、状況次第で、返金しない場合がほとんどである。わたしが貸した金は、ほぼ確実に、返ってこない。  

借金の踏み倒し。そういったことをすると、わたしの彼らに対する「信頼/信用」が失われてゆく。日本人なら、おそらくそう考えるだろう。しかし、プナンは、ふつうは、そうは考えない。わたしたちにとって、じつに奇妙なやりくりが、つねに行われている。一言で言えば、それは、共同所有に関わるもの
であるが、その点についてはいったんおくとして、そこでは、「信頼/信用」が、きずなを強めたり、社会関係を築いたりするのに用いられるのではないということについて考えてみたい。いや、「信頼/信用」ということばや概念が、プナンには、そもそも見あたらないという事態について。

他者に対する「信頼/信用」とは、いったい何なのだろうか。それは、その人の言動や言い分を、間違いないもの、真実として受け入れるということである。その場合の真実とは、じつは、思い込みであったり、望みであったり、なんらかの確信であったり、あるいは、思い違いであったりする。わたしたちは、「信頼/信用」ということばを、かんたんに使用できるが、その原理については、じつは、あまり分かっていないという意味では、その概念は、ブラックボックスである。

そうだとすれば、わたしたちは、本来的にブラックボックスであるようなものに実体を与えて、それによりながら、社会関係を築いているというふうに考えられないだろうか。その点を踏まえれば、プナンが、そうした「信用/信頼」といったことばや概念を持たないことも、また十分にありえるように思われる。「信頼/信用」というような、わたしたちの社会では、心の深いところにあって、人間関係を基礎づけているような何かを、プナンは想定していないとでも言うことが、ことによると、できるのかもしれない。

心のなかに「信頼/信用」することが、与えられていないような真空状態。仮にそういう状態があるのだとすれば、相手を「信頼/信用」し、逆に、相手から「信頼/信用」されることによって、お互いの絆が高まってゆくというようなことがないわけである。少なくとも、言葉として、概念として、そこでは、そういうことが、表現されることがない。こうした事態は、人の心にとって、何を示しているのだろうか。文化の精神分析を突き詰めることなしには、問題の入り口にすら立つことができないのかもしれない。

 (サゴやしを食す)



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