昨晩のことである。<野宿者>を卒論研究のテーマとしたS.N.くんと話しこんでいて、急に、その場にいたN.Y.くん、Y.K.くんとともに、<野宿者>に出会いに、総勢4人で出かけることにした。
大学から車で出発し、30分ほど行ったところにT川がある。その河川敷沿いを探すこと30分。ブルーシート掛けの小屋の中に寝転がっていた<S>さんに、S.N.くんが声をかけて、途中で買ってきた酒をふるまいながら、小一時間、話を聞いた。<S>さん(自称60歳)は、年金をもらっているが、それだけで暮らしていくことはできず、缶集め(キロあたり130円)をしながら、生活しているのだという。この一年半の間に、3~4度、突然の訪問者殴られ、あるいは、逆に、殴り返したことがあると語った。
「好きでホームレスをやっているんではない」「わしはもう終わったけど、いい社会にするように、君たち(学生たち)に期待したい」ということば。ガハハハハという豪快な笑い方。細かなことに腹を立てて「文句あっか、てめえ」と繰り出す乱暴な物言い。「ありがと、ありがと、ありがと・・・」という感謝のことば。それらが、いま、わたしの耳の奥に残っている。<S>さんの抱えている問題、葛藤の重さ、深さを思う。
汗や酒の染みついたマットから立ちのぼって、小屋の入り口にまで、彼の生身の温度のようなものが伝わってきた。小屋の前にしばらく座っていて、ふと、わたしは、森の民プナンの住まいを思い出した。プナンは、あたりを見回して、木々を取ってきて、巧みに、雨露をしのぐための空間を、きわめて短時間でつくりあげる(写真参照)。木の骨組みにビニールシートをかけるのが、今日の一般的なやり方である。プナンの場合高床式でありが、日本の<野宿者>の場合、地面の上に直接的にマットを敷くというちがいはあるものの、両者の住まいの基本的な構造は、驚くほど似ている。
ところで、<S>さんたちは、なぜ<ホームレス>と呼ばれるのだろうか、と思う。なぜ、<野宿者>なのであろうか。家がないこと、野に寝て夜を明かすことは、彼らの全体の一部にすぎないのではないだろうか。それは、人間関係の失敗、借金、けんか、離婚、家庭崩壊・・・などなどの、彼らにとっての問題に並ぶもののひとつではないのだろうか。そのような語は、けっして、彼らが抱えている問題を表象しつくしているわけではないと思う。いやいや、そうではないのかもしれない。そうではなくて、「住む家がない」「住む<べき>ところがら追い出された」ということこそが、現代社会においては、甚大なのかもしれない。
目の前にあるものをシェアーし、問題のありかをぼやかしておいて、個人に責任追及することはないプナン社会では、暮らすことは、基本的に、なんとかなる、いや、誰かが、なんとかしてくれる。プナン人たちにとって、住まいとは、短時間で組み立てられる、あくまで「仮り」のものであり、それは、使わなくなって朽ち果てようと、誰かが代わってそこを占拠しようと、彼らは、いっこうに気にしない。プナンにとっては、どんなにみすぼらしくても、人が住むところが<ホーム>(=lamin)であり、その破綻形態(=<ホームレス>)はない。プナン人は、<ホームレス><野宿者>について、想像力の範囲を超えた出来事として、イメージすることができないのではないかと思う。
<ホーム>に関して、現代日本社会とプナン社会の間にある隔たりを思う。<ホームレス><野宿者>に関する限り、わたしたちは、解決する前にすでに解決されてしまっているプナン社会のような仕組みをもっていない。