たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

神の怒りおそるべし、獣をさいなむべからず

2006年11月29日 11時26分38秒 | 人間と動物

その日は、夜になって、雨が降り続いていた。熟睡していたわたしは、午後10時ころ、「大水だ、気をつけろ (jaau bea, jaga) 」ということばで、眠りから起こされた。瞬間、川の流れは、大音量で、わたしの耳へと届けられた。見ると、川の水が、3家族が集うジャングルのキャンプのすぐそばにまで、迫ってきている。川幅は普段の倍のものとなり、水位は1メートル強ほど上がっていた。

次に、女たちが、大声で、唱えごとをしているのがわたしの耳に入った。見ると、じっとしていられなくて、彼女たちは、あたりをあちこちへ歩きまわりながら、手をふりあげ、声を裏返らせて、必死に、祈願のことばを唱えていた。

Eh, maneu daau, maneu adee.
Pah avi lengedeu bateu hujan, pah avi lecak tana, pah avi tavi tana…
Ami manyi amu mulie, ami manyi jaji, ami manyi tebeku ngan kuuk...

なりを上げ、稲光を放つ。
人を石にする雷がやって来た、大地をこわし、大地を台無しにする…
あなたよ(=雷神よ)どうか退いておくれ、わたしたちとそう約束しておくれ、約しておくれ。


このまま水量が増えつづければ、いったい、どうなってしまうのだろう。キャンプの周囲は平らな土地であり、逃げ場がない。われわれはみな、大水に飲みこまれてしまうにちがいない。わたしは、キャンプに集う10名ほどのプナン人たちとともに、恐怖を感じた。それから1時間ほどすると、しだいに川の水は引いていった。

デンプンを抽出するためのサゴの木を求めて、ジャングルのなかを移動し、生活用水を供給する川のそばにキャンプを張っていた、ノマド時代のプナン人にとって、大水は、潜在的な脅威であったにちがいない。それは、有史以来、彼らにとって、最大かつ唯一の「自然災害」であったのではないだろうか。

そのような大水、そして、それを引き起こすことになる雷雨は、プナン社会では、雷神 (balei gau, balei liwen)によってもたらされると考えられてきた。日中照りつける熱帯の強烈な太陽によって、過度の湿り気を得て立ちのぼる蒸気は、雷雲となって、やがて、グウォウォウォーンというものすごい響きとともに、天空でうなりを上げる。稲妻は、遠くからだんだんと近づいてくる。それらの自然現象は、プナンにとって、天空のかなたからの、おそろしい神の怒りとしてイメージされてきた。

怒りとは、原義として、他者がおこなった<まちがった>行為に対するいきどおりにほかならない。雷神は、ときに、人間がおこなった<まちがった>行為に対する怒りを爆発させ、<まちがった>行為をした当の人たちだけでなく、その周囲の人びとにまで襲いかかろうとする。そのとき、人間は石と化し、焼けただれた大地は、血の色で赤く染まるとされる。

プナン人にとって<まちがった>行為とは、何を指すのだろうか。それは、広い意味で、ジャングルに住む獣たちをさいなむことである。

キャンプの籐のバッグのなかに入れてあった獣をちらっと見て、わたしが「お、鶏(dek)か」とつぶやいたとき、わたしの目の前にいた男は、そのことばを聞いて、あわてふためいた様子だった。彼は、「ちがう、それは、わなにかかった野生の鶏(amai, iteu datah jin biu)だ」と言い直した。そのことから、わたしは、プナン社会で、ジャングルに住む野生の鶏を、それと姿かたちが似ている鶏とまちがって呼ぶことが、強く禁じられていることを知ることになった(逆に、すなわち、鶏を野生の鶏と呼ぶことは、問題ではないとされる)。それは、野生の鶏をあざ笑い、さいなむことになる。その<まちがった>ことばは、雷神へと届けられ、その怒りを買うと考えられている。

べつの機会に、わな(biu)に掛かって生きたまま持ち帰られた野生の鶏は、キャンプのリーダーがそれをほふるまでの数分間、キャンプの人びとに、沈黙を強いることになった。その獣に対して、<まちがった>ことばや行為が発せられた場合、雷神の怒りに触れることになると考えられたからである。<まちがった>ことばや行為は、獣が死んでからより生きているときに聞かれたり、なされたりしたほうが、危険度が高いと考えられている。

<まちがった>行為をしてはならない。そのような規則は、ジャングルやその周辺に住む「狩猟対象の獣」および「猟犬」に対して適用される。家で飼われている鶏は、そのような規則の適用から除外される(家畜化された鶏は、プナンにとって、たんに飼われているだけの存在である)。プナンはよく、狩猟でしとめられた獣は、解体・料理して、たんに食べるだけであるという。その間に、<まちがった>行為をしないようにしなけらばならない。とりわけ、マレーグマ(buang)とテナガザル(keledet)は、解体から食べるまでの過程で、その名前すら発してはならないとされる(あるいは、べつのことばに言い換える)。このように、プナン社会では、雷雨や大水を引き起こす、人間の側の<まちがった>ことばや行為とは、広い意味で、狩猟される獣をさいなむような、人間の態度、ふるまいにほかならないのである。

要するに、ここでいう<まちがった>ことばや行為の範疇には、獣の名を(まちがって)呼んだり、獣のみにくさをあざ笑ったり、獣が糞便をするのを笑ったり、猟犬が交尾をするのを見てはやし立てたり、川の魚を取りすぎたりすること…などが含まれる。ジャングルに住む獣は何でも食べるという狩猟民プナンにとって、狩猟される獣に対する特定の人間の態度を<まちがった>ものとして申し立てることは、狩猟対象としての獣こそが、プナンの日常の最大の関心事であり、それと同時に、それが、日々襲い来る雷雨や大水の原因を考えるのに適していたからではあるまいか(人間が獣に対してつつましい態度を取ることが、獣を尊重することにつながり、その結果、動物の乱獲を抑制し、人間と環境の調和を維持してきたという説明は、そのようなタブーと雷雨や大水の発生の関係を説明していないという点で、片手落ちであろう)。

獣をさいなむと、雷神の怒りを買うことになる。
おそるべきは、神の怒りであり、人は、獣をさいなむべからず。

(写真は、生きたままキャンプに持ち帰られた野生の鶏とゆううつな人びと)

【追記】
この問題は、1960年代に、ニーダム(プナンの事例)によって報告・検討され、それ以降、フリーマン(イバンの事例)、ポール(オラン・アスリの事例)、エレン(東インドネシアの事例)、メトカーフ(ブラワンの事例)、キング(マローの事例)などによって報告・議論されてきた、いわゆる「カミナリ問題」の文脈の上にある。「カミナリ問題」とは、マレー・インドネシアの広い地域にわたって、雷雨や大水、洪水などの「自然災害」が、人びとが動物をからかったり、さいなんだりすることにかかわると考えられており、また、落雷によって、人間が石化したという話が存在することを含む、エスノグラフィックな研究課題である。

かつて、わたしが調査したカリス社会(ボルネオ島の焼畑民)でも、「カミナリ問題」をめぐる逸話をたくさん蒐集することができたが、そこでは、人間と動物の関係が明らかでなかった。だが、狩猟民プナンの調査をつうじて、彼らが、ジャングルに住む獣を食材として重用し、それらと日常的にかかわるがために、そこでは、人間が動物に接するあり方が禁忌として構成されるプロセスが、よりあざやかに浮かび上がるように、わたしには思える。


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