昨夜帰国した。クチンについたときも別世界であると感じたが、日本は、プナンの地からはもう一段上の別世界である。一国のなかにそれほどのちがいがある不思議さ。地球上にこれほどのちがいが存在することの驚き。逆に言えば、異質なものが、たんに一国のなかに収められているだけのことかも。地球上の平面のなかに収められているだけのことかもしれない、と思う。
以下は、数日前に、プナン人たちがチャーターした車に便乗して、ビントゥルという町に出てきたときの話。 午後10時にビントゥルの町に降り立った。9人のプナン人のうち、子どもが二人含まれていた。そのうちの一人の子ども(10歳)は、初めてのビントゥルに、裸足で降り立った。久しぶりに、町を歩く裸足の少年を見た。中進国マレーシアでは、その光景は珍しいものだ。ナイトバザールに、食事に出かけた。翌朝、少年の父親は、スリッパを買い与えた。
ホテルに戻って、父親はその少年に尋ねた。「ここは何の世界?(Dalee ineu iteu?)」と。少年は答えた。「ビントゥル世界(Dalee Bintulu)」であると。プナン人たちは車で4時間ほどで、ビントゥルに出て来れるようになったが、そのような言い回しは、都市が彼らにとって、遠くの別の世界であることを言い表しているように思えた。
プナン人たちは、一泊40リンギット(1300円ほど)のホテルの部屋に、大人4人、子ども1人で泊まった。わたしもそこに寝泊りしたが、夜通し、テレビをつけっ放したままだった。トイレの蛇口はひねって水を出すタイプのものではなく、上に持ち上げると水が出るタイプのものだった。彼らは、一時、水が出ないと大騒ぎした。
翌朝、何人かは銀行に出かけ、残りの者は、町をぶらぶらと歩いた。今月だけで少なくとも3頭のイノシシをしとめたハンターと4頭のイノシシをしとめたハンターが、連れ立って、金も持たず、電気屋をひやかしていた。わたしは、彼らが行こうとしている方向とは別の方向に歩いていこうとした。そのうちの一人は、「俺は上流に行くよ(Akeu tae dayah)」と、わたしに向かって言った。そのことばで、彼らが、町と並行に流れる川の<上流>と<下流>によって、自らの位置取りをしていること、居場所を確かめていることに気づいた。ランドマークを決めて居場所を確かめるよりも、たしかに、プナン人がやるように、水の流れを標識にして場所を確かめたほうが分かりやすいと、そのとき思った。
ホテルに戻ると、部屋のなかで、5~6人のプナン人が、狭い部屋のなかで、寝そべって、テレビを見ていた。それは、まさに狩猟キャンプのようだった。 プナン人3人と近くの食堂に食事に出かけた。われわれは、まぜごはん(ナシ・チャンプル)を注文した。ごはんの上には、料理されたおかずのうち好きなものを載せることができる。わたしは、一般的にそうするように、豚肉、野菜、卵をバランスよく載せた。他方、プナン人3人は、そろって、豚肉だけをごはんの上に載せてきた。肉があるならば肉しか食べないという、いつもの食事のように。
ビントゥルにおけるハンターたちの休日。それは、プナン人と現代が出会う「コンタクトゾーン(接触領域)」の現象である。コンタクトゾーンの観点から眺めるならば、現代から遠く離れて暮らす人たちと現代との界面におけるズレのようなものが、浮かび上がってくる。それはそれで、ひじょうに興味深い現象である。同時に、ポストモダニストが好むテーマであるように思う。しかし、と思う。重要なのは、コンタクトゾーンを越えて、その先にある、簡単には揺さぶられることがないような、先住民の、狩猟民のエトースに接近して、それを抉り出すことなのではないかと思う。人類学は、そういった人間探究の学なのではないのだろうかと。
(写真は、木材会社の車に便乗して、しとめたイノシシを売りに出かけるプナン人たち)