たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



 クアラルンプールに来てから体調を崩している。昨日はずっと高熱に呻いていた。いまは落ち着いているが、もう一度熱がぶり返せば、マラリアかもしれない。あ~、あの病気だけにはもう二度と罹りたくない。偏頭痛もなければ、食欲がないこともないので大丈夫だとは思うが。

 ところで、カミスは、ある日の午後、カヌーで川をさかのぼって、薪にする材木を切りに出かけて帰ってきた。見ると、左足の運動靴しか履いていない。父に右の靴はどうしたのだと聞かれて、カミスは川に流してしまったとひと言返答した。その運動靴は、カミスの父が狩猟で使うからと、店の主人にたのんで、前日わざわざ町から取り寄せた真新しいものだった。父はそのことをブツブツと述べ立てて機嫌が悪くなったが、その不平をほとんどカミスは聞いていなかった。カミスは次から次へと材木を運び込むだけだった。

 一般に、プナンは、ほとんど謝らない、謝罪しない。"mani maam"という謝罪の言葉はある。一応は、「すみません:申しわけありません」と訳すことはできる。しかし、それは、マレー語の"minta maaf"からの借用語であるように思われる。わたしは、これまで、じっさいに、その言葉が日常のやりとりのなかで使われたのを聞いたことがない。借りた金を返さなくても、謝罪しないでそのままにしておくし、借りた物品を壊しても、そのまま何も言わず謝罪もしない。彼らは、謝罪そのものをしないように見える。あらかじめ述べておくならば、彼らは謝罪しないだけでなく、そういった事態に対して、悪いことをしたとも思わないようなのである。

  ひるがえって、わたしたちは、何か過ちを犯した場合、悪いことをしてしまったという気持ちがあれば、相手に対して謝る。自分が悪かったことを認める言葉を発する。すると、謝罪される側は、謝罪の言葉を聞いて、相手が非を認めたことに心を鎮め、すーっと気持ちが軽くなる。このことを逆の角度から述べれば、つねに、自らの行いを反省し、悪いと思ったら、謝罪の言葉が発せられることが期待されているということになる。そういったことをしないプナン人に照らせば、わたしたちは、そうしたリズムのうちに人間関係を刻んでいることになる。  

 このことは、プナンには、謝罪する心が欠けているということではない。謝罪の言葉を発して、それに応じて、心をなだめるというやりとりによって事を進めることがないのである。自分が悪かったことを認めるのをよしとしないのではない。そもそも、そういうやりとりが行われないのである。

 謝罪の言葉を発しないということは、非を認めないということだろうか。謝罪の言葉を発しないけれども、非を認めるとはあるように思う。プナンの場合、前者、すなわち、非を認めることがないから、謝罪の言葉を発しないように思える。過失は、状況のなかで起きてしまったことなので、「仕方がない("iyeng ibo")」と考える傾向にある。驚くべきことかもしれないが、プナンの謝罪しないことの根っこのところには、非を非として認めないということがある。

 プナンは、過失が生じた場合、なぜ非を認めることもなく、謝罪の言葉も発することがないのだろうか。これは、にわかに回答を得るのが難しい問いである。一つ、彼らにとっては、物質にせよ非物質にせよ、それらを、いくらでも代替可能なものであると捉えていて、非を認めたり、謝罪するというようなことが、ずっとこれまでの長い間必要なかったというようなことが考えられる。もう一つ、彼らが、自らの行いを振り返って、反省しない人びとであることと関わっているのかもしれない。

 別の難題は、逆に、わたしたち現代人は、過失が生じた場合、なぜ非を認めることを求められ、非を認めたことを謝罪の言葉で表すように期待されるのかという問題である。さらには、謝罪の言葉が発せられたことによって、なぜ人は心の平静を少し取り戻すことができるのか。その過失によって失われたものは、元に戻らない場合がじつに多いのに。一般に、わたしたちは、そうした言葉を介したやりとりにおいて、心をかよわせることによって、安堵を得たり、ほっとしたりするのである。

 例えば、以下のようなことを試みに考えてみよう。わたしたちは、かけがえのない身内を殺害した犯人から、謝罪の言葉が発せられることのみを、絶望的に期待することがある。このことから見えてくるのは、わたしたちの過失に対する取り組みが、血を血で洗う報復の禁止、真実の法的探求や賠償請求の手続きの煩雑さなどによって、言語による謝罪だけに狭められてしまっている可能性である。つまり、根源には、人類社会には、過失に対する仕返しや脅しなど、もっともっと多様なかたちでの反応があったのではないか。過失への対応を、謝罪の言葉を引き出すことだけに限定することによって、わたしたちは、目に見えない心のやりとりに対して期待するようになってしまったのかもしれない。文化的な制約によって、憎むべき相手に、自分と同じような目に合わせたり、報復したりすることが、控えさせられてきたからである。謝罪の言葉を引き出すことである達成を得るという事態は、われわれの時代の、心(精神)の関する説明の過剰さと符合するのではないだろうか。  

 ふたたび、謝罪しないだけでなく、謝罪する心持ちをもたないプナンについて。フィールドワークの初期に、プナンが反省をしないことに、わたしは気づいていた。反省しないことと謝罪しないことの距離は近いように思える。何度か通っているうちに、その問題に気づいた。同時に、ぐるぐると同じところを回っていて、なぜ彼らがそうした人たちなのかという問いに対して、いっこうに答が出る気配がない。検討内容がそもそも直観にすぎないと言われればそれまでだが。しかし、人類学は、そういった類の学問だとも言える気がする。



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
がんばってください! (まんまる)
2010-03-15 20:48:33
熱は必ず引きますし
気持ちの悪さもそのうちなくなると信じています。
どうぞ、よい調査を。
先輩みたいな人が
自分をせかしてくれます!
がんばってください。
 
 
 
はじめまして。 (tanaka yoko)
2010-03-16 17:41:38
奥野様、

はじめまして、田中葉子と申します。
まだKLですか?
体調は大丈夫でしょうか?

マレーシアKL在住22年になります。
10年前にクチンへ行ってから、オランアスリ全般に興味を持つようになりました。
オランアスリで検索しているうちに奥野様のホームページとブログにたどり着いたというわけです。
私は大学教授でも学者でもありません。でも生活習慣をはじめ特に精霊や言い伝えなどのレポートをまとめるのが夢です。

ブログは2006年から遡って読ませていただいている最中です。沢山あるので未だ読み終わっていません。
とても希少価値のあるフィールドワークで、羨ましい限りです。
KLにおいでになるときにはぜひ連絡をください。
これからもブログを楽しませてくださいね。

それでは、失礼致します。

田中葉子
012-370-6817
yasminyoko@gmail.com
http://asisnow.blogspot.com
 
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