たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



今週の初めまで、学生の環境研修の前半部分に同行して(引率ではない)、2年ぶりに、アウター・モンゴリアに出かけていた。井上靖によるチンギス・ハーンの一代記、『蒼き狼』を読みながら。遠大な草原を、西へ東へ、東へ西へ、車とバスで移動し、座席にすわりつづけたせいで、腰痛がいまだに完治していない。「羊」および、ふつうはこの時期には行わないという、「牛」の屠畜と解体の見学を含めて、遊牧をめぐって、あれこれと考えさせられた、なかなか刺激的な旅であったように思う。「遊牧民(pastralist)」は、定住せず、「ノマディック(nomadic: 遊動的)」であり、「非・反(?)農耕的」だという点で、ある意味、「狩猟・採集民(hunter-and-gatherers)」に似ている。首都ウランバートルから400キロ西にある、カラコルム(ハラホリン)の博物館では、モンゴル人が帝国を築く以前の、「匈奴」、「突厥」、「ウイグル」、「契丹」という、遊牧民ながら領土を広げ、帝国を築いた騎馬国家の前史について、話を聞く機会があった。ノマディックながら、遊牧民たちは、帝国という一つの大きな統治組織を有することへの欲動によって、深く突き動かされてきたのではないか。同じノマディックながら、狩猟採集民には、この種のエトースはない。印象にすぎないが、遊牧民のつくりあげた「都邑」は、その空間概念からして、農耕民の「都市」とは大きく異なるのではないか。北・中央アジアの草原の帝国の興亡史の観点から眺めてみるならば、中国の「夷狄」たちは、これまでとは、まったく別の存在として浮かび上がってくる(いや、これは、たんに私の無知なのかもしれないが・・・)。「家畜」へと戻れば、飼育動物の管理に関して(場合によっては、「女」の獲得や奪取を含めて)、いったい、どのような「法」が生み出されてきたのだろうか。家畜の知識や飼育技術だけでなく、それらの生き死に、偸盗を含めた増減などは、集団の勢力を左右したはずである。その意味で、遊牧の「経済」も、また興味深い。ウランバートル市内の道路は、つねに、車でごった返していた。それらは、現代の「馬」なのか。車は馬のごとく、車の群れに突っ込んでくるのだと言う。そういえば、そのような情景のようにも見える。覚書として。(写真は、カラコルムの草原と河川)



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