たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

九十九、百

2011年12月04日 15時48分40秒 | 文学作品

鈴木善徳「髪魚」『文学界2011.12.』★★★★(11-56)

本年度の文學界新人賞の受賞作の一つ「髪魚(はつぎょ)」を読んだ。サラリーマンの男が、川が氾濫した後に、川原で見つけた年老いた男の人魚をアパートの4階の自室に連れ帰って飼うという話だが、どこか川上弘美を髣髴とさせるところがある。髪が薄くなり白髪の年老いた男の人魚というのが斬新だ。赤羽の人魚屋には、水槽のなかには若い雌の人魚が売られている。「しかし、この人魚の幻のような寝顔を見ていると、つい広子の寝姿と重ねてしまって、僕は激しく落胆した。二か月ほど前、隣の大きなくしゃみ音で目を覚まし、彼女の顔を覗き込むと、洟を唇まで飛ばしていた。僕は花粉症か、と呟きながら、ティッシュペーパーでそれを拭ってやった。それが悪いわけではないが、眼前に横たわる人魚の寝顔を眺めていると、何やら人間の醜さや滑稽さを自覚させるために、この生物が創造されたような気になってくる。」とな。年老いた男の人魚が来てからというもの、幻を見るようになり、人魚の観察を通して、主人公は様々に思いを巡らせる。「この生物を観察していると、姿は我々と似ていても、時間や尺度と言ったものに縛られている印象をまったく受けない。僕たちは労働時間だの法律だの文明だの倫理とやらに捕らわれて、時折文句を言いながら、結局自分たちがそれを考案したことも忘れてしまっている。本来は生物なんて、もっといい加減で良いはずなので、なぜか僕たちは、それを恥じる。」と、文明論、人間論が差し挟まれる。人魚は、お弾きを用いる占いが巧いなんてのは、まったく知らなかった。馬券をあてて、62倍で主人公を儲けさせたりするのだ。最後に、主人公は、年老いた人魚を川面に放り込む。「一度沈んで見えなくなり、そして浮かんできた男はなにやら困った表情で僕を振り返り、もでなどー、と鳴いた。それから尾鰭を川面に叩きつけ、一度も振り返ることなく、人魚は川のなかへ沈んでいった。」幻想性と世俗性がほどよく溶け合って、いい物語だ。今後の活躍に期待したい。 

赤瀬川原平『新解さんの謎』★★★★★文春文庫(11-57)

 映画『赤目四十八瀧心中未遂』のなかで、アパートの一室で黙々と鶏の肉を串刺しにする仕事をする主人公の友として、新明解国語辞典が出てくる。思い出して、赤瀬川原平の『新解さんの謎』を読んでみた。飛びっきり面白い。辞書というのは、凡そ、言葉の定義をしながら、「守り」の姿勢に貫かれているものだが、新明解国語辞典は「攻め」の辞書だと、SM嬢(SMはイニシャル)の報告を受けた主人公は言う。いやいや「攻め」の態度を持ちながら、それだけではなく、彼は、人格をさえ持っているようなのだ。「辞典なのに、自分の好きなものには、おいしいだの、うまいのだの言っています。いいんでしょうか?おいしいものは別に桃だけじゃないです。コーヒー牛乳だっておいしいと思います。」たとえば、辞典には、こんなふうに載っている。「はくとう【白桃】[「黄桃オウトウ」と違って]実の肉が白い桃。果汁が多く、おいしい。」「かも①【<鴨】①ニワトリくらいの大きさの水鳥。首が長くて足は短い。冬北から来て、春に帰る。種類が多く、肉はうまい。」「あこうだい②アカヲダヒ【あこう<鯛】[赤魚の意]タイに似た深海魚。顔はいかついが、うまい。」「これはレッキとした辞典である。辞典というのは言葉の意味の多数決を発表するもの。というのが常識。でもそんな選挙結果を待たずに、自分の投票内容をどんどん公表してしまう。新解さんはそういう人だ。」すごいのは世の中だ。「世の中②【世の中】①同時代に属する広域を、複雑な人間模様が織りなすものととらえた語。愛し合う人と憎しみ合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。」ひぇ~。世の中とは、そういうことだったのか。続いて、実社会。「じっしゃかい③-シャカイ【実社会】実際の社会。[美化・様式化されたものとは違って複雑で、虚偽と欺瞞ギマンとが充満し、毎日が試練の連続であると言える、厳しい社会を指す]」。新解さんによれば、虚偽と欺瞞が充満しているのが実社会なのだ。新解さんは、言葉の定義をしながら、それだけに留まらず、主張する。動物園がスゴイ。「【ー園④-エン】生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捉えて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。」いまでいうならば、新解さんは、アニマルライツ派に違いない。いや~、それにしても、作家・赤瀬川原平の観察眼はあっぱれである。視点を移動し、新明解国語辞典を捉えている。きっと日常をこんな感じでいつも観察しているんでしょうね。これからは、新明解国語辞典以外の辞典は使えないかもしれない。

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【補論】
ようやくこれで、2010年1月1日から始めて100冊読破達成だ!
一年で100冊というのはスゴイと思うが、絶対無理だ。
桜庭一樹は一年400冊読んでいるというのは本当か!
いや~、文学はじつに面白い。
人類学があんまり面白くない⇒個人的には、民族誌が
書けない⇒書き方が問題ではないか⇒文學にヒントがあるのではないか;
そう考え、意識して、文學を手当たりしだいに、最初は<世界文學>、次に、<日本文學>と、思い付きで読んできた。
そのうちに、しだいに、文學そのものにはまり込んでしまった。
次はこれを読もう、あれも・・・と考え、暇を見つけては本屋に立ち寄るうちに、書斎は読んでない文學で埋もれてしまっている。
あやうく授業や会議に遅れそうになったこともある、朝眠くて起きられないこともあった。
でも、中毒のように、やめられないのだ、読んでしまうのだ。
そこではないか、人類学に徹底的に欠けているのは。
読みたいと願うような民族誌の蓄積。

いま、人類学は、理屈をこねくり回した挙句、理屈だけに溺れてしまっている。
じつに下品だ。
かたや、文學は、実験や批評を含めて、作品の層が圧倒的に厚いのだ。
その意味で、文學>>>>>人類学なのだけれども、そんなことは洟っから分かっている。
人類学にも、文學との比較をめぐって、不毛かつ無益な議論が山とある。
民族誌を書きたいけど、書けない⇒書けないから文學を読む⇒読むと面白いし、どんどんばしばし読む⇒読んでいると時間がなくて書けない;
当分、私の民族誌執筆企画は、このままの状態で推移するだろう。


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