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西欧近代史(2)ルネサンス①フィレンツェ 『聖フランチェスコの生涯』

2020年04月18日 | 高3用 授業内容をもう一度
西欧近代史(2)ルネサンス①フィレンツェ  『聖フランチェスコの生涯』

ジヨット『聖フランチェスコの生涯』「小鳥に説教する聖フランチェスコ」



1990年一橋大学がキリスト教の自然観を出題しました。その中でルネサンスを考えるに必要なポイントがあります。ジヨットの「小鳥に説教する聖フランチェスコ」は人間と同じように小鳥に説教をする聖フランチェスコを描いています。これは小鳥も人間同様に神の言葉を聞くことができる存在、すなわち小鳥を人間と対等に位置づけています。
本来キリスト教の『聖書』には、神の似姿としての人間は神の創造物ではあるが他の自然物とは別格であると考えていました。聖フランチェスコはその意味でコペルニクス的転換を実践した人物でしょう。それまでのキリスト教の自然観を転換させたことは、それ以降のルネサンスから宗教改革に至る西欧社会の価値観の転換が始まったといって過言ではないでしょう。



2018年一橋大学第1問 西欧の膨張とその影響

2020年04月14日 | 論述問題
2018年一橋大学第1問 西欧の膨張
第1問 次の文章を読んで、問いに答えない。

 人間は自分の「空間」についてもある一定の意識をもっているが、これは大きな歴史的変遷に左右されるものである。種々さまざまな生活形態には同じく種々さまざまな空間が対応している。同時代においてさえも日々の生活の実践の場面では、個々の人間の環境はかれらのさまざまな職業によってすでにさまざまに規定されている。大都会の人間は農夫とはちがったふうに世界を考える。捕鯨船乗組員はオペラ歌手とはちがった生活空間をもっており、また飛行家にとって世界と人生は他の人々とは別の光の中に現われるだけでなく、別の大きさ、深み、そして別の地平において現われてくる。
 (中略)クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって、新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲の内に入ってくるたびごとに、歴史的存在の空間、もまた変わってゆく。そして政治的・歴史的な活動の新たな尺度と次元が、新しい学問、新しい秩序が始まるのだ。この拡大・発展がひじょうに根深くまた思いがけないものであるために、ただ人間の標準や尺度、外的な地平だけでなく、空間概念そのものの構造まで変わってしまうということもある。ここにおいて空間革命ということが問題になりうる。
 (カール・シュミット著、生松敬三/前野光弘訳『陸と海と一世界史的一考察』より引用。但し、一部改変)

問い ヨーロッパの歴史を考えるとき、この文章で述べられるような「空間革命」が11〜13世紀にかけて見られたと考えられる。それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察しなさい。(400字以内)


解き方と知識:
この問題を解く際に鍵は「空間革命」という用語をどのように理解するかでしょう。これを考えるにはリード文と問題文からヒントを探します。そこでまずリード文中の「空間」をピックアップします。なお問題文によれば「空間革命」は11~13世紀のヨーロッパの出来事だとわかります。
①人間は自分の「空間」についてもある一定の意識をもっている
②種々さまざまな生活形態には同じく種々さまざまな「空間」が対応している
③鯨船乗組員はオペラ歌手とはちがった「生活空間」をもっている
④新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲の内に入ってくるたびごとに、歴史的存在の「空間」、もまた変わってゆく
⑤歴史の力の新しい前進・新たなエネルギーの爆発がきっかけになって、新しい土地・新しい海といった拡大・発展が「空間概念」そのものの構造まで変わってしまう
「空間」には2種類あり、①~③は個々の人間の「生活空間」、④~⑤は社会全体の意識が持つ「空間」です。「空間概念」は後者に当たるでしょう。11~13世紀に「空間革命」が起こり、それまでヨーロッパ社会が範囲としていた「空間」が、新しい土地・新しい海を得て以前に比べて広大かつ発展した「空間」に変わったという文脈が成り立ちそうです。ここでいう「空間」は概念的なものです。人々の「空間」に対する意識(「空間概念」)が変化したことを「空間革命」といっています。

(1)この問題が問うていること:
①11~13世紀の「空間革命」はどのようなきっかけによるものだったか。「空間革命」の原因です。つまり西欧の「空間概念」を変えたのはどのような出来事かということです。ただし、リード文によれば、「空間概念」の拡大・発展は新しい土地と海の2つで起きていることになります。細かい事ですが、拡大と発展とを分けていることにも注意を払いたいところです。
②「空間革命」の結果、ヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか。「空間革命」によって生じた変化です。経済の変化・社会の変化・文化の変化の3点を記述します。「変化」ですから【A⇒B】のパターンで考えます。Aは10~13世紀頃、Bは14世紀以降のことでしょう。

(2)字数配分を考える:
指定は400字以内ですから、①を100字、②経済の変化100字、社会の変化100字、文化の変化100字とし、②についてはA:10~13世紀頃、B:14世紀以降をそれぞれ50字に配分することもできます。経済と社会を分けて記述するのが難しい場合はまとめて200字を想定します。

(3)必要な高校世界史の知識:
 ①に関連して:11~13世紀にヨーロッパが「拡大」したという「空間革命」は高校世界史では「西欧の膨張」という用語で扱います。具体的にはレコンキスタ・十字軍遠征・東方植民を指します。
「発展」については少し細かい知識ですがジェノヴァが西地中海から大西洋経由でブリュージュに到達し繁栄を始めたのが13世紀末です。これによってシャンパーニュ地方が衰退し代わってフランドル地方のブリュージュが西欧における一大市場に「発展」しました。それまで地中海沿岸地帯で営まれていた西欧社会は北海沿岸にも広がりを見せました。またオランダで干拓が進んだのもこの時期です。
さらに13世紀に1241年リューベックとハンブルクの同盟から成立したハンザ同盟はバルト海貿易圏を築いて経済活動を展開しました。
またシトー修道会やフランチェスコ修道会による「大開墾時代」が12~13世紀に起こります。未開拓だった森林が開かれ湿地帯は埋め立てられて村落が拡大し耕地面積も広がりました。人々の目がそれまでの西欧世界から外に向けられていたことは3代巡礼地すなわちサンティアゴ=デ=コンポステラやイェルサレムとローマへの巡礼が流行したことからもわかります。

②に関連して:
この問題は西欧の膨張(レコンキスタ・十字軍遠征・東方植民)それぞれを説明することを求めていませんから記述する必要はありません。
「西欧の膨張」によって生じた「経済の変化」:
10~11世紀に始まった「商業ルネサンス」は貨幣経済の復活と中世都市の成立を指すベルギーの歴史家ピレンヌの言葉です。当初は中世都市とその周辺に限られた小規模な商業圏でしたが、十字軍遠征を経て、西欧各地に成立した商業圏を結ぶ広域経済圏が成立しました。ハンザ同盟を中心にした北海・バルト海商業圏、それまでイスラム商人とギリシア人商人に支配されていた地中海商業圏北をイタリア諸都市が勢力圏に治めました。高校世界史では前者について両シチリア王国の成立と後者について第4回十字軍で扱います。
「西欧の膨張」によって生じた「社会の変化」:
「中世農業革命」と「商業ルネサンス」の結果、農村は大いに発展し三圃制を軸とした純粋荘園が成立する一方、ロンバルディア都市同盟やハンザ同盟といった都市間を結びつけた都市同盟が成立しました。また人々の目がそれまでの西欧世界から外に向けられていたことは3代巡礼地すなわちサンティアゴ=デ=コンポステラやイェルサレムとローマへの巡礼が流行したことからもわかります。
「西欧の膨張」によって生じた「文化の変化」:
文化の変化についてはなかなか記述しづらいでしょう。そのような場合は解答とは別に単純に、A:10世紀頃つまりいわゆる中世の文化状況と、B:中世後期の文化状況を考えます。するとA:学問は修道院で維持されたていた。普遍論争が展開されていた。つまり修道院や教会といった「限定的な点」が文化の中心だった、と考えることができます。B:レコンキスタの成功や十字軍によりイベリア半島のトレドやシチリア島のパレルモを拠点とした「12世紀ルネサンス」が開花しました。ギリシア語文献がアラビア語からラテン語に翻訳され、西欧各地で大学が学問を担い、その結果、トマス=アクィナスにより普遍論争にも終止符が打たれました。さらに14世紀以降ルネサンスが開花すると北イタリア諸都市や北海沿岸諸都市にも文化活動が広がりを見せました。







2020年東大世界史第1問冊封体制解説(2)史料の読み取り方と使い方

2020年04月13日 | 論述問題
2020年東大世界史第1問冊封体制解説(2)史料の読み取り方

 想像ですが、この問題は2019年10月31日に首里城が焼失したことから作問されたのかもしれません。琉球王国の存在意義を考えるとき琉球王国が「万国津梁」すなわち万国の架け橋になることで繁栄を謳歌したことが重要でしょう。高校世界史でその点を考えるには冊封体制と朝貢貿易に関する知識が必要でしょう。 

(1)史料A~Cの使い方を考えます。
3つの史料は時代が異なります。順に並べると史料C(15世紀~17世紀)・史料A(1780年)・史料B(1875~78年)です。近代に属するのは史料Bだと整理できます。「歴史学」的には史料から読み取るべきことはそこに書かれていることだけです。書かれていない関連事項を記述するべきではありません。「歴史学」では史料に忠実であることが求められます。

(2)史料A: 
前提となる高校世界史の知識:
①女真族のホンタイジが国号を後金から清に改めた後、1367年李氏朝鮮を攻撃し(丙子胡乱)、その翌年に李氏朝鮮を従属させた。李氏朝鮮は清の宗主権を認め冊封を受けた。
②李氏朝鮮は清に服属しながら儒学(朱子学)を発展させ「大中華」明に代わる文明の後継と自らを位置づけ「小中華」とし、女真族の王朝である清に対して夷狄であるとした。
 史料Aから読み取れること:
李氏朝鮮が清の冊封を受けながら明末の年号である崇禎を使っていたこと、これは「古代の聖王の制度」であり李氏朝鮮だけがこれを守っていることを誇っている、という点でしょう

 史料Aを具体例に使う:
「伝統的な国際関係である冊封体制の「理念」:100字配当」に関する記述の中で使用します。その「理念」に関する高校世界史の知識は以下の点でしょう。
①中国王朝の華夷思想と王化思想を前提に、周辺国はその冊封を受けることで中国文明に参加することができる。
②冊封を受けた国の君主は、王などの爵号を受け中国皇帝と君臣関係を結ぶ。
③冊封国には毎年の朝貢、中国の元号を使用する。
④冊封国が外国から攻撃を受けた場合、中国王朝は求めに応じて救援を行う。
使用語句「小中華」を使用しながら「理念」①と③の具合例にできそうです。問題文中の資料の使い方「○○は××だった(史料A)。」を利用する場面です。「冊封体制の理念は①と③だった(史料A)。」
注意点は史料Aを使って説明するときに使用語句「下関条約」を使わない点です。


(3)史料B:
前提となる高校世界史の知識:
①1802年に成立した阮朝越南は清の冊封を受けていた。
②第2帝政の時代1858年から仏越戦争が発生。1863年サイゴン条約でフランスはコーチシナ東部三省とサイゴンを割譲させた。
③1883年ユエ条約で阮朝はフランスの保護国にされた。
 史料Bから読み取れること:
仏越戦争を経て1875~78年の時期すなわち保護国化される直前にもかかわらず「清朝に服属の意を示していた」ことから阮朝が冊封の「理念」を守り続けていたことがわかります。
史料Bを具体例に使う:
「近代における冊封体制の変容:配当字数200字」を記述する際に使用します。史料中に「清に服属の意を示す」とあるので冊封の「理念」②を記述します。「冊封体制の理念は②だった(史料B)。」となります。
また史料を使って説明とは切り離した書き方をしながら、「理念」④を受けて使用語句「清仏戦争」が発生しこの戦争後に清が宗主権を放棄した結果、冊封訂正から切り離されたベトナムはフランスの保護国になった、といった記述をします。

(4)史料C:
前提となる高校世界史の知識:
①琉球王国は17世紀初頭から明・清と薩摩藩とに対して両属関係を維持していた。
②15世紀以降琉球王国は「万国津梁」として中継貿易で繁栄していた。
③中国王朝から冊封を受けていた琉球王国は明・清との朝貢貿易によってその中継貿易を可能にしていた。
 史料Cから読み取れること:
史料中「密接な関係」、「二つの中間」を高校世界史の知識を利用して具体化していけばよさそうです。
史料Cを具体例に使う:
高校世界史の知識からこの史料は「理念」を無視した琉球王国の「現実」はどのようであったかを示していることがわかります。したがって「伝統的な国際関係である冊封体制の「現実」:100字配当」を記述する際に使用します。
問題文中「史料Bに記されているように、○○が××した。」を利用する場面です。東大世界史第1問の解答方法の中の鉄則としてリード文・問題文は残さず使用する、があります。これで全て使い終わったことになります。「史料Bに記されているように、琉球王国は17世紀初頭から明・清と薩摩藩とに対して両属関係を維持していた。」明・清から冊封を受け続けた結果、琉球王国は朝貢貿易を維持し万国津梁として中継貿易で繁栄を謳歌した。

2020年 東大世界史第1問冊封体制の解き方(1)

2020年04月12日 | 論述問題
2020年東京大学本試第1問 解き方

 これまでの東大世界史は「グローバルヒストリー」の立場に立って作問されていました。「グローバルヒストリー」は個々に国や地域の通史にこだわらずに大陸間とか地域間あるいは地球全体を歴史の舞台として捉える立場の世界史を指します。したがって「グローバルヒストリー」では時代区分も超えて人類に共通する歴史を見ていきます。たとえば、2018年には女性とジェンダー差別を扱った問題がありました。女性の地位向上という地球規模のテーマを扱った意欲的な問題でした。
 一方、2021年から始まる共通テスト世界史の問題は「歴史学」に軸を置いている感じがします。「歴史学」は「史料」から歴史を読み解く立場です。これまでセンター試験日本史などで多く出題されています。世界史ではあまり「史料」は重視されてきませんでした。共通テストは思考力・判断力を見るための手段として「史料」を読み取って、言い方を変えれば考えて、その史料が示している地域とか時代を判断して選択肢を選んでいくことを要求しています。
 「グローバルヒストリー」か「歴史学」かという高校世界史の2つの軸はこれまでも議論の対象でした。2020年東大世界史第1問は3つの「史料」を示した上で、「○○は××だった。」や「史料に記されているように、○○が××した。」といった形で論述内容の事例として書くことを求めています。明らかに「歴史学」に寄った立場への転換でしょう。
 2020年の東大世界史第1問を見ると、共通テストの世界史の出題意図が透けて見えてきます。この問題を参考にして高校世界史が史料を扱う方法を考えることができそうです。

 さて問題を見ていきましょう。いつものように東大が俯瞰的に何を求めているかを考えながらリード文を読みます。俯瞰的にというのは「だから何?」といった感覚で読むということです。東大が「以上のことを踏まえて」といっている「踏まえる」作業だと考えてください。

 最初の3行目まででは国際関係は国家間の関係を既定する、各国の国内支配にも関与している。と書いています。この「各国の国内支配への関与」、ということを見逃したくささそうです。東大はリード文で解答に制約を与えます。つまり「各国」とは国際関係の中心にある国(中国王朝)だけではなく、その周縁に位置する国々も含むという点です。朝鮮やベトナム・日本などの国々では中国との関係を築くことで国内政治を優位にすすめる意図について述べることを求めていると考えられます。

リード文を読み進めるとこのことは確認できていきます。さらにリード文によるとこのような国際関係が成立した地域は東アジア。時代は近代以前です。ここでいう「近代」とは「ヨーロッパが近代になって国際関係を持ち込んだ」とリード文中にあるので1840年アヘン戦争以降と考えてよさそうです。東大世界史の問題は自分で判断せずにリード文に立ち返って判断することが大切です。地域とか時代とかを当然のように自分で判断しないことです。

 では「踏まえる」内容です。世界史の知識から中国王朝を中心とした冊封体制が近代になって西欧が構築した国際関係つまり主権国家体制における国際関係に組み込まれていく様子を考えることです。ただし、「現実と理念の両面」の主語に注目したいところです。このような関係すなわち「冊封体制の現実」はどう変容したのか、「冊封体制の理念」はどう変容したのか、この2点を考えるのかな?みたいな感じで問題を読み進めていきます。「現実」と「理念」は分かったようではっきりしない感じが残ります。しかし、東大世界史の問題を解く際のポイントのひとつに問題に出てくる用語は一貫して同じことを意味しているがあります。「現実」は「それは現実において従属関係を意味していたわけではない」の部分に出ています。ここから「現実」と「理念」が明確になってくるはずです。つまり「現実」は「従属関係」ではないのだから冊封体制の「理念」は「従属関係」、それに対して「現実」はどのようであったのかを高校世界史レベルの知識から考える必要があります。

 2段落目から次に問題が求めていることは何か?を考えていきます。解答すべき時期は「15世紀頃から19世紀末まで」。解答すべき地域は「東アジア」。ただしその後に朝鮮とベトナムの事例を中心に」とあるのでこの2地域が中心。解答すべき問いは「伝統的な国際関係のあり方を具体的に」と「近代におけるその変容を具体的に」の2点です。問題文の最後に「論述内容の事例として」とあることから「具体的に」ついて記述する際に史料A~Cを利用することが求めていることがわかります。
 また、史料A~Cから「東アジア」には朝鮮・ベトナム・琉球が含まれることが確認できます。

 問題が求めている点を詳細にみていきます。そうすればどのような文脈で記述していくのか、さらに字数配分をどうするかが見えてきます。まず「近代におけるその変容を具体的に」の「変容」とは先述しているように「冊封体制の現実」の変容と「冊封体制の理念」の変容です。東大世界史問題に出てくる用語は一貫して同じことを意味している。ここでは「変容」がそれにあたります。「変容」とか「変化」を説明するときは「A⇒B」をイメージします。AがBになったことを「変化」という。したがってAが何でBが何かを説明する必要があります。この問題ではAが15世紀頃から1840年以前の前近代の冊封体制、Bが1840年から19世紀末までの主権国家体制に基づく国際関係に東アジアが組み込まれていく状況でしょう。

以上のことから字数配分は①「伝統的な国際関係のあり方を具体的に」について200字、②「近代における冊封体制の現実の変容を具体的に」について200字、③「近代における理念の変容を具体的に」について200字になります。ただし、自分が書きやすい部分と書きづらい部分を勘案して調整します。さらに①「伝統的な国際関係のあり方」を見ていくと、「変容」する以前のつまり1840年以前の「現実」と「理念」を説明するのでそれぞれ100字ずつを配当し、「現実」については朝鮮とベトナムをそれぞれ50字ずつ記述していけばよさそうです。

 最後に史料の使い方です。
 共通テスト試行問題では、史料などから問題になっている「地域」と「時代」を読み取ってそれに基づいて選択肢を判断していく、という作業が必要になっています。2020年東大世界史第1問でも同様でしょう。史料Aは李氏朝鮮1780年のことで、史料Bはベトナム(阮朝越南)1878年、史料Cは琉球王国で明代を指していることは明らかです。
史料Aで読み取るべきポイントは、崇禎という年代を1780年でも使用している点のはずです。そこから明の崇禎帝を思い出し、李氏朝鮮は女真族の清に服属していながら中国人王朝の年代を使用していることになります。「現実」と「理念」が関係しそうです。
史料Bで注意すべきは、1875年という時期です。阮朝越南の都がフエだろうことは史料からわかります。仏越戦争(1858年)後に1862年サイゴン条約が結ばれコーチシナ東部3省とサイゴンがフランスに割譲され、その後の清仏戦争(1884~85年)が起こります。その間の史料だと判断します。
史料Cは琉球王国が明と薩摩藩に両属関係にあったという高校世界史の基礎知識が必要です。琉球王国は「万国津梁(ばんこくしんりょう)」すなわち「世界の架け橋」として東シナ海から南シナ海にかけて中継貿易で繁栄していた知識、冊封体制に組み込まれていた琉球王国が明との朝貢貿易で繁栄した知識を思い出します。

2020年東大本試世界史第1問 冊封体制

2020年04月12日 | 論述問題
2020年東京大学 第1問

 国際関係にはさまざまな形式があり、それは国家間の関係を規定するだけでなく、各国の国内支配とも密接に関りを持ってる。近代以前の東アジアにおいて、中国王朝とその近隣諸国が取り結んだ国際関係の形式は、その一つである。そこでは、近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだg、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれの関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた。しかし、このような関係は、ヨーロッパで形づけられた国際関係が近代になって持ち込まれてくると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされることになる。
 以上のことを踏まえて、15世紀ころから19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について、朝鮮とベトナムの事例を中心に、具体的に記述しなさい。回答は、解答欄(イ)に20行以内で記述しなさい。その際、次の6つの語句を必ず一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。また、下の資料A~Cを読んで、例えば、「〇〇が××した。」などといった形で史料番号を挙げて、論述内容の事例として、それぞれ必ず一度は用いなさい。

薩摩  下関条約  小中華  条約  清仏戦争  朝貢



史料A
 なぜ、(私は)今なお崇禎という年号を使うのか、清人が中国に入って主となり、古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。その東方の数千里の国土を持つわが朝鮮が、鴨緑江を境として国を立て、古代の聖王の制度を一人守っているのは明らかである。(1789年)

史料B
 1875年から1878年までの間においても、わが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した。そのような使節団を3年ごとに北京に派遣して清に服従を示すのが、この宮廷の慣習であった。

史料C
 琉球国は南海の恵まれた地域に立地しており、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、明とは上下のあごのように、日本とは唇と歯のような密接な関係にある。この二つの中間位ある琉球は、まさに理想郷といえよう。貿易船を操って諸外国との間の架け橋となり、異国の珍品・至宝が国中に満ちあふれている。

2017年 東大プレ第1問 第2次大交易時代 問題

2020年04月12日 | 論述問題
 14世紀にモンゴル帝国が解体すると、海上交易の掌握に努める新たな帝国が東アジアおよびイスラーム世界において台頭した。
またこの時期にはヨーロッパ世界のいても外部世界へ向けて進出する気運が生じ、それは15世紀末以降本格化していったが、そ
れにともなって世界各地を結ぶ交易の構造も大きく変化していった。
 以上のことを踏まえて、14世紀から16世紀前半における世界の交易構造の変容について、ユーラシア地域で台頭した国々の対外政策を中心に論じなさい。解答は、20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に河川を付しなさい。


国土回復運動   マラッカ   紅海   朝貢体制   インド洋   大西洋  

プレヴェザの海戦   カリカット

2017代ゼミ東大プレ第1問 解説  第2次大交易時代

2020年04月12日 | 論述問題
何を書く書くかを考えることが若干難しい問題
対外政策を中心に
世界の交易構造の変容を書くのだが、実際に何を書くかが判断しづらい
各国の対外政策が影響して、世界の交易構造に変化が生じていった、というふうに判断するのがいい世界の交易構造の変容に影響した対外政策を考えていく
では各国とはどの国か
東アジアは明
イスラーム世界は、マムルーク朝とオスマン帝国。西アジアとせずにイスラーム世界といっていることがヒントになる。オスマン帝国は西アジアとは言い切れないから
ヨーロッパ世界はポルトガルは問題なく判断できるが、スペインを書くべきか?この判断が難しい
問題文に判断材料があるはず
文中のこの時期とは14世紀。スペインは成立していない。また14世紀から外部世界に進出する機運を持っていたのはポルトガル。それが本格化したとは、ポルトガルが1415年にモロッコ北端のセウタを攻略し、さらにアフリア西岸を探検い、インド航路を開拓した過程を指している
従ってスペインは書けない。
そこで、プレヴェザの海戦はオスマン帝国で使うことのなる
また国土回復運動はポルトガルがいち早く成し遂げた、という文脈で書く
ちなみポルトガル建国は1139年
大交易時代への影響は商業革命を書く
すなわち、大西洋とインド洋とを結びつけた

また地中海では14世紀に北イタリア商人が活躍したがプレヴェザの海戦で敗北した

明は14世紀に海禁策を取っていたが15世紀になると永楽帝が登場して積極的な朝貢体制に転換した
鄭和の南海遠征
日明貿易など
東南アジア海域と江南地方が結びついたことが若干大交易時代への影響
しかしその後、北虜南倭の影響で解禁策に復帰したため華僑が出現し、彼らがこの海域の交易を担った

マムルーク朝がインド洋貿易と地中海世界とを結びつけた
地中海側は北イタリア商人が参加
1509年デュウ沖の海戦でポルトガルに敗れマムルーク朝が衰退
マムルーク朝は北イタリア商人とともにインド洋と地中海の2つの海域結びつけ大交易時代に参加したが
1517年にオスマン帝国にカイロを奪われて滅亡した

マムルーク朝に変わって台頭したのがオスマン帝国

オスマン帝国の対外政策
14世紀にバルカン半島に進出。15世紀にはコンスタンティノープルを攻略した。この後地中海貿易を支配していき、地中海とインド洋貿易とを結びつけた

大交易時代とは
分散していた各海域が結びつけられ時代
具体的には
マムルーク朝と北イタリア商人が地中海とインド洋を
プレヴェザの海戦後、これをオスマン帝国が引き継いだ
ポルトガルが大西洋とインド洋を結びつけた
明が東南アジア海域と江南地方を結びつけた

ただしこれらの海域あるいは交易圏が本格的に結びつけられるのは16世紀後半
第2次大交易時代という




大航海時代 西南学院大学

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

15世紀頃から世界の諸地域は,新航路を開拓した西ヨーロッパ諸国の進出によって結びつけられるようになりました。そして16世紀は,まさに地球的な規模で近代の幕開けを告げる大転換の時代といえます。
 先頭を切ったのは,早くから大西洋に進出したポルトガルでした。15世紀前半,【エンリケ航海王子】が,インド航路の開拓をめざして,アフリカ西沿岸の探検を王室の本格的事業として行った。まず大西洋の島々に植民して牧畜と砂糖きびの生産が行われ,続いてアフリカ西岸に航海と商業の拠点が築かれた。
 航海事業は国王【ジョアン2世】の時に活発になり,彼の援助のもと,【1488】年に【バルトロメウ=ディアス】がアフリカ南端の【喜望峰】に達した。ついで国王【マヌエル1世】の命を受けた【ヴァスコ=ダ=ガマ】は,喜望峰を回り,海岸沿いに進んで,【マリンディ】に入港した。そこでムスリムの水先案内人【イブン=マージド】の助力を得てインド洋を横切り,【1498】年にインドのカリカットに達した。
 ポルトガルの成功に刺激されたスペインは,【1492】年に,【ジェノヴァ】出身のコロンブス(コロン)の一行を大西洋に送り出した。彼は,当時広まっていたフィレンツェ【】の天文学者【トスカネリ】らによる地球球体説の影響を受け,大西洋を西に航海した方が早くインディアス(インド)やジパングに達すると信じて,スペインの【イサベル女王】の支援のもと,【パロス】港を出帆し,カリブ海にある現在の【サン=サルバドル】島に到達した。
 彼は,あわせて4回の航海を行ったが,終生そこがインディアスであると信じて疑わなかった。その後,ここが当時のヨーロッパにとって未知の新世界であることがわかり,この新大陸を広くヨーロッパに紹介したフィレンツェ生まれの【アメリゴ=ヴェスプッチ】の名にちなんで,アメリカと名付けられた。またスペイン人【バルボア】も1513年に【パナマ地峡】を横断して,太平洋を発見した。
 他のヨーロッパ諸国も,両国の動きを傍観していたわけではなかった。フランスでは,国王【フランソワ1世】が,フランス人ジャック=カルティエを派遣して現在の【カナダ】を探検させた。イギリスでは,国王【ヘンリ7世】の支援のもとイタリア人の【カボット】が,ニューファンドランドと北アメリカ沿岸を探検した。しかし,それらはまだ継続的な植民や貿易とは結びつかず,さしあたりポルトガルとスペインがヨーロッパ勢力進出の主導権を握っていた。
 そしてポルトガル人【マゼラン(マガリャンイシュ)】は,【1519】年に船隊を率いて出帆した。一行は,大西洋を南下し,南アメリカ南端の海峡を経て太平洋を横断し,1521年【フィリピン諸島】に上陸した。
 さらに一行は住民を服従させようとしたが失敗し,マゼランは住民との交戦中に殺された。マゼラン死後は部下が航海を引き継ぎ,そのまま【モルッカ諸島】に向かい,そこで香料を積荷したのち,スペインに直行した。そして【1522】年に生存者たちは世界一周を達成した。


ネーデルラントの宗教分布

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

 北部ネーデルラント(現在のオランダ)には【ハンザ都市】があり、領主階級から独立を果たした都市市民が政治や経済を担っています。一方、南部ネーデルラントでは【】領主が支配している【農村】で【毛織物工業】が発達していました。南部を【フランドル】地方ともいい、現在の【】ベルギーに当たります。
 北部ネーデルラントでは毛織物工業は発達しませんでした。その理由は、中世都市には【ギルド規制】があり、新しい産業が生まれにくい環境にあったためと説明できます。農村にはギルドはありませんから、農村部のフランドル地方で新しい「工業(【農村マニュファクチュア】)」がヨーロッパで始めて成立したのです。
 しかし、【1517】年に【ルター】の宗教改革が始まり、カトリックと新教との対立激しくなると、ネーデルラントもこの対立に巻き込まれていきました。もともと領主階級は【カトリック】です。したがってフランドル地方の支配者はカトリックということになります。しかし、北部のハンザ都市の商人たちやフランドル地方の毛織物業者たちは、貯蓄や経済活動を奨励してくれる【カルヴァン派】(彼らは乞食という意味の【ゴイセン】と呼ばれていた)に改宗しました。したがって、カトリックと新教の宗教対立が激化すると、フランドル地方の領主階級はカルヴァン派の毛織物工業者を弾圧するようになり、さらに、【1556】年に【フェリペ2世】がスペイ王に即位すると、その傾向は強まっていきました。もともとネーデルラントは神聖ローマ帝国領だったのですが、経済的結びつきがスペインと強かったため、スペインとはかなり離れた場所にありながら、【スペイン】領とされたわけです。このような弾圧が激しさを増した結果、南北のネーデルラントに居たカルヴァン派の人々は、弾圧に耐えかねて独立戦争を始めました。


大航海時代 ポルトガルとスペインの時代 青山学院大学より

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ヨーロッパが中世から近代へと移行する転換点の一つは,15世紀後半に本格化する大航海時代にあった。
 【1453】年に【ビザンティン帝国】を滅ぼしたオスマン帝国は,地中海東部を軍事的・政治的に制圧しつつあり,経済面でも南アジアとの貿易ルートを独占する勢いであった。こうしたイスラム教徒の攻勢を前にし,彼らに対抗しうる富を手に入れるとともに,キリスト教を布教するという二重の目的から大西洋という新たなフロンティアに乗り出したのが,ヨーロッパの西端に位置するポルトガルとスペインであった。
 ポルトガルはすでに15世紀初頭から,王室の主導下にアフリカ西海岸への探検航海に着手しており,【1488】年,【バーソロミュー=ディアス】はアフリカ最南端の【喜望峰】に到達した。そして,【1498】年には【ヴァスコ・ダ・ガマ】が喜望峰を経由してインド東岸の【カリカット】に到達し,以後,ポルトガルは,ヨーロッパで大きな需要のあった【香辛料】の直接取引きにより,莫大な富を手にいれることとなった。
 イスラム教国と隣接していたスペインはポルトガルに遅れをとらざるをえなかった。ようやく【1492】年,最後に残されたイスラム勢力の拠点,【グラナダ】の攻略に成功したスペイン王室は,ポルトガルの開拓した航路ではなく大西洋を西に航海することでアジアの東岸に達するという【コロンブス】の計画を承認した。コロンブスは同年10月,現在の【バハマ諸島】に到着した。彼はその後,カリブ海を中心に数回の航海をおこなったが,死ぬまで自分の「発見」した土地がアジアの一部であると信じていた。この土地が,アジアでもアフリカでもヨーロッパでもなく,それまで知られていなかった新しい大陸であることを主張したのは,イタリア人の【アメリゴ=ヴェスプッチ】であり,その名にちなんでアメリカと呼ばれることになる。
 ポルトガル,スペインの間では勢力範囲をめぐる対立の恐れが生じ,これをあらかじめ回避するために締結されたのが,【1494】年の【トルデシリャス】条約であった。これは,両国がともにキリスト教の布教という大義を掲げていることから,カトリック教会の最高権威であるローマ教皇が前年に設定した植民地分界線を修正するもので,両国の勢力範囲を確定した。以後,【カブラル】がアフリカ西海岸を航海中に漂着したブラジルを除き,アメリカ大陸はスペインが布教と統治のための正当な権限を有するものとされ,ポルトガルはアジアにおける勢力圏の拡大に努めていく。
 アメリカ大陸ではその後,【バルボア】による太平洋の「発見」や,【マゼラン】一行による大陸最南端部を経由しての太平洋の横断,世界一周の航海などがスペイン王室の支援の下におこなわれるとともに,【1521】年にはメキシコの【アステカ帝国】,【1533】年には南米太平洋岸の【インカ帝国】が征服され,ここに多数の先住民人口を抱える植民地の形成が開始された。これらの植民地では,【ポトシ銀山】をはじめとする銀山が発見され,先住民を労働力として使役することにより莫大な量の銀が生産され,スペイン本国へと送られた。
 このようにポルトガル,スペイン両国にとり,大航海時代は大きな経済的利益をもたらしたが,新たに獲得された領土が政治的な関心をひくことは少なかった。たとえば,スペイン国王にして神聖ローマ帝国の皇帝でもあった【カール5世】にとり,最重要課題はフランス国王,【フランソワ1世】との対抗関係であり,プロテスタント勢力との戦いであり,オスマン帝国からの脅威であった。アメリカ植民地は,そうした外交・軍事上の莫大な費用を調達する役割を期待されたにすぎない。同じことは,その子,【フェリペ2世】についてもいえ,アメリカから送られる銀は,【1571】年の【】レパントの海戦に代表される対オスマン帝国政策や,【1588】年の【アルアダの海戦】の敗北に象徴される対プロテスタント政策などに投入された。結果として,アメリカ産の銀は,アメリカ植民地でもスペイン本国でも経済を活性化することには用いられず,他のヨーロッパ諸国やアジアへと流出することとなった。
 こうして国力を疲弊させていったスペインは,17世紀に入ると大西洋貿易,アジア貿易における覇権を失い,オランダ,イギリスが主導権争いを演じることとなる。


大航海時代

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15世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ世界は,政治,経済,社会,文化にわたる大きな変動を経験した。
 ドイツ(神聖ローマ帝国)では,15世紀半ばに【グーテンベルク】により【活版印刷術】が発明され,大量の書物や版画などが印刷され,流布するようになった。
 15世紀はまた,イベリア半島の諸国が海外発展を開始した大航海時代の幕開けでもあった。まず,ポルトガルが海外進出政策をとり,【エンリケ航海王子】や,【ジョアン2世】によって,西アフリカの【ヴェルデ岬】からアフリカ南端の【喜望峰】への探険航海が行われた。そして【1498】年には,【ヴァスコ・ダ・ガマ】が,喜望峰を回ってインド洋へ入り,東アフリカの港でムスリムの水先案内人を得て,インドの【カリカット】に到着した。ヨーロッパにとって初めてのインド航路が開かれたのである。その後ポルトガルは,インド西岸から東南アジアへと進出し,首都【リスボン】は,香料などの東方貿易において【ヴェネツィア】に代わって繁栄した。
 ポルトガルと前後して,大西洋を西へ向かったスペインの航海者達は,アメリカ大陸に到達し,16世紀前半には【1521】年【コルテス】がメキシコの【アステカ帝国】、【1533】年【ピサロ】がペルーの【インカ帝国】の両帝国を征服し,植民と商業活動を中心として中南米に広大なスペイン領を作り上げていった。彼らのような征服者をコンキスタド-ルという。また、【1545】年【ボリビア】の【ポトシ銀山】のように、メキシコ,ペルーからヨーロッパへ運ばれた大量の銀は,スペインの【セビリア】の港からネーデルラントの【アントワープ】の港へ運ばれ,ヨーロッパに価格革命をもたらした。
 このような大航海は,イベリア半島の両国の国王権力によってのみ遂行された訳ではなく,コロンブスをはじめとして新大陸へ向かった航海者・探険者や彼らを支援した商人・資本家の多くが中世の地中海商業を担っていた都市【ジェノヴァ】出身のイタリア人であったことも忘れてはならないであろう。
 後にフランス,イギリス,オランダなど北方の諸国も加わって,ヨーロッパ経済の重心は,【地中海】から【大西洋】へと転換していったが,そうしたヨーロッパ社会の変動の中で,各国でそれぞれ独自の国民文化が興隆し,近代ヨーロッパの国民文化の基礎が形作られていったのである。


北イタリア諸都市

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 【1202】年に教皇【インノケンティウス3世】により組織された【第4回十字軍遠征】は、新興都市【ヴェネツィア】が運命を掛けた戦いでした。十字軍はヴェネツィアの求めに応じてコンスタンティノープルを攻略し、【1204】年に【ラテン帝国】を建設して終了しました。教皇インノケンティウス3世は激怒したということです。これにより、【レパント貿易】(地中海貿易)を独占していたコンスタンティノープルのギリシア商人はレパント貿易から排除され、代わってヴェネツィアやジェノヴァなどの北イタリア諸都市の商人が、レパント貿易を独占するようになったのです。
 このレパント貿易の利益は莫大でした。北イタリア商人は地中海で【マムルーク朝】のムスリム商人から香辛料を買い付けて、西欧の商人に売り渡します。彼らはいわゆる中継貿易を行って利益を上げていました。ここで注意すべきは、彼らが集めていた富は、西欧諸地域にあった富を集めたものであるという点です。この点を記憶して置いてください。彼らの富は絶大で、当時、西欧の最も豊かな人を1000人集めたら999人は北イタリアにいるといわれるほどです。
 北イタリア諸都市の大商人は、これらの富をキリスト教会の天井画や食堂の壁画を描かせる費用としました。芸術家が【フィレンツェ】やミラノ、ローマに集結し、たくさんの文化的遺産を残しています。


ルターの宗教改革とその波及

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16世紀前半期に西ヨーロッパに起こった宗教改革運動は,ルネサンスとともにヨーロッパ近代を開いたという歴史的意義を持つ。この反カトリックの改革運動は,【1517】年,ドイツ北東部【ザクセン】の【ヴィッテンベルク】大学神学教授【マルティン=ルター】が,【贖宥状】を攻撃する文章を教会の扉に貼り付けたことに始まる。当時の教皇【レオ10世】は,ローマの【サン=ピエトロ大聖堂】の建築資金を調達するために,贖宥状を大々的に売り出した。
 贖宥状は,教会に献金するなどの善行を積めば,信者の犯した過去の罪が赦されるとするものである。カトリック教会には古くから献金によって罪を赦す制度があった。教会にはキリストおよび聖者たちの善行が蓄積されており,献金をする信者には贖宥状を通じてその功徳が分与され,罪が赦されるとする理屈である。11世紀以降,教会は十字軍従軍者や献金者の贖宥を説き,献金は教会の重要な財源となっていた。とりわけ,1476年,煉獄の魂にも効力のある贖宥状が設けられると,教会財政の不足を贖宥状販売で補うという悪弊はいっそう激しくなった。贖宥状を販売する説教師は,「お金が箱の中に投げ入れられる音とともに魂は救われる」と説いたという。
 このようなカトリック教会の教義に対して,ルターは,「人は信仰によってのみ義とされる」すなわち「【信仰義認説】」を説いた。煉獄にいる死者の魂を救う贖宥状に対しては,教会の権威は死者の世界には及ばないこと,教会建築の資金を提供するというわずかな善行で煉獄の魂まで救われるというのであれば,教皇はなぜその大いなる愛でもって煉獄を空にしないのかと反論した。
 「ドイツはローマの牝牛」と呼ばれたように、ローマ教会の収奪に苦しめられていたドイツでは,ルターの贖宥状批判は全国民的な反響を呼んだ。その後,ルターは【1519】年【ライプツィヒ討論】の際、教皇が派遣した論客【エック】との討論の中で、ローマ教皇,公会議の権威を否定し,教皇が破門で威嚇してくると,その勅書をも公衆の面前で焼却した。
 さらに【1521】年,皇帝【カール5世】に【ヴォルムス国会(帝国議会)】に呼び出され,自説の撤回を求められたが,ルターはそれを拒否し不退転の態度を示した。
 ルターの信仰は,キリストの教えである聖書を唯一至高の権威とする「聖書主義」に基づくものであった。そこから,誰もが聖書を読めるようにするため,ヴォルムス国会からの帰途,ルターは【ザクセン侯】の居城であった【ヴァルトブルク城】にこもり,聖書の【ドイツ語訳】を完成する。この聖書は当時開発されていた【グーテンベルグ】の【活版印刷】技術によりドイツ全域にひろまり、ドイツ語の文章表現の基準になった。
 ルターの改革運動のもう一つの主題である「【万人司祭主義】」の「神の前の平等」の理念は、当時のドイツの政治・社会情勢と絡まり,農民の反封建運動を刺激し,1524年,【ドイツ農民戦争】を激発させた。【トマス=ミュンツァー】に率いられた西南ドイツの農民たちは,農奴制の廃止,貢租・賦役の軽減などを要求して戦ったが,地方的に分裂していて不統一な農民軍は,皇帝,諸侯,領主の同盟軍に次々と撃破され,彼は捕らえられて処刑された。
 ルター自身は最初農民蜂起に【同情的】であったが,やがてこれを弾圧する諸侯の側に回った。ルターの教えを採用した諸侯は,カトリック教会から分離し,領内の教会の首長となり,教会儀式の改革,修道院の廃止などを進めた。こうして,ドイツは,カトリック派の皇帝・諸侯と改革派の諸侯・帝国都市との政治的抗争が激化し,【1529】年,【シュパイエル国会(帝国議会)】で、皇帝【カール5世】がいったん認めた信教の自由を取り消したために,改革派の諸侯は皇帝に抗議し,1530年【シュマルカルデン】同盟を結成した。カトリック派と新教派との対立は激化し,やがて【シュマルカルデン】戦争に行き着くが,【1555】年【アウグスブルクの宗教和議】で妥協が成立した。その結果,諸侯はカトリック派とルター派のいずれをも採用できるが,領民は諸侯の選ぶ宗派に従うという原則すなわち【領邦教会制】が確立した。


宗教改革 立教大学

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 フランス生まれのカルヴァンは,自国での迫害を逃れて,1536年バーゼルで『キリスト教綱要』を著した。これによって一躍名を知られるが,ジュネーヴに姿を現した時には土地と何の結びつきもない一異邦人にすぎなかった。バーゼルは宗教改革の中心地の一つとなっていたが,それに引きかえジュネーヴは,宗教改革の洗礼を受けない司教座都市にとどまっていた。
 カルヴァンは,ルターに比べ,信仰のみによって義とされるという考え方を論理的により徹底的に押し進めた。彼が力をこめて説いた教義に,神の意志の絶対性とこれへの服従を説く予定説がある。この教えはヨーロッパ各地で,当時の成長しつつあった商工業者層に受け入れられ,彼らのなかに独特の職業労働への倫理的態度を生み出した。
 またカルヴァンは,ツヴィングリに比べても,教会の都市権力からの独立をより強く主張し,妥協なき戦いを開始した。すなわち,上部から任命される司教を廃止し,信仰・行状ともにすぐれた者を信徒代表として長老に選出し,牧師を補佐させ,市民の生活を監視・指導させた。世俗的権力であるジュネーヴ市参事会に戦いをいどみ,1555年,参事会の選挙でカルヴァン派市民が勝利をおさめ,都市(国家)に対する教会の優位を実現した。
 フランスでもカルヴァン派プロテスタントは増加し,商工業発展の推進力となり,その拠点都市が各地に生まれた。プロテスタントへの改宗は有力貴族層にも及んだが,「支配者の宗教がその地の宗教である」とするドイツの領邦教会制のような秩序は,フランスでは成立せず,抗争はより複雑化した。そこには宮廷をめぐる勢力争いという側面もあったが,抗争は基本的には,絶対主義の確立をめざすカトリックの国王勢力に対する貴族層の抵抗であり,後者がプロテスタント勢力に頼ったのである。1562年のカトリック勢力によるプロテスタントの殺害に端を発し,30年間以上にわたって断続的に続いたユグノー戦争は,スペインなど外国の介入をも招いた。この間,1572年には,サン=バーテルミーの虐殺のような血なまぐさい悲劇も起こる。『随想録(エセー)』の著者のモンテニューは,これに衝撃を受け,自身は国王派のカトリックだったにもかかわらず,強く暴力を非難した。後に選ばれてボルドー市長になると,同市を両勢力の抗争の場としないように奔走した。
 長い争乱は,プロテスタントの首領アンリ=ド=ナヴァールの1598年の国王即位,彼のカトリックへの改宗,ナントの勅令の公布により,ようやく終わりを迎える。プロテスタントにも礼拝の自由や公職就任が認められるが,カトリック教徒に比べ不平等が残り,1685年にはナントの勅令さえ廃止された。この時,多くのプロテスタントが国外に亡命し,フランスの産業発展に打撃を与えた。プロテスタントに完全に平等な市民権が認められるには.フランス革命をまたねばならなかった。


カルヴァンの宗教改革 

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

【フランス】生まれの【カルヴァン】は,自国での迫害を逃れて,1536年【バーゼル】で【『キリスト教綱要』】を著した。これによって一躍名を知られるが,ジュネーヴに姿を現した時には土地と何の結びつきもない一異邦人にすぎなかった。バーゼルは宗教改革の中心地の一つとなっていたが,それに引きかえ【ジュネーヴ】は,宗教改革の洗礼を受けない司教座都市にとどまっていた。
 カルヴァンは,ルターに比べ,【信仰のみによって義とされる】という考え方を論理的により徹底的に押し進めた。彼が力をこめて説いた教義に,神の意志の絶対性とこれへの服従を説く【予定説】がある。この教えはヨーロッパ各地で,当時の成長しつつあった【商工業者層】に受け入れられ,彼らのなかに2)独特の職業労働への倫理的態度を生み出した。
 またカルヴァンは,【ツヴィングリ】に比べても,教会の都市権力からの独立をより強く主張し,妥協なき戦いを開始した。すなわち,上部から任命される司教を廃止し,信仰・行状ともにすぐれた者を信徒代表として【長老】に選出し,牧師を補佐させ,市民の生活を監視・指導させた。世俗的権力であるジュネーヴ市参事会に戦いをいどみ,1555年,参事会の選挙でカルヴァン派市民が勝利をおさめ,都市(国家)に対する教会の優位を実現した。
 フランスでもカルヴァン派プロテスタントは増加し,商工業発展の推進力となり,その拠点都市が各地に生まれた。プロテスタントへの改宗は有力貴族層にも及んだが,「支配者の宗教がその地の宗教である」とするドイツの【領邦教会】制のような秩序は,フランスでは成立せず,抗争はより複雑化した。そこには宮廷をめぐる勢力争いという側面もあったが,抗争は基本的には,絶対主義の確立をめざすカトリックの国王勢力に対する貴族層の抵抗であり,後者がプロテスタント勢力に頼ったのである。【1562】年のカトリック勢力によるプロテスタントの殺害に端を発し,30年間以上にわたって断続的に続いた【ユグノー戦争】は,スペインなど外国の介入をも招いた。この間,【1572】年には,【サン=バルテルミの虐殺】のような血なまぐさい悲劇も起こる。【『随想録(エセー)』】の著者の【モンテーニュ】は,これに衝撃を受け,自身は国王派のカトリックだったにもかかわらず,強く暴力を非難した。後に選ばれて【ボルドー】市長になると,同市を両勢力の抗争の場としないように奔走した。
 長い争乱は,プロテスタントの首領【アンリ=ド=ナヴァール】の【1589】年の国王即位,彼の【カトリック】への改宗,【ナントの勅令】の公布により,ようやく終わりを迎える。プロテスタントにも【礼拝の自由】や【公職就任】が認められるが,カトリック教徒に比べ不平等が残り,【1685】年にはナントの勅令さえ廃止された。この時,多くのプロテスタントが国外に亡命し,フランスの産業発展に打撃を与えた。プロテスタントに完全に平等な市民権が認められるには.フランス革命をまたねばならなかった。