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大航海時代 西南学院大学

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

15世紀頃から世界の諸地域は,新航路を開拓した西ヨーロッパ諸国の進出によって結びつけられるようになりました。そして16世紀は,まさに地球的な規模で近代の幕開けを告げる大転換の時代といえます。
 先頭を切ったのは,早くから大西洋に進出したポルトガルでした。15世紀前半,【エンリケ航海王子】が,インド航路の開拓をめざして,アフリカ西沿岸の探検を王室の本格的事業として行った。まず大西洋の島々に植民して牧畜と砂糖きびの生産が行われ,続いてアフリカ西岸に航海と商業の拠点が築かれた。
 航海事業は国王【ジョアン2世】の時に活発になり,彼の援助のもと,【1488】年に【バルトロメウ=ディアス】がアフリカ南端の【喜望峰】に達した。ついで国王【マヌエル1世】の命を受けた【ヴァスコ=ダ=ガマ】は,喜望峰を回り,海岸沿いに進んで,【マリンディ】に入港した。そこでムスリムの水先案内人【イブン=マージド】の助力を得てインド洋を横切り,【1498】年にインドのカリカットに達した。
 ポルトガルの成功に刺激されたスペインは,【1492】年に,【ジェノヴァ】出身のコロンブス(コロン)の一行を大西洋に送り出した。彼は,当時広まっていたフィレンツェ【】の天文学者【トスカネリ】らによる地球球体説の影響を受け,大西洋を西に航海した方が早くインディアス(インド)やジパングに達すると信じて,スペインの【イサベル女王】の支援のもと,【パロス】港を出帆し,カリブ海にある現在の【サン=サルバドル】島に到達した。
 彼は,あわせて4回の航海を行ったが,終生そこがインディアスであると信じて疑わなかった。その後,ここが当時のヨーロッパにとって未知の新世界であることがわかり,この新大陸を広くヨーロッパに紹介したフィレンツェ生まれの【アメリゴ=ヴェスプッチ】の名にちなんで,アメリカと名付けられた。またスペイン人【バルボア】も1513年に【パナマ地峡】を横断して,太平洋を発見した。
 他のヨーロッパ諸国も,両国の動きを傍観していたわけではなかった。フランスでは,国王【フランソワ1世】が,フランス人ジャック=カルティエを派遣して現在の【カナダ】を探検させた。イギリスでは,国王【ヘンリ7世】の支援のもとイタリア人の【カボット】が,ニューファンドランドと北アメリカ沿岸を探検した。しかし,それらはまだ継続的な植民や貿易とは結びつかず,さしあたりポルトガルとスペインがヨーロッパ勢力進出の主導権を握っていた。
 そしてポルトガル人【マゼラン(マガリャンイシュ)】は,【1519】年に船隊を率いて出帆した。一行は,大西洋を南下し,南アメリカ南端の海峡を経て太平洋を横断し,1521年【フィリピン諸島】に上陸した。
 さらに一行は住民を服従させようとしたが失敗し,マゼランは住民との交戦中に殺された。マゼラン死後は部下が航海を引き継ぎ,そのまま【モルッカ諸島】に向かい,そこで香料を積荷したのち,スペインに直行した。そして【1522】年に生存者たちは世界一周を達成した。


ネーデルラントの宗教分布

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

 北部ネーデルラント(現在のオランダ)には【ハンザ都市】があり、領主階級から独立を果たした都市市民が政治や経済を担っています。一方、南部ネーデルラントでは【】領主が支配している【農村】で【毛織物工業】が発達していました。南部を【フランドル】地方ともいい、現在の【】ベルギーに当たります。
 北部ネーデルラントでは毛織物工業は発達しませんでした。その理由は、中世都市には【ギルド規制】があり、新しい産業が生まれにくい環境にあったためと説明できます。農村にはギルドはありませんから、農村部のフランドル地方で新しい「工業(【農村マニュファクチュア】)」がヨーロッパで始めて成立したのです。
 しかし、【1517】年に【ルター】の宗教改革が始まり、カトリックと新教との対立激しくなると、ネーデルラントもこの対立に巻き込まれていきました。もともと領主階級は【カトリック】です。したがってフランドル地方の支配者はカトリックということになります。しかし、北部のハンザ都市の商人たちやフランドル地方の毛織物業者たちは、貯蓄や経済活動を奨励してくれる【カルヴァン派】(彼らは乞食という意味の【ゴイセン】と呼ばれていた)に改宗しました。したがって、カトリックと新教の宗教対立が激化すると、フランドル地方の領主階級はカルヴァン派の毛織物工業者を弾圧するようになり、さらに、【1556】年に【フェリペ2世】がスペイ王に即位すると、その傾向は強まっていきました。もともとネーデルラントは神聖ローマ帝国領だったのですが、経済的結びつきがスペインと強かったため、スペインとはかなり離れた場所にありながら、【スペイン】領とされたわけです。このような弾圧が激しさを増した結果、南北のネーデルラントに居たカルヴァン派の人々は、弾圧に耐えかねて独立戦争を始めました。


大航海時代 ポルトガルとスペインの時代 青山学院大学より

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

ヨーロッパが中世から近代へと移行する転換点の一つは,15世紀後半に本格化する大航海時代にあった。
 【1453】年に【ビザンティン帝国】を滅ぼしたオスマン帝国は,地中海東部を軍事的・政治的に制圧しつつあり,経済面でも南アジアとの貿易ルートを独占する勢いであった。こうしたイスラム教徒の攻勢を前にし,彼らに対抗しうる富を手に入れるとともに,キリスト教を布教するという二重の目的から大西洋という新たなフロンティアに乗り出したのが,ヨーロッパの西端に位置するポルトガルとスペインであった。
 ポルトガルはすでに15世紀初頭から,王室の主導下にアフリカ西海岸への探検航海に着手しており,【1488】年,【バーソロミュー=ディアス】はアフリカ最南端の【喜望峰】に到達した。そして,【1498】年には【ヴァスコ・ダ・ガマ】が喜望峰を経由してインド東岸の【カリカット】に到達し,以後,ポルトガルは,ヨーロッパで大きな需要のあった【香辛料】の直接取引きにより,莫大な富を手にいれることとなった。
 イスラム教国と隣接していたスペインはポルトガルに遅れをとらざるをえなかった。ようやく【1492】年,最後に残されたイスラム勢力の拠点,【グラナダ】の攻略に成功したスペイン王室は,ポルトガルの開拓した航路ではなく大西洋を西に航海することでアジアの東岸に達するという【コロンブス】の計画を承認した。コロンブスは同年10月,現在の【バハマ諸島】に到着した。彼はその後,カリブ海を中心に数回の航海をおこなったが,死ぬまで自分の「発見」した土地がアジアの一部であると信じていた。この土地が,アジアでもアフリカでもヨーロッパでもなく,それまで知られていなかった新しい大陸であることを主張したのは,イタリア人の【アメリゴ=ヴェスプッチ】であり,その名にちなんでアメリカと呼ばれることになる。
 ポルトガル,スペインの間では勢力範囲をめぐる対立の恐れが生じ,これをあらかじめ回避するために締結されたのが,【1494】年の【トルデシリャス】条約であった。これは,両国がともにキリスト教の布教という大義を掲げていることから,カトリック教会の最高権威であるローマ教皇が前年に設定した植民地分界線を修正するもので,両国の勢力範囲を確定した。以後,【カブラル】がアフリカ西海岸を航海中に漂着したブラジルを除き,アメリカ大陸はスペインが布教と統治のための正当な権限を有するものとされ,ポルトガルはアジアにおける勢力圏の拡大に努めていく。
 アメリカ大陸ではその後,【バルボア】による太平洋の「発見」や,【マゼラン】一行による大陸最南端部を経由しての太平洋の横断,世界一周の航海などがスペイン王室の支援の下におこなわれるとともに,【1521】年にはメキシコの【アステカ帝国】,【1533】年には南米太平洋岸の【インカ帝国】が征服され,ここに多数の先住民人口を抱える植民地の形成が開始された。これらの植民地では,【ポトシ銀山】をはじめとする銀山が発見され,先住民を労働力として使役することにより莫大な量の銀が生産され,スペイン本国へと送られた。
 このようにポルトガル,スペイン両国にとり,大航海時代は大きな経済的利益をもたらしたが,新たに獲得された領土が政治的な関心をひくことは少なかった。たとえば,スペイン国王にして神聖ローマ帝国の皇帝でもあった【カール5世】にとり,最重要課題はフランス国王,【フランソワ1世】との対抗関係であり,プロテスタント勢力との戦いであり,オスマン帝国からの脅威であった。アメリカ植民地は,そうした外交・軍事上の莫大な費用を調達する役割を期待されたにすぎない。同じことは,その子,【フェリペ2世】についてもいえ,アメリカから送られる銀は,【1571】年の【】レパントの海戦に代表される対オスマン帝国政策や,【1588】年の【アルアダの海戦】の敗北に象徴される対プロテスタント政策などに投入された。結果として,アメリカ産の銀は,アメリカ植民地でもスペイン本国でも経済を活性化することには用いられず,他のヨーロッパ諸国やアジアへと流出することとなった。
 こうして国力を疲弊させていったスペインは,17世紀に入ると大西洋貿易,アジア貿易における覇権を失い,オランダ,イギリスが主導権争いを演じることとなる。


大航海時代

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

15世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ世界は,政治,経済,社会,文化にわたる大きな変動を経験した。
 ドイツ(神聖ローマ帝国)では,15世紀半ばに【グーテンベルク】により【活版印刷術】が発明され,大量の書物や版画などが印刷され,流布するようになった。
 15世紀はまた,イベリア半島の諸国が海外発展を開始した大航海時代の幕開けでもあった。まず,ポルトガルが海外進出政策をとり,【エンリケ航海王子】や,【ジョアン2世】によって,西アフリカの【ヴェルデ岬】からアフリカ南端の【喜望峰】への探険航海が行われた。そして【1498】年には,【ヴァスコ・ダ・ガマ】が,喜望峰を回ってインド洋へ入り,東アフリカの港でムスリムの水先案内人を得て,インドの【カリカット】に到着した。ヨーロッパにとって初めてのインド航路が開かれたのである。その後ポルトガルは,インド西岸から東南アジアへと進出し,首都【リスボン】は,香料などの東方貿易において【ヴェネツィア】に代わって繁栄した。
 ポルトガルと前後して,大西洋を西へ向かったスペインの航海者達は,アメリカ大陸に到達し,16世紀前半には【1521】年【コルテス】がメキシコの【アステカ帝国】、【1533】年【ピサロ】がペルーの【インカ帝国】の両帝国を征服し,植民と商業活動を中心として中南米に広大なスペイン領を作り上げていった。彼らのような征服者をコンキスタド-ルという。また、【1545】年【ボリビア】の【ポトシ銀山】のように、メキシコ,ペルーからヨーロッパへ運ばれた大量の銀は,スペインの【セビリア】の港からネーデルラントの【アントワープ】の港へ運ばれ,ヨーロッパに価格革命をもたらした。
 このような大航海は,イベリア半島の両国の国王権力によってのみ遂行された訳ではなく,コロンブスをはじめとして新大陸へ向かった航海者・探険者や彼らを支援した商人・資本家の多くが中世の地中海商業を担っていた都市【ジェノヴァ】出身のイタリア人であったことも忘れてはならないであろう。
 後にフランス,イギリス,オランダなど北方の諸国も加わって,ヨーロッパ経済の重心は,【地中海】から【大西洋】へと転換していったが,そうしたヨーロッパ社会の変動の中で,各国でそれぞれ独自の国民文化が興隆し,近代ヨーロッパの国民文化の基礎が形作られていったのである。


北イタリア諸都市

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1202】年に教皇【インノケンティウス3世】により組織された【第4回十字軍遠征】は、新興都市【ヴェネツィア】が運命を掛けた戦いでした。十字軍はヴェネツィアの求めに応じてコンスタンティノープルを攻略し、【1204】年に【ラテン帝国】を建設して終了しました。教皇インノケンティウス3世は激怒したということです。これにより、【レパント貿易】(地中海貿易)を独占していたコンスタンティノープルのギリシア商人はレパント貿易から排除され、代わってヴェネツィアやジェノヴァなどの北イタリア諸都市の商人が、レパント貿易を独占するようになったのです。
 このレパント貿易の利益は莫大でした。北イタリア商人は地中海で【マムルーク朝】のムスリム商人から香辛料を買い付けて、西欧の商人に売り渡します。彼らはいわゆる中継貿易を行って利益を上げていました。ここで注意すべきは、彼らが集めていた富は、西欧諸地域にあった富を集めたものであるという点です。この点を記憶して置いてください。彼らの富は絶大で、当時、西欧の最も豊かな人を1000人集めたら999人は北イタリアにいるといわれるほどです。
 北イタリア諸都市の大商人は、これらの富をキリスト教会の天井画や食堂の壁画を描かせる費用としました。芸術家が【フィレンツェ】やミラノ、ローマに集結し、たくさんの文化的遺産を残しています。


ルターの宗教改革とその波及

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

16世紀前半期に西ヨーロッパに起こった宗教改革運動は,ルネサンスとともにヨーロッパ近代を開いたという歴史的意義を持つ。この反カトリックの改革運動は,【1517】年,ドイツ北東部【ザクセン】の【ヴィッテンベルク】大学神学教授【マルティン=ルター】が,【贖宥状】を攻撃する文章を教会の扉に貼り付けたことに始まる。当時の教皇【レオ10世】は,ローマの【サン=ピエトロ大聖堂】の建築資金を調達するために,贖宥状を大々的に売り出した。
 贖宥状は,教会に献金するなどの善行を積めば,信者の犯した過去の罪が赦されるとするものである。カトリック教会には古くから献金によって罪を赦す制度があった。教会にはキリストおよび聖者たちの善行が蓄積されており,献金をする信者には贖宥状を通じてその功徳が分与され,罪が赦されるとする理屈である。11世紀以降,教会は十字軍従軍者や献金者の贖宥を説き,献金は教会の重要な財源となっていた。とりわけ,1476年,煉獄の魂にも効力のある贖宥状が設けられると,教会財政の不足を贖宥状販売で補うという悪弊はいっそう激しくなった。贖宥状を販売する説教師は,「お金が箱の中に投げ入れられる音とともに魂は救われる」と説いたという。
 このようなカトリック教会の教義に対して,ルターは,「人は信仰によってのみ義とされる」すなわち「【信仰義認説】」を説いた。煉獄にいる死者の魂を救う贖宥状に対しては,教会の権威は死者の世界には及ばないこと,教会建築の資金を提供するというわずかな善行で煉獄の魂まで救われるというのであれば,教皇はなぜその大いなる愛でもって煉獄を空にしないのかと反論した。
 「ドイツはローマの牝牛」と呼ばれたように、ローマ教会の収奪に苦しめられていたドイツでは,ルターの贖宥状批判は全国民的な反響を呼んだ。その後,ルターは【1519】年【ライプツィヒ討論】の際、教皇が派遣した論客【エック】との討論の中で、ローマ教皇,公会議の権威を否定し,教皇が破門で威嚇してくると,その勅書をも公衆の面前で焼却した。
 さらに【1521】年,皇帝【カール5世】に【ヴォルムス国会(帝国議会)】に呼び出され,自説の撤回を求められたが,ルターはそれを拒否し不退転の態度を示した。
 ルターの信仰は,キリストの教えである聖書を唯一至高の権威とする「聖書主義」に基づくものであった。そこから,誰もが聖書を読めるようにするため,ヴォルムス国会からの帰途,ルターは【ザクセン侯】の居城であった【ヴァルトブルク城】にこもり,聖書の【ドイツ語訳】を完成する。この聖書は当時開発されていた【グーテンベルグ】の【活版印刷】技術によりドイツ全域にひろまり、ドイツ語の文章表現の基準になった。
 ルターの改革運動のもう一つの主題である「【万人司祭主義】」の「神の前の平等」の理念は、当時のドイツの政治・社会情勢と絡まり,農民の反封建運動を刺激し,1524年,【ドイツ農民戦争】を激発させた。【トマス=ミュンツァー】に率いられた西南ドイツの農民たちは,農奴制の廃止,貢租・賦役の軽減などを要求して戦ったが,地方的に分裂していて不統一な農民軍は,皇帝,諸侯,領主の同盟軍に次々と撃破され,彼は捕らえられて処刑された。
 ルター自身は最初農民蜂起に【同情的】であったが,やがてこれを弾圧する諸侯の側に回った。ルターの教えを採用した諸侯は,カトリック教会から分離し,領内の教会の首長となり,教会儀式の改革,修道院の廃止などを進めた。こうして,ドイツは,カトリック派の皇帝・諸侯と改革派の諸侯・帝国都市との政治的抗争が激化し,【1529】年,【シュパイエル国会(帝国議会)】で、皇帝【カール5世】がいったん認めた信教の自由を取り消したために,改革派の諸侯は皇帝に抗議し,1530年【シュマルカルデン】同盟を結成した。カトリック派と新教派との対立は激化し,やがて【シュマルカルデン】戦争に行き着くが,【1555】年【アウグスブルクの宗教和議】で妥協が成立した。その結果,諸侯はカトリック派とルター派のいずれをも採用できるが,領民は諸侯の選ぶ宗派に従うという原則すなわち【領邦教会制】が確立した。


宗教改革 立教大学

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

 フランス生まれのカルヴァンは,自国での迫害を逃れて,1536年バーゼルで『キリスト教綱要』を著した。これによって一躍名を知られるが,ジュネーヴに姿を現した時には土地と何の結びつきもない一異邦人にすぎなかった。バーゼルは宗教改革の中心地の一つとなっていたが,それに引きかえジュネーヴは,宗教改革の洗礼を受けない司教座都市にとどまっていた。
 カルヴァンは,ルターに比べ,信仰のみによって義とされるという考え方を論理的により徹底的に押し進めた。彼が力をこめて説いた教義に,神の意志の絶対性とこれへの服従を説く予定説がある。この教えはヨーロッパ各地で,当時の成長しつつあった商工業者層に受け入れられ,彼らのなかに独特の職業労働への倫理的態度を生み出した。
 またカルヴァンは,ツヴィングリに比べても,教会の都市権力からの独立をより強く主張し,妥協なき戦いを開始した。すなわち,上部から任命される司教を廃止し,信仰・行状ともにすぐれた者を信徒代表として長老に選出し,牧師を補佐させ,市民の生活を監視・指導させた。世俗的権力であるジュネーヴ市参事会に戦いをいどみ,1555年,参事会の選挙でカルヴァン派市民が勝利をおさめ,都市(国家)に対する教会の優位を実現した。
 フランスでもカルヴァン派プロテスタントは増加し,商工業発展の推進力となり,その拠点都市が各地に生まれた。プロテスタントへの改宗は有力貴族層にも及んだが,「支配者の宗教がその地の宗教である」とするドイツの領邦教会制のような秩序は,フランスでは成立せず,抗争はより複雑化した。そこには宮廷をめぐる勢力争いという側面もあったが,抗争は基本的には,絶対主義の確立をめざすカトリックの国王勢力に対する貴族層の抵抗であり,後者がプロテスタント勢力に頼ったのである。1562年のカトリック勢力によるプロテスタントの殺害に端を発し,30年間以上にわたって断続的に続いたユグノー戦争は,スペインなど外国の介入をも招いた。この間,1572年には,サン=バーテルミーの虐殺のような血なまぐさい悲劇も起こる。『随想録(エセー)』の著者のモンテニューは,これに衝撃を受け,自身は国王派のカトリックだったにもかかわらず,強く暴力を非難した。後に選ばれてボルドー市長になると,同市を両勢力の抗争の場としないように奔走した。
 長い争乱は,プロテスタントの首領アンリ=ド=ナヴァールの1598年の国王即位,彼のカトリックへの改宗,ナントの勅令の公布により,ようやく終わりを迎える。プロテスタントにも礼拝の自由や公職就任が認められるが,カトリック教徒に比べ不平等が残り,1685年にはナントの勅令さえ廃止された。この時,多くのプロテスタントが国外に亡命し,フランスの産業発展に打撃を与えた。プロテスタントに完全に平等な市民権が認められるには.フランス革命をまたねばならなかった。


カルヴァンの宗教改革 

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

【フランス】生まれの【カルヴァン】は,自国での迫害を逃れて,1536年【バーゼル】で【『キリスト教綱要』】を著した。これによって一躍名を知られるが,ジュネーヴに姿を現した時には土地と何の結びつきもない一異邦人にすぎなかった。バーゼルは宗教改革の中心地の一つとなっていたが,それに引きかえ【ジュネーヴ】は,宗教改革の洗礼を受けない司教座都市にとどまっていた。
 カルヴァンは,ルターに比べ,【信仰のみによって義とされる】という考え方を論理的により徹底的に押し進めた。彼が力をこめて説いた教義に,神の意志の絶対性とこれへの服従を説く【予定説】がある。この教えはヨーロッパ各地で,当時の成長しつつあった【商工業者層】に受け入れられ,彼らのなかに2)独特の職業労働への倫理的態度を生み出した。
 またカルヴァンは,【ツヴィングリ】に比べても,教会の都市権力からの独立をより強く主張し,妥協なき戦いを開始した。すなわち,上部から任命される司教を廃止し,信仰・行状ともにすぐれた者を信徒代表として【長老】に選出し,牧師を補佐させ,市民の生活を監視・指導させた。世俗的権力であるジュネーヴ市参事会に戦いをいどみ,1555年,参事会の選挙でカルヴァン派市民が勝利をおさめ,都市(国家)に対する教会の優位を実現した。
 フランスでもカルヴァン派プロテスタントは増加し,商工業発展の推進力となり,その拠点都市が各地に生まれた。プロテスタントへの改宗は有力貴族層にも及んだが,「支配者の宗教がその地の宗教である」とするドイツの【領邦教会】制のような秩序は,フランスでは成立せず,抗争はより複雑化した。そこには宮廷をめぐる勢力争いという側面もあったが,抗争は基本的には,絶対主義の確立をめざすカトリックの国王勢力に対する貴族層の抵抗であり,後者がプロテスタント勢力に頼ったのである。【1562】年のカトリック勢力によるプロテスタントの殺害に端を発し,30年間以上にわたって断続的に続いた【ユグノー戦争】は,スペインなど外国の介入をも招いた。この間,【1572】年には,【サン=バルテルミの虐殺】のような血なまぐさい悲劇も起こる。【『随想録(エセー)』】の著者の【モンテーニュ】は,これに衝撃を受け,自身は国王派のカトリックだったにもかかわらず,強く暴力を非難した。後に選ばれて【ボルドー】市長になると,同市を両勢力の抗争の場としないように奔走した。
 長い争乱は,プロテスタントの首領【アンリ=ド=ナヴァール】の【1589】年の国王即位,彼の【カトリック】への改宗,【ナントの勅令】の公布により,ようやく終わりを迎える。プロテスタントにも【礼拝の自由】や【公職就任】が認められるが,カトリック教徒に比べ不平等が残り,【1685】年にはナントの勅令さえ廃止された。この時,多くのプロテスタントが国外に亡命し,フランスの産業発展に打撃を与えた。プロテスタントに完全に平等な市民権が認められるには.フランス革命をまたねばならなかった。


西欧政治思想史

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

 


前6世紀初、小アジアのイオニアのミレトスを中心に、自然の本質を合理的に探ろうとする自然哲学が成立した。前585の日食を予言したとされるタレスや、「万物は流転する」の言葉を残したヘラクレイトスらがイオニア自然哲学を代表する。一方、アテネにおいて民主政治が確立すると、ポリス市民たちは政治や軍事に活動の中心を求め、財産や生命以上に名声や名誉を尊重した。ポリスでは政治参加の権利や政治的発言力をめぐる競争が公然と展開され、市民として協力し合う一方で、激しい名誉獲得を追及する行動様式が支配的であった。このような「協力」と「競争」とのバランスが崩れていった時代がペロポネソス戦争の時期である。名誉獲得のための弁論・修辞を教える職業教師が出現し、その代表者であるプロタゴラスは絶対的な真理の実在を否定した。このような潮流に対して一線を画したのが、西欧政治思想の源流と位置づけられるソクラテスである。彼は著作を残していないが、その弟子プラトンの著作から彼の思想を知ることができる。ソクラテスは絶対的真理の存在を説いてアテネの青年を導いたとされる。ソクラテスは従来のポリス市民が行動規範としていた名誉や名声を追求する考え方を改めるよう求め、絶対的真理である「魂」を追究することで、荒廃したポリスを立て直すことを目指した。しかし、このことは現実のポリス社会との軋轢を生み、市民に誤解されて刑死を余儀なくされた。プラトンはイデア論・理想国家論を説き、古代最大の総合的哲学者と位置づけられるその弟子アリストテレスは、その著『政治学』で最善のポリスを構想している。


ヘレニズム時代になるとポリス的生活様式は衰えたため、ポリス的に生きるポリス人から、ポリスや民族の枠組みから離れて同じ世界人であるというコスモポリタニズムの風潮が浸透する一方、個人主義の傾向を帯びていった。この時流を反映して、哲学も政治からの逃避や個人の心の安静を追求するようになり、禁欲による幸福を追求するゼノンらのストア派や、精神的快楽を求めるようエピクロス派がさかんになった。一方、イオニアで起こった自然哲学の流れは、ヘレニズム時代には自然科学として発展を見せた。ピタゴラス学派による数学、ヒッポクラテスによる医学などがその例である。しかし、労働力を奴隷労働に依存していたため、科学知識が工業生産に活用されることは見られなかった。


 ギリシア哲学はキケロによってローマの人々に伝えられた。実践倫理を重んじた彼の哲学はローマの上流社会に受け入れられ、その文体はラテン語散文の模範とされた。ストア派哲学の流れは皇帝ネロの師であるセネカや『自省録』を著したマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝などの哲人に受け継がれた。


 中世になると「哲学は神学の婢」という言葉にあるように、神学が最高の学問とされた。神と教会の権威の確立をめざす神学は、教父の思想を基礎として、カール大帝時代に宮廷に招かれたイギリスの学僧アルクィンらにはじまった。古代最大の教父アウグスティヌスは、ゲルマン民族の大移動の中で生涯を送った。永遠の都ローマが破壊された禍がキリスト教批判に向けられると、全22巻から成る大著を残した。彼はヴァンダル族に包囲されたアフリカのヒッポで劇的な生涯を閉じた。その後、神学はアンセルムスの実在論を経て、12世紀ごろには壮大な体系のスコラ哲学に発展した。この過程には十字軍時代にビザンツ帝国やイスラムから伝えられたアリストテレス哲学が影響を与えている。そして、13世紀にスコラ哲学は『神学大全』を著したトマス=アクィナスによって集大成した。また、中世末期にはウィリアム=オッカムが唯名論を展開した。


 ルネサンス文化は、フィレンツェにおいていち早く花が開いたが、やがてアルプス以北の地域にも新しい思想傾向が生まれた。ネーデルラント出身のエラスムスは、16世紀最大の人文主義者として国際的に活躍し、『愚神礼讃』の中で教会腐敗を攻撃した。またエラスムスの友人トマス=モアは、理想の国家を描く『ユートピア』を著してイギリス社会の現実を批判した。このような教会の教えに対する批判精神は、中世では衰えていた科学精神を呼び覚ますきっかけとなった。


 自然科学の発達に伴って、哲学思想においても理性や経験を重んじる傾向が強まった。「われ思う、ゆえに我あり」の言葉で知られるデカルトは、理性によって自然界の法則を解明できると説いた。大陸の合理論に対して、イギリスでは哲学者フランシス=ベーコン以来、実験と観察を重んじる経験論が展開された。


 新しい思考方法が発達すると、国家や社会に対する新しい政治思想が出現した。とくにホッブスはデカルトから始まる近代哲学を継承し、哲学的思考様式を政治学に応用した思想家である。彼は(I)が説くように、学問の目的を生活の進歩と社会の発展にあるとした。彼はピューリタン革命による秩序崩壊を見ると、『リヴァイアサン』を書き、事実上、主権者は絶対的権力を持つこととした。またロックが『市民政府二論』を著し、社会契約説にたちつつ、政治状況の多様性を考察しつつ、自由な社会体制の可能性を追求する国家論を展開した。一方フランスでは、モンテスキューが啓蒙専制君主に期待をかける風潮を批判しつつイギリスの議会政治をたたえ、その著『法の精神』では、制度論を駆使しつつ、既存の政治体制を抑えるために三権分立を唱えた。またサンスーシー宮殿に招かれフリードリヒ2世と懇談したヴォルテールも、絶対主義や教会の腐敗などを痛烈に批判した。ルソーは『人間不平等起源論』などで、人間の自由・平等を唱え、主権在民を主張した。フランスにおけるこのような思想の拡大は、『百科全書』の刊行によってフランス革命前の市民階級を教化に貢献した。


 


 


宗教改革の概観

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

 中世ローマ=カトリック教会は,単にヨーロッパの宗教的,文化的な勢力であるだけではなく,政治的な勢力でもあった。しかし14~15世紀にその影響力を弱め始めた。
 【14世紀後半】に,イギリスの【オックスフォード大学】教授【ウィクリフ】は教会改革の必要性を訴えた。彼は,聖書が唯一の信仰の規範であると主張し,一般の人が自分で聖書を読めるように聖書を【英語】に翻訳した。また15世紀の初めにはチェコのボヘミア(ベーメン)の【プラハ大学】の【フス】も聖書主義を唱えている。彼は【1415】年【コンスタンツ公会議】で焚刑にされた。彼らのような改革者は16世紀の宗教改革への道を開いたといえる。
 ルネサンスもまた教会改革のためのきっかけとなった。具体的な例をあげると【オランダ】の人文主義者【エラスムス】がいる。彼は【ギリシア語】で聖書を研究し,【『愚神礼賛』】(1509年頃)では聖職者などの腐敗を風刺した。また彼はルターの理解者であったことでも知られる。しかし、二人はのちに対立する。
 教会改革ののろしはカトリック教会の内部から起こった。【1517】年に,カトリック教会の修道士で,神学の教授である【ルター】は,【『95か条の論題』】を【ラテン】語で発表し,ドイツの【ヴィッテンベルク城教会】の扉に掲げた。
 この文書は,ローマ教皇【レオ10世】が【聖ピエトロ大聖堂】の改築などのために販売した【免罪符】を批判した。ルターは,人々が【善行や儀式】によるのではなく,福音への【信仰によってのみ】救われると主張した。
 その後,ローマ教皇【レオ10世】は,【1520】年【ルターを破門】した。さらに皇帝【カール5世】は,ルターに【1521】年【ヴォルムス】の帝国議会で自説を撤回するように強要した。しかし,ルターはそれを拒絶し,【ザクセン選帝侯フリードリヒ】の保護を受けて,『新約聖書』の【ドイツ語】訳に専念した。こうして完成されたドイツ語の『新約聖書』は民衆に聖書の内容に触れる機会を与えただけではなく,当時発達し始めていた【グーテンベルグ】の【活版印刷】によってドイツ中に広まり、ドイツ語の標準化にも貢献した。
 スイスの【チューリヒ】において【ツヴィングリ】は,教会改革のための運動を導いた。【カルヴァン】もスイスの【ジュネーブ】で宗教改革を行ったが,彼の教えによると,魂が救われるかどうかは,神が主権的に決めている。これを【予定説】という。
 イギリス宗教改革のきっかけは,宗教的というよりも政治的な理由に基づいていた。【ヘンリー8世】は,王妃カザリンとの離婚についてローマ教皇の許可を得られなかったので,カトリック教会から離脱した。彼の息子【エドワード6世】は,【『一般祈禱書』】を定め,その後【エリザベス1世】が【統一法】によって国教会を確立した。


ルネサンスから18世紀の文化史 同志社大学

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度
 イタリアのルネサンスは【16世紀のはじめ】に最盛期を迎えた。美術においては【「モナ=リザ」】を制作した【レオナルド=ダ=ヴィンチ】が有名である。また【ミケランジェロ】は教皇の要請で【ヴァチカン】宮殿の【システィナ礼拝堂】に,大天井画【「天地創造」】や祭壇画をえがいた。建築においては16世紀に入ってからローマの聖ピエトロ大聖堂が新築されたが,それははじめ【ブラマンテ】,ついで【ミケランジェロ】の設計によるものであった。
 イタリアでルネサンス絵画がおこったのとほぼ同じころ,ネーデルラントにも【ファン=アイク兄弟】がでて,【油絵画法】をはじめ,【フランドル派】の基をひらいた。16世紀にでた【ブリューゲル】は,【農民や遊ぶ子供】(作品「子供の遊び」)など,素朴な民衆の群像をえがいた。ドイツでは聖書を主題にした多くの版画で知られる【デューラー】などが活躍した。
 ルネサンスに続く時代のヨーロッパの文化は,絶対主義のもとで,王侯の宮廷生活との結びつきを深めた。絶対君主の権勢をもっともよく示すものとして【バロック】式の美術がある。それは【ルイ14世】が建てた宮殿に代表される。絵画では画家ベ【ラスケス】や【ムリリョ】らが数々のすぐれた【肖像画や宗教画】で宮廷をかざった。独立後のオランダでは,【「夜警」】を制作した【レンブラント】が有名である。この画家は,明暗を強調する写実的な画法で,市民のたくましい活力を表現した。
 その後フランスの【ワトー】の絵画にみられるような,繊細優美な【ロココ】式の美術が広まり,王侯貴族や富裕市民に愛好されたが,プロイセンの【フリードリヒ2世】が【18世紀半ば】に建てた【サンスーシ宮殿】もこの様式の建築として名高い。文学では,【ルイ14世】時代のフランスに,【喜劇作家】の【モリエール】らがでて,規則と調和を重んずる古典主義の傑作をうんだ。
 イギリスでは,【17世紀】に【ミルトン】がでて,【ピューリタン文学】の名作を残した。【バイヤン】の【「天路歴程」】もまたその種の名作である。
 17世紀のヨーロッパは,近代的合理主義の思想や学問が本格的に確立されて,自然界の研究が進歩した。イタリアの【ガリレイ】は,自分で製作した望遠鏡で天体の動きをくわしく観察し,これにもとづく【「天文対話」】で【地動説】の正しさを経験的に立証した。同じころドイツ人の【ケプラー】は,皇帝の保護のもとに,地動説の立場から【惑星運行の法則】を発見している。このほか18世紀の植物学ではリンネによってすぐれた成果がうみだされた。事実の観察を重んじ,そこから一般法則をみちびく帰納法を説いたのは,イギリス人の【フランシス=ベーコン】であった。また,【18世紀末】にあらわれたドイツの哲学者【カント】は,【ロック】をへて【ヒューム】により完成された【イギリス経験論】と,【デカルト】以来の【大陸合理論】とを総合し,人間の認識能力に根本的な反省を加える批判哲学をとなえ,【ドイツ観念論】の祖となった。

チンギス=ハンとオゴタイ=ハン

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度

 13世紀はモンゴルの世紀です。チンギス=ハンがモンゴル民族を統一し、1206年に可汗に即位しました。その後、彼は中央アジアのホラズム王国ナイマン部西夏を滅ぼしてシルクロードを制圧し、駅伝制度であるジャムチを作りました。ジャムチは14世紀までユーラシア大陸で維持され、東西の文化交流や商業活動を支えました。また、千戸制という部族制度を確立し、帝国の軍事力の維持を整備しています。
 彼の長男はジュチという人ですが、彼の出生はトラブルの中にありました。彼は自分の父親が偉大な可汗チンギス=ハンであることを証明するために、戦いでは常に先頭に立って戦ったといわれています。さらに彼の子バトゥの一生も戦いの中にありました。
 しかし、チンギス=ハンの後を継いだのは、長男ジュチではなく弟オゴタイ=ハンでした。彼は華北にあった満州女真族1234年に滅ぼします。さらにジュチの子バトゥに命じて、ステップルートから南ロシアを攻撃させます。彼は1240年ロシアの中心都市キエフを攻略。さらに西に進んでポーランドに進攻しています。
 当時のヨーロッパ人は西アジアのイスラム教国と十字軍の戦いを続けていました。ヨーロッパ人は苦戦続きでしたが、「プレスター=ジョンの伝説」を信じていました。東方のキリスト教国がヨーロッパを救いに軍隊を差し向けてくれる、というものです。ところが実際にポーランドを襲ったのはバトゥのモンゴル軍で、抵抗する者には強烈な見返りも与えてきました。1241リーグニッツの戦いで、ポーランドとリトアニアの連合軍はバトゥ軍に破れます。この戦いは「ワールシュタットの戦い」ともいわれます。ワールシュタットの意味は「血に塗られた土地」です。しかし、このとき都カラコルムで第2代可汗オゴタイ=ハンが亡くなった知らせが届き、バトゥは次の可汗を決定する会議であるクリルタイ出席のために急遽帰国しました。このオゴタイ=ハンの死でヨーロッパは救われたのです。
 その後、バトゥが征服した南ロシアにキプチャク=ハン国が建国されます。都はステップルート上の都市サライです。


モンゴルの時代の東西交渉

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度

 都がモンゴル高原のカラコルムに置かれていた時代、第3代可汗グユフ=ハンのときにカラコルムを訪れたプラノ=カルピニは、「プレスター=ジョンの伝説」を信じた教皇インノケンティウス4世に派遣され、モンゴル帝国の調査を行いました。モンゴルとは何者なのか?ということです。また、フランス王ルイ9世に派遣されてカラコルムにやって来たルブルックも、モンゴルとの同盟関係を模索しています。当時の西欧は西アジアのイスラム勢力に対して十字軍遠征を行ってきましたが、軍事的に劣勢でした。そこで彼らは東方に出現したモンゴル帝国との軍事同盟を模索したのです。
 元が建国して都が大都に置かれた後、ヴェネチィア出身の商人マルコ=ポーロは、1271年にヴェネチィアを出発。陸路シルクーロードを経て大都に到達。そこでフビライ=ハンに17年間仕えました。その後、彼は帰国の途中に敵国ジェノヴァで投獄され、獄中で『東方見聞録(世界の記述)』を口述筆記させました。筆者はルスチアーノという人物でした。
 さらに大都には元の時代に初めてカトリックが布教されています。初代大都大司教として派遣されたのはモンテ=コルヴィノです。唐代にもキリスト教が伝播しましたが、このときはネストリウス派キリスト教でした。中国では景教と呼ばれています。
 また、モロッコ出身の大旅行家イブン=バトゥータも元の都大都を訪れています。彼は『三大陸周遊記』を残しました。


 


 


 


 


元代の中国文化

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度

 元ではモンゴル人によって儒学が極めて軽視されたため、中国人たちは儒教的倫理に縛られないで文化活動を行なうことができました。民衆は口語表現の歌劇である「元曲」を楽しみました。代表的な元曲には、『漢宮秋』・『西湘記』・『琵琶記』があります。馬到遠の『漢宮秋』は漢代の王昭君の物語です。また小説『三国志演義』・『水滸伝』など中国人の英雄が登場する作品が登場。モンゴル人支配下に置かれた中国人の気持ちが中国人英雄を生み出したとも言えるでしょう。
 科学では郭守敬が作った「授時暦」は、江戸時代の「貞享暦」のもとになったことで有名です。


 


キプチャク=ハン国

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度

 南ロシアを遠征したバトゥが建国したキプチャク=ハン国は都をステップ地帯のサライに置き、「タタールのくびき」と呼ばれる統治をスラブ人に行いました。
 14世紀になるとハイドゥの乱でモンゴル勢力は分裂しました。しかし、それぞれの地で各ハン国は全盛期を迎えました。キプチャク=ハン国ではウズベク=ハンが登場し、イスラム教を国教としながら全盛期を現出しました。
 このモンゴルの支配は、モスクワ大公国が成長しイヴァン3世イヴァン4世が登場する頃まで続きました。