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宗教改革 立教大学

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

 フランス生まれのカルヴァンは,自国での迫害を逃れて,1536年バーゼルで『キリスト教綱要』を著した。これによって一躍名を知られるが,ジュネーヴに姿を現した時には土地と何の結びつきもない一異邦人にすぎなかった。バーゼルは宗教改革の中心地の一つとなっていたが,それに引きかえジュネーヴは,宗教改革の洗礼を受けない司教座都市にとどまっていた。
 カルヴァンは,ルターに比べ,信仰のみによって義とされるという考え方を論理的により徹底的に押し進めた。彼が力をこめて説いた教義に,神の意志の絶対性とこれへの服従を説く予定説がある。この教えはヨーロッパ各地で,当時の成長しつつあった商工業者層に受け入れられ,彼らのなかに独特の職業労働への倫理的態度を生み出した。
 またカルヴァンは,ツヴィングリに比べても,教会の都市権力からの独立をより強く主張し,妥協なき戦いを開始した。すなわち,上部から任命される司教を廃止し,信仰・行状ともにすぐれた者を信徒代表として長老に選出し,牧師を補佐させ,市民の生活を監視・指導させた。世俗的権力であるジュネーヴ市参事会に戦いをいどみ,1555年,参事会の選挙でカルヴァン派市民が勝利をおさめ,都市(国家)に対する教会の優位を実現した。
 フランスでもカルヴァン派プロテスタントは増加し,商工業発展の推進力となり,その拠点都市が各地に生まれた。プロテスタントへの改宗は有力貴族層にも及んだが,「支配者の宗教がその地の宗教である」とするドイツの領邦教会制のような秩序は,フランスでは成立せず,抗争はより複雑化した。そこには宮廷をめぐる勢力争いという側面もあったが,抗争は基本的には,絶対主義の確立をめざすカトリックの国王勢力に対する貴族層の抵抗であり,後者がプロテスタント勢力に頼ったのである。1562年のカトリック勢力によるプロテスタントの殺害に端を発し,30年間以上にわたって断続的に続いたユグノー戦争は,スペインなど外国の介入をも招いた。この間,1572年には,サン=バーテルミーの虐殺のような血なまぐさい悲劇も起こる。『随想録(エセー)』の著者のモンテニューは,これに衝撃を受け,自身は国王派のカトリックだったにもかかわらず,強く暴力を非難した。後に選ばれてボルドー市長になると,同市を両勢力の抗争の場としないように奔走した。
 長い争乱は,プロテスタントの首領アンリ=ド=ナヴァールの1598年の国王即位,彼のカトリックへの改宗,ナントの勅令の公布により,ようやく終わりを迎える。プロテスタントにも礼拝の自由や公職就任が認められるが,カトリック教徒に比べ不平等が残り,1685年にはナントの勅令さえ廃止された。この時,多くのプロテスタントが国外に亡命し,フランスの産業発展に打撃を与えた。プロテスタントに完全に平等な市民権が認められるには.フランス革命をまたねばならなかった。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
かこもん。 (ゆき)
2009-07-14 20:34:46
できれば前漢までお願いします。
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かこもん!!! (ゆき)
2009-07-15 21:56:58
問題アップしてくださいー

後漢までできれば。
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