前6世紀初、小アジアのイオニアのミレトスを中心に、自然の本質を合理的に探ろうとする自然哲学が成立した。前585の日食を予言したとされるタレスや、「万物は流転する」の言葉を残したヘラクレイトスらがイオニア自然哲学を代表する。一方、アテネにおいて民主政治が確立すると、ポリス市民たちは政治や軍事に活動の中心を求め、財産や生命以上に名声や名誉を尊重した。ポリスでは政治参加の権利や政治的発言力をめぐる競争が公然と展開され、市民として協力し合う一方で、激しい名誉獲得を追及する行動様式が支配的であった。このような「協力」と「競争」とのバランスが崩れていった時代がペロポネソス戦争の時期である。名誉獲得のための弁論・修辞を教える職業教師が出現し、その代表者であるプロタゴラスは絶対的な真理の実在を否定した。このような潮流に対して一線を画したのが、西欧政治思想の源流と位置づけられるソクラテスである。彼は著作を残していないが、その弟子プラトンの著作から彼の思想を知ることができる。ソクラテスは絶対的真理の存在を説いてアテネの青年を導いたとされる。ソクラテスは従来のポリス市民が行動規範としていた名誉や名声を追求する考え方を改めるよう求め、絶対的真理である「魂」を追究することで、荒廃したポリスを立て直すことを目指した。しかし、このことは現実のポリス社会との軋轢を生み、市民に誤解されて刑死を余儀なくされた。プラトンはイデア論・理想国家論を説き、古代最大の総合的哲学者と位置づけられるその弟子アリストテレスは、その著『政治学』で最善のポリスを構想している。
ヘレニズム時代になるとポリス的生活様式は衰えたため、ポリス的に生きるポリス人から、ポリスや民族の枠組みから離れて同じ世界人であるというコスモポリタニズムの風潮が浸透する一方、個人主義の傾向を帯びていった。この時流を反映して、哲学も政治からの逃避や個人の心の安静を追求するようになり、禁欲による幸福を追求するゼノンらのストア派や、精神的快楽を求めるようエピクロス派がさかんになった。一方、イオニアで起こった自然哲学の流れは、ヘレニズム時代には自然科学として発展を見せた。ピタゴラス学派による数学、ヒッポクラテスによる医学などがその例である。しかし、労働力を奴隷労働に依存していたため、科学知識が工業生産に活用されることは見られなかった。
ギリシア哲学はキケロによってローマの人々に伝えられた。実践倫理を重んじた彼の哲学はローマの上流社会に受け入れられ、その文体はラテン語散文の模範とされた。ストア派哲学の流れは皇帝ネロの師であるセネカや『自省録』を著したマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝などの哲人に受け継がれた。
中世になると「哲学は神学の婢」という言葉にあるように、神学が最高の学問とされた。神と教会の権威の確立をめざす神学は、教父の思想を基礎として、カール大帝時代に宮廷に招かれたイギリスの学僧アルクィンらにはじまった。古代最大の教父アウグスティヌスは、ゲルマン民族の大移動の中で生涯を送った。永遠の都ローマが破壊された禍がキリスト教批判に向けられると、全22巻から成る大著を残した。彼はヴァンダル族に包囲されたアフリカのヒッポで劇的な生涯を閉じた。その後、神学はアンセルムスの実在論を経て、12世紀ごろには壮大な体系のスコラ哲学に発展した。この過程には十字軍時代にビザンツ帝国やイスラムから伝えられたアリストテレス哲学が影響を与えている。そして、13世紀にスコラ哲学は『神学大全』を著したトマス=アクィナスによって集大成した。また、中世末期にはウィリアム=オッカムが唯名論を展開した。
ルネサンス文化は、フィレンツェにおいていち早く花が開いたが、やがてアルプス以北の地域にも新しい思想傾向が生まれた。ネーデルラント出身のエラスムスは、16世紀最大の人文主義者として国際的に活躍し、『愚神礼讃』の中で教会腐敗を攻撃した。またエラスムスの友人トマス=モアは、理想の国家を描く『ユートピア』を著してイギリス社会の現実を批判した。このような教会の教えに対する批判精神は、中世では衰えていた科学精神を呼び覚ますきっかけとなった。
自然科学の発達に伴って、哲学思想においても理性や経験を重んじる傾向が強まった。「われ思う、ゆえに我あり」の言葉で知られるデカルトは、理性によって自然界の法則を解明できると説いた。大陸の合理論に対して、イギリスでは哲学者フランシス=ベーコン以来、実験と観察を重んじる経験論が展開された。
新しい思考方法が発達すると、国家や社会に対する新しい政治思想が出現した。とくにホッブスはデカルトから始まる近代哲学を継承し、哲学的思考様式を政治学に応用した思想家である。彼は(I)が説くように、学問の目的を生活の進歩と社会の発展にあるとした。彼はピューリタン革命による秩序崩壊を見ると、『リヴァイアサン』を書き、事実上、主権者は絶対的権力を持つこととした。またロックが『市民政府二論』を著し、社会契約説にたちつつ、政治状況の多様性を考察しつつ、自由な社会体制の可能性を追求する国家論を展開した。一方フランスでは、モンテスキューが啓蒙専制君主に期待をかける風潮を批判しつつイギリスの議会政治をたたえ、その著『法の精神』では、制度論を駆使しつつ、既存の政治体制を抑えるために三権分立を唱えた。またサンスーシー宮殿に招かれフリードリヒ2世と懇談したヴォルテールも、絶対主義や教会の腐敗などを痛烈に批判した。ルソーは『人間不平等起源論』などで、人間の自由・平等を唱え、主権在民を主張した。フランスにおけるこのような思想の拡大は、『百科全書』の刊行によってフランス革命前の市民階級を教化に貢献した。