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西欧政治思想史

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

 


前6世紀初、小アジアのイオニアのミレトスを中心に、自然の本質を合理的に探ろうとする自然哲学が成立した。前585の日食を予言したとされるタレスや、「万物は流転する」の言葉を残したヘラクレイトスらがイオニア自然哲学を代表する。一方、アテネにおいて民主政治が確立すると、ポリス市民たちは政治や軍事に活動の中心を求め、財産や生命以上に名声や名誉を尊重した。ポリスでは政治参加の権利や政治的発言力をめぐる競争が公然と展開され、市民として協力し合う一方で、激しい名誉獲得を追及する行動様式が支配的であった。このような「協力」と「競争」とのバランスが崩れていった時代がペロポネソス戦争の時期である。名誉獲得のための弁論・修辞を教える職業教師が出現し、その代表者であるプロタゴラスは絶対的な真理の実在を否定した。このような潮流に対して一線を画したのが、西欧政治思想の源流と位置づけられるソクラテスである。彼は著作を残していないが、その弟子プラトンの著作から彼の思想を知ることができる。ソクラテスは絶対的真理の存在を説いてアテネの青年を導いたとされる。ソクラテスは従来のポリス市民が行動規範としていた名誉や名声を追求する考え方を改めるよう求め、絶対的真理である「魂」を追究することで、荒廃したポリスを立て直すことを目指した。しかし、このことは現実のポリス社会との軋轢を生み、市民に誤解されて刑死を余儀なくされた。プラトンはイデア論・理想国家論を説き、古代最大の総合的哲学者と位置づけられるその弟子アリストテレスは、その著『政治学』で最善のポリスを構想している。


ヘレニズム時代になるとポリス的生活様式は衰えたため、ポリス的に生きるポリス人から、ポリスや民族の枠組みから離れて同じ世界人であるというコスモポリタニズムの風潮が浸透する一方、個人主義の傾向を帯びていった。この時流を反映して、哲学も政治からの逃避や個人の心の安静を追求するようになり、禁欲による幸福を追求するゼノンらのストア派や、精神的快楽を求めるようエピクロス派がさかんになった。一方、イオニアで起こった自然哲学の流れは、ヘレニズム時代には自然科学として発展を見せた。ピタゴラス学派による数学、ヒッポクラテスによる医学などがその例である。しかし、労働力を奴隷労働に依存していたため、科学知識が工業生産に活用されることは見られなかった。


 ギリシア哲学はキケロによってローマの人々に伝えられた。実践倫理を重んじた彼の哲学はローマの上流社会に受け入れられ、その文体はラテン語散文の模範とされた。ストア派哲学の流れは皇帝ネロの師であるセネカや『自省録』を著したマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝などの哲人に受け継がれた。


 中世になると「哲学は神学の婢」という言葉にあるように、神学が最高の学問とされた。神と教会の権威の確立をめざす神学は、教父の思想を基礎として、カール大帝時代に宮廷に招かれたイギリスの学僧アルクィンらにはじまった。古代最大の教父アウグスティヌスは、ゲルマン民族の大移動の中で生涯を送った。永遠の都ローマが破壊された禍がキリスト教批判に向けられると、全22巻から成る大著を残した。彼はヴァンダル族に包囲されたアフリカのヒッポで劇的な生涯を閉じた。その後、神学はアンセルムスの実在論を経て、12世紀ごろには壮大な体系のスコラ哲学に発展した。この過程には十字軍時代にビザンツ帝国やイスラムから伝えられたアリストテレス哲学が影響を与えている。そして、13世紀にスコラ哲学は『神学大全』を著したトマス=アクィナスによって集大成した。また、中世末期にはウィリアム=オッカムが唯名論を展開した。


 ルネサンス文化は、フィレンツェにおいていち早く花が開いたが、やがてアルプス以北の地域にも新しい思想傾向が生まれた。ネーデルラント出身のエラスムスは、16世紀最大の人文主義者として国際的に活躍し、『愚神礼讃』の中で教会腐敗を攻撃した。またエラスムスの友人トマス=モアは、理想の国家を描く『ユートピア』を著してイギリス社会の現実を批判した。このような教会の教えに対する批判精神は、中世では衰えていた科学精神を呼び覚ますきっかけとなった。


 自然科学の発達に伴って、哲学思想においても理性や経験を重んじる傾向が強まった。「われ思う、ゆえに我あり」の言葉で知られるデカルトは、理性によって自然界の法則を解明できると説いた。大陸の合理論に対して、イギリスでは哲学者フランシス=ベーコン以来、実験と観察を重んじる経験論が展開された。


 新しい思考方法が発達すると、国家や社会に対する新しい政治思想が出現した。とくにホッブスはデカルトから始まる近代哲学を継承し、哲学的思考様式を政治学に応用した思想家である。彼は(I)が説くように、学問の目的を生活の進歩と社会の発展にあるとした。彼はピューリタン革命による秩序崩壊を見ると、『リヴァイアサン』を書き、事実上、主権者は絶対的権力を持つこととした。またロックが『市民政府二論』を著し、社会契約説にたちつつ、政治状況の多様性を考察しつつ、自由な社会体制の可能性を追求する国家論を展開した。一方フランスでは、モンテスキューが啓蒙専制君主に期待をかける風潮を批判しつつイギリスの議会政治をたたえ、その著『法の精神』では、制度論を駆使しつつ、既存の政治体制を抑えるために三権分立を唱えた。またサンスーシー宮殿に招かれフリードリヒ2世と懇談したヴォルテールも、絶対主義や教会の腐敗などを痛烈に批判した。ルソーは『人間不平等起源論』などで、人間の自由・平等を唱え、主権在民を主張した。フランスにおけるこのような思想の拡大は、『百科全書』の刊行によってフランス革命前の市民階級を教化に貢献した。


 


 


宗教改革の概観

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度

 中世ローマ=カトリック教会は,単にヨーロッパの宗教的,文化的な勢力であるだけではなく,政治的な勢力でもあった。しかし14~15世紀にその影響力を弱め始めた。
 【14世紀後半】に,イギリスの【オックスフォード大学】教授【ウィクリフ】は教会改革の必要性を訴えた。彼は,聖書が唯一の信仰の規範であると主張し,一般の人が自分で聖書を読めるように聖書を【英語】に翻訳した。また15世紀の初めにはチェコのボヘミア(ベーメン)の【プラハ大学】の【フス】も聖書主義を唱えている。彼は【1415】年【コンスタンツ公会議】で焚刑にされた。彼らのような改革者は16世紀の宗教改革への道を開いたといえる。
 ルネサンスもまた教会改革のためのきっかけとなった。具体的な例をあげると【オランダ】の人文主義者【エラスムス】がいる。彼は【ギリシア語】で聖書を研究し,【『愚神礼賛』】(1509年頃)では聖職者などの腐敗を風刺した。また彼はルターの理解者であったことでも知られる。しかし、二人はのちに対立する。
 教会改革ののろしはカトリック教会の内部から起こった。【1517】年に,カトリック教会の修道士で,神学の教授である【ルター】は,【『95か条の論題』】を【ラテン】語で発表し,ドイツの【ヴィッテンベルク城教会】の扉に掲げた。
 この文書は,ローマ教皇【レオ10世】が【聖ピエトロ大聖堂】の改築などのために販売した【免罪符】を批判した。ルターは,人々が【善行や儀式】によるのではなく,福音への【信仰によってのみ】救われると主張した。
 その後,ローマ教皇【レオ10世】は,【1520】年【ルターを破門】した。さらに皇帝【カール5世】は,ルターに【1521】年【ヴォルムス】の帝国議会で自説を撤回するように強要した。しかし,ルターはそれを拒絶し,【ザクセン選帝侯フリードリヒ】の保護を受けて,『新約聖書』の【ドイツ語】訳に専念した。こうして完成されたドイツ語の『新約聖書』は民衆に聖書の内容に触れる機会を与えただけではなく,当時発達し始めていた【グーテンベルグ】の【活版印刷】によってドイツ中に広まり、ドイツ語の標準化にも貢献した。
 スイスの【チューリヒ】において【ツヴィングリ】は,教会改革のための運動を導いた。【カルヴァン】もスイスの【ジュネーブ】で宗教改革を行ったが,彼の教えによると,魂が救われるかどうかは,神が主権的に決めている。これを【予定説】という。
 イギリス宗教改革のきっかけは,宗教的というよりも政治的な理由に基づいていた。【ヘンリー8世】は,王妃カザリンとの離婚についてローマ教皇の許可を得られなかったので,カトリック教会から離脱した。彼の息子【エドワード6世】は,【『一般祈禱書』】を定め,その後【エリザベス1世】が【統一法】によって国教会を確立した。


ルネサンスから18世紀の文化史 同志社大学

2020年04月10日 | 高3用 授業内容をもう一度
 イタリアのルネサンスは【16世紀のはじめ】に最盛期を迎えた。美術においては【「モナ=リザ」】を制作した【レオナルド=ダ=ヴィンチ】が有名である。また【ミケランジェロ】は教皇の要請で【ヴァチカン】宮殿の【システィナ礼拝堂】に,大天井画【「天地創造」】や祭壇画をえがいた。建築においては16世紀に入ってからローマの聖ピエトロ大聖堂が新築されたが,それははじめ【ブラマンテ】,ついで【ミケランジェロ】の設計によるものであった。
 イタリアでルネサンス絵画がおこったのとほぼ同じころ,ネーデルラントにも【ファン=アイク兄弟】がでて,【油絵画法】をはじめ,【フランドル派】の基をひらいた。16世紀にでた【ブリューゲル】は,【農民や遊ぶ子供】(作品「子供の遊び」)など,素朴な民衆の群像をえがいた。ドイツでは聖書を主題にした多くの版画で知られる【デューラー】などが活躍した。
 ルネサンスに続く時代のヨーロッパの文化は,絶対主義のもとで,王侯の宮廷生活との結びつきを深めた。絶対君主の権勢をもっともよく示すものとして【バロック】式の美術がある。それは【ルイ14世】が建てた宮殿に代表される。絵画では画家ベ【ラスケス】や【ムリリョ】らが数々のすぐれた【肖像画や宗教画】で宮廷をかざった。独立後のオランダでは,【「夜警」】を制作した【レンブラント】が有名である。この画家は,明暗を強調する写実的な画法で,市民のたくましい活力を表現した。
 その後フランスの【ワトー】の絵画にみられるような,繊細優美な【ロココ】式の美術が広まり,王侯貴族や富裕市民に愛好されたが,プロイセンの【フリードリヒ2世】が【18世紀半ば】に建てた【サンスーシ宮殿】もこの様式の建築として名高い。文学では,【ルイ14世】時代のフランスに,【喜劇作家】の【モリエール】らがでて,規則と調和を重んずる古典主義の傑作をうんだ。
 イギリスでは,【17世紀】に【ミルトン】がでて,【ピューリタン文学】の名作を残した。【バイヤン】の【「天路歴程」】もまたその種の名作である。
 17世紀のヨーロッパは,近代的合理主義の思想や学問が本格的に確立されて,自然界の研究が進歩した。イタリアの【ガリレイ】は,自分で製作した望遠鏡で天体の動きをくわしく観察し,これにもとづく【「天文対話」】で【地動説】の正しさを経験的に立証した。同じころドイツ人の【ケプラー】は,皇帝の保護のもとに,地動説の立場から【惑星運行の法則】を発見している。このほか18世紀の植物学ではリンネによってすぐれた成果がうみだされた。事実の観察を重んじ,そこから一般法則をみちびく帰納法を説いたのは,イギリス人の【フランシス=ベーコン】であった。また,【18世紀末】にあらわれたドイツの哲学者【カント】は,【ロック】をへて【ヒューム】により完成された【イギリス経験論】と,【デカルト】以来の【大陸合理論】とを総合し,人間の認識能力に根本的な反省を加える批判哲学をとなえ,【ドイツ観念論】の祖となった。

チンギス=ハンとオゴタイ=ハン

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度

 13世紀はモンゴルの世紀です。チンギス=ハンがモンゴル民族を統一し、1206年に可汗に即位しました。その後、彼は中央アジアのホラズム王国ナイマン部西夏を滅ぼしてシルクロードを制圧し、駅伝制度であるジャムチを作りました。ジャムチは14世紀までユーラシア大陸で維持され、東西の文化交流や商業活動を支えました。また、千戸制という部族制度を確立し、帝国の軍事力の維持を整備しています。
 彼の長男はジュチという人ですが、彼の出生はトラブルの中にありました。彼は自分の父親が偉大な可汗チンギス=ハンであることを証明するために、戦いでは常に先頭に立って戦ったといわれています。さらに彼の子バトゥの一生も戦いの中にありました。
 しかし、チンギス=ハンの後を継いだのは、長男ジュチではなく弟オゴタイ=ハンでした。彼は華北にあった満州女真族1234年に滅ぼします。さらにジュチの子バトゥに命じて、ステップルートから南ロシアを攻撃させます。彼は1240年ロシアの中心都市キエフを攻略。さらに西に進んでポーランドに進攻しています。
 当時のヨーロッパ人は西アジアのイスラム教国と十字軍の戦いを続けていました。ヨーロッパ人は苦戦続きでしたが、「プレスター=ジョンの伝説」を信じていました。東方のキリスト教国がヨーロッパを救いに軍隊を差し向けてくれる、というものです。ところが実際にポーランドを襲ったのはバトゥのモンゴル軍で、抵抗する者には強烈な見返りも与えてきました。1241リーグニッツの戦いで、ポーランドとリトアニアの連合軍はバトゥ軍に破れます。この戦いは「ワールシュタットの戦い」ともいわれます。ワールシュタットの意味は「血に塗られた土地」です。しかし、このとき都カラコルムで第2代可汗オゴタイ=ハンが亡くなった知らせが届き、バトゥは次の可汗を決定する会議であるクリルタイ出席のために急遽帰国しました。このオゴタイ=ハンの死でヨーロッパは救われたのです。
 その後、バトゥが征服した南ロシアにキプチャク=ハン国が建国されます。都はステップルート上の都市サライです。


モンゴルの時代の東西交渉

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度

 都がモンゴル高原のカラコルムに置かれていた時代、第3代可汗グユフ=ハンのときにカラコルムを訪れたプラノ=カルピニは、「プレスター=ジョンの伝説」を信じた教皇インノケンティウス4世に派遣され、モンゴル帝国の調査を行いました。モンゴルとは何者なのか?ということです。また、フランス王ルイ9世に派遣されてカラコルムにやって来たルブルックも、モンゴルとの同盟関係を模索しています。当時の西欧は西アジアのイスラム勢力に対して十字軍遠征を行ってきましたが、軍事的に劣勢でした。そこで彼らは東方に出現したモンゴル帝国との軍事同盟を模索したのです。
 元が建国して都が大都に置かれた後、ヴェネチィア出身の商人マルコ=ポーロは、1271年にヴェネチィアを出発。陸路シルクーロードを経て大都に到達。そこでフビライ=ハンに17年間仕えました。その後、彼は帰国の途中に敵国ジェノヴァで投獄され、獄中で『東方見聞録(世界の記述)』を口述筆記させました。筆者はルスチアーノという人物でした。
 さらに大都には元の時代に初めてカトリックが布教されています。初代大都大司教として派遣されたのはモンテ=コルヴィノです。唐代にもキリスト教が伝播しましたが、このときはネストリウス派キリスト教でした。中国では景教と呼ばれています。
 また、モロッコ出身の大旅行家イブン=バトゥータも元の都大都を訪れています。彼は『三大陸周遊記』を残しました。


 


 


 


 


元代の中国文化

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度

 元ではモンゴル人によって儒学が極めて軽視されたため、中国人たちは儒教的倫理に縛られないで文化活動を行なうことができました。民衆は口語表現の歌劇である「元曲」を楽しみました。代表的な元曲には、『漢宮秋』・『西湘記』・『琵琶記』があります。馬到遠の『漢宮秋』は漢代の王昭君の物語です。また小説『三国志演義』・『水滸伝』など中国人の英雄が登場する作品が登場。モンゴル人支配下に置かれた中国人の気持ちが中国人英雄を生み出したとも言えるでしょう。
 科学では郭守敬が作った「授時暦」は、江戸時代の「貞享暦」のもとになったことで有名です。


 


キプチャク=ハン国

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度

 南ロシアを遠征したバトゥが建国したキプチャク=ハン国は都をステップ地帯のサライに置き、「タタールのくびき」と呼ばれる統治をスラブ人に行いました。
 14世紀になるとハイドゥの乱でモンゴル勢力は分裂しました。しかし、それぞれの地で各ハン国は全盛期を迎えました。キプチャク=ハン国ではウズベク=ハンが登場し、イスラム教を国教としながら全盛期を現出しました。
 このモンゴルの支配は、モスクワ大公国が成長しイヴァン3世イヴァン4世が登場する頃まで続きました。



 


モンゴルを撃退した国々

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度
 日本が【元寇】でモンゴルの遠征軍を撃退したことは、日本人ならば広く知られています。最初の元寇は【1274】年日本では文永の役といいます。この遠征軍の海軍を担ったのは【高麗】の人々でした。高麗は【1259】年【モンケ=ハン】のときに【フビライ】将軍の遠征軍によって征服されています。2回目の遠征軍には【1279】年に征服された南宋の人々が参加。1281年に日本を襲った【弘安の役】です。このときも台風によって壊滅的な打撃を受けました。
 また、【ジャワ】島の【シンガサリ】朝もモンゴル軍を撃退したことで知られます。しかし、日本の鎌倉幕府同様、シンガサリ朝も撃退したものの、しばらくして滅亡しました。
 エジプトの【マムルーク】朝は、カイロに都をおいたスンナ派イスラム教国です。この王国はインド洋の季節風貿易を独占して大いに繁栄しました。この王国もモンゴル軍を撃退しています。

ハイドゥの乱

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【チンギス=ハン】の一族は第2代【オゴタイ=ハン】の系譜と、その弟トゥルイの系譜との2系統存在します。オゴタイの子グユフが第3代可汗に就任しましたが、子がなかったため、トゥルイの子【モンケ】が第4代可汗にクリルタイで選出されました。そのため、グユフの甥【ハイドゥ】は自分が第5代可汗になるものだと考えていましたが、【クリルタイ】ではトゥルイ系のフビライが選出されました。1260年のフビライ=ハン即位に反対した【ハイドゥ】は1266年に反乱を起こし、約【40】年間に及ぶ戦乱となりました。これを【ハイドゥの乱】といいます。この反乱で、フビライ=ハンを支持したのは同じ【トゥルイ】系の【イル=ハン】国で、その他はハイドゥを支持しました。反乱がようやく鎮圧された頃には、モンゴル帝国の政治的・軍事的統一性は失われ、4ハン国と元とに分裂しました。
 しかし、重要なことはこの長期の戦乱の間も、【ジャムチの駅伝制度】は維持され、14世紀までシルク=ロードは全盛期を謳歌した点でしょう。ここにもモンゴル帝国の懐の深さを感じられます。ただし、広域の東西貿易活動を担っていたのは、【ソグド】系の民族や【ウイグル】人でした。

元の統治

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度
 1260年に即位した【フビライ=ハン】により、【1271】年【大都】を都に置く元が建国しました。さらに【1279】年には【南宋】を【ガイ山の戦い】で破り、1126~27年靖康の変以降南北に分裂していた中国を約【150】年ぶりに再統一しました。
 フビライ=ハンによる中国支配はそれまでの征服王朝である契丹族の遼や女真族の金が採用した「【二重統治体制】」を改めて、「【モンゴル至上主義】」をとりました。これは、、軍事や政治面だけでモンゴル人が優位な立場に立つだけではなく、儒学などの中国の伝統文化をも軽視する姿勢を示しています。具体的には、中国の伝統的な官吏登用制度である【科挙】を一時的に廃止(のちに科挙を実施する)し、中国思想の儒学を極めて軽視しました。その一方で、【ウイグル】人やペルシア人などの西域の人々である【色目人】を【財務】官僚に登用しています。
 また、金が支配していた華北にいた人々、中国人・満州人・契丹人を「【漢人】」とし、南宋の支配下にいた中国人を「【南人】」として蔑視しています。この背景には、モンゴル人はいままでの北方遊牧民族とは違って、中国文明に接する前に西アジアの【イスラム文明を知っていた】ことが影響していると考えられています。
 しかし、6000万人におよぶ中国人を200万にもみたないのモンゴル人が支配し続けるには、この「モンゴル至上主義」だけでは不可能でした。そのため、多くの佃戸を支配している形勢戸を官僚に登用する必要から、【科挙は再開】しています。
 フビライ=ハンは【チベット】人の【パスパ】に官僚が行政で使用する文字を作らせています。このことは、チベット仏教(【ラマ教】のこと)がモンゴル人に受け入れられていた証ともいわれますが、パスパが作った文字を【パスパ文字】といいます。この文字は一般のモンゴル人には使用されなかったようです。
 また、フビライ=ハンが隋の煬帝が建設した【大運河】を改修した功績は非常に大きいものです。陸路のシルク=ロードが駅伝制【ジャムチ】が整備されたことによって活発に利用され、さらに【ムスリム商人】(イスラム教徒の商人)が活発に海路から【泉州】などに来航していましたから、長い年月で砂に埋もれた大運河が改修されると、ユーラシア大陸が【大都】(現在の北京)を中心に、東西交通路で一周することができるようになったわけです。この交通路を使って、まさに一周したのが有名な『【東方見聞録】』を著した【マルコ=ポーロ】です。
 元のモンゴル人たちはチベット仏教(ラマ教)に熱狂したといわれています。ラマ教に狂信したあまり、莫大な費用を寺院建設などに投じた結果、財政難に陥り、財政再建のために【交鈔】という紙幣を乱発し、インフレを誘発して反乱の中で滅亡していきました。

元の滅亡

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度
 元朝のモンゴル支配者は【ラマ教】に狂信し、財政難から紙幣である【交鈔】を乱発してしまい、結局、1368年まで続く農民反乱(紅巾の乱)のなかで敗れていきました。しかし、ここで重要な点は、モンゴル民族はこの【紅巾の乱】に敗れたものの、滅亡したわけではなく、中国の地を捨ててモンゴル高原に撤収したのだ、という点です。
 すなわち、1351年に【韓山童】・【韓林児】の父子が指導した【紅巾の乱】が発生しました。反乱の拠点になったのは【】江南地方です。そのうちこの親子は殺されましたが、反乱軍の中から頭角を現した【朱元璋】が、【1368】年に元を滅ぼして、ひさびさに中国人による統一王朝【明】を建国しました。都は江南の都市【南京】に置きました。
 中国を追われたものの軍事力はある程度維持していた(この点が重要です)モンゴル民族は、モンゴル高原に【北元】を再建しました。この北元などのモンゴル民族の軍事力になやまされた明が、まもなく【万里の長城】を建設することになります。壮大な万里の長城を作らねばならなかったくらい、北に逃げたモンゴル人たちの力は、まだまだ強かったということです。

宋は兄・遼は弟

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【936】年【後晋】の建国を助けた遼は、その見返りに【燕雲16州】を獲得しました。その結果、その後の五代に現れた中国諸王朝にとっても、【960】年に建国し979年に【北漢】を滅ぼして中国を再統一した宋にとっても、燕雲16州の奪回は大きな外交課題になっていました。宋は繰り返し遼に対して攻撃しましたが、ことごとく失敗しています。
 その結果、【1004】年に宋と遼とは講和条約である【澶淵の盟】を結びました。【燕雲16州の領有は遼が維持する】ことになり、さらに宋は遼に対して毎年絹20万匹、銀10万両を贈るという、宋にとって非常に過酷な内容になっています。両国の「関係」は宋を【兄】とし遼を【弟】としています。家族主義に基づく儒学の国らしい関係の結び方です。また、これほどの負担を宋が負っていながらも、名目上は宋の方が遼よりも高い立場にあるという点も、大義名分を重視する儒学の国(宋)の特徴が出ているといえます。
 

靖康の変

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【1115】年に【女真】族の【金】が建国すると、当時の宋皇帝の【徽宗】は金と協力して遼を攻撃しようと計画しました。長年の中国人の夢であった【燕雲16州】の奪回のチャンスと考えたわけです。しかし、金は独力で遼を攻撃し、燕雲16州の中心都市である【燕京】を攻略しました。
 すると今度は、金の強大化を恐れた【徽宗】は、【遼】との妥協を影で画策しました。そのため、金は遼を滅ぼし、さらに宋の都【開封】を攻撃したのです。脅威を感じた徽宗は息子の【欽宗】に皇帝の位を譲り、金の怒りを抑えようとしましたが、結局、金によって開封を攻略され、【徽宗】・【欽宗】親子を含む高位高官3000人が満州に拉致されるという異常事態になりました。この【1126~27】年におきた事件を【靖康の変】といいます。金はさらに華北一帯の支配を目論んで勢力を拡大しました。
 この靖康の変を逃れることができた者の中に、徽宗の息子で欽宗の弟がいました。彼は江南の【臨安】(現在の【杭州】)に逃れ、そこで即位して【高宗】となります。彼は華北一帯を征服していた金と対峙する中国人王朝を再建しました。この王朝を【南宋】と呼びます。一般に、【960】年に成立した宋は中国全土を支配していましたが【北宋】と呼び、1127年に【臨安】を都に建国した中国の南半分を支配している王朝が【南宋】です。

金の建国

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【926】年に【渤海】が【遼】によって滅ぼされると、満州にいた【ツングース】系【女真】族は遼に従っていました。しかし、遼の支配の仕方があまりにもひどかったので、【砂金】で富を得ていた【完顔阿骨打】が遼を満州から追い払い、【1115】年に【金】を建国しました。なお、ツングース系女真族は【半農半牧】の民族で、【女真】文字を使用しています。
 完顔阿骨打が亡くなると、弟が即位し太宗になりました。彼はモンゴル高原に遠征して【遼】を滅ぼした後、さらに【1126~27】年の【靖康の変】で宋の都【開封】を攻略。開封にいた上皇【徽宗】とその長男で皇帝の【欽宗】を満州に連れ去って、【宋】を滅ぼしました。
 その後、欽宗の弟【高宗】は南の【臨安】すなわち現在の【杭州】に逃れて宋を再建しましたから、この国を【南宋】と呼びます。金は南宋としばらく戦争を続けましたが、結局、出身地の満州と【華北】も支配する大帝国に発展しました。金は出身地域の【満州】を支配しつつ、【華北】を支配する【征服王朝】であるといえます。

チンギス=ハンとオゴタイ=ハン

2020年04月10日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【13】世紀はモンゴルの世紀です。【チンギス=ハン】がモンゴル民族を統一し、【1206】年に【クリルタイ】で選出され、可汗に即位しました。その後、彼は中央アジアの【ホラズム王国】・【ナイマン部】・【西夏】を滅ぼして【シルクロード】を制圧し、駅伝制度である【ジャムチ】を作りました。ジャムチは14世紀までユーラシア大陸で維持され、東西の文化交流や商業活動を支えました。また、【千戸制】という部族制度を確立し、帝国の軍事力の維持を整備しています。
 彼の長男はジュチという人ですが、彼の出生はトラブルの中にありました。彼は自分の父親が偉大な可汗チンギス=ハンであることを証明するために、戦いでは常に先頭に立って戦ったといわれています。さらに彼の子【バトゥ】の一生も戦いの中にありました。
 しかし、チンギス=ハンの後を継いだのは、長男ジュチではなく弟【オゴタイ=ハン】でした。彼は【華北】にあった満州女真族の【金】を【1234】年に滅ぼします。さらにジュチの子バトゥに命じて、ステップルートから【南ロシア】を攻撃させます。彼は【1240】年ロシアの中心都市【キエフ】を攻略。さらに西に進んで【ポーランド】に進攻しています。
 当時のヨーロッパ人は西アジアのイスラム教国と十字軍の戦いを続けていました。ヨーロッパ人は苦戦続きでしたが、「【プレスター=ジョンの伝説】」を信じていました。東方のキリスト教国がヨーロッパを救いに軍隊を差し向けてくれる、というものです。ところが実際にポーランドを襲ったのは【バトゥ】のモンゴル軍で、抵抗する者には強烈な見返りも与えてきました。【1241】年【リーグニッツの戦い】で、【ポーランド】と【リトアニア】の連合軍はバトゥ軍に破れます。この戦いは「【ワールシュタットの戦い】」ともいわれます。ワールシュタットの意味は「血に塗られた土地」です。しかし、このとき都【カラコルム】で第2代可汗オゴタイ=ハンが亡くなった知らせが届き、バトゥは次の可汗を決定する会議である【クリルタイ】出席のために急遽帰国しました。このオゴタイ=ハンの死でヨーロッパは救われたのです。
 その後、バトゥが征服した南ロシアに【キプチャク=ハン】国が建国されます。都はステップルート上の都市【サライ】です。