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インドにおける仏教の盛衰

2014年09月10日 | 高2用 授業内容をもう一度
ブッダの時代は王侯と商人がバラモン 的身分制度にとらわれずに活躍した時代であった。このような時代の変化に思想界も順応し、中国でいう諸子百家と同様、「62見」という様々な思想家が出現した。ブッダは(ガウタマ・シッダールタ )はヒマラヤ山麓のシャカ 族の小国の王子に生まれ、29歳で出家、35歳の時ブダガヤの菩提樹の下で悟りを開き、80歳で死去(涅槃)した。
 彼の教説は一切のものは滅びる(諸行無常)という無常観にたって、生きることそのものを苦とし、その苦から逃れる道をもとめる。それは正しい生き方を中道と称して八正道の実践に努め、自我の欲望(煩悩)を捨てることにあり、これにより宗教的自由すなわち解脱の境地に達するとした。彼はこれを4つの真理(四諦)という形で論理化した。
 ブッダの教えに共鳴した人々は出家修行者の生活共同体(サンガ)を組織し、ブッダの死後にラージャグリハ (王舎城)にて仏教教団の生活規範(律蔵)にあたる第1回仏典結集を行った。仏滅100 年頃から部派が誕生しはじめ、北方の仏教徒はサンスクリット 語で教説を説き、南方の仏教徒はパーリ 語をもちいた。仏教修行者(比丘)は寄進や托鉢で生活し、寄進によって建てられた僧院で生活した。
 仏教はマウリヤ朝アショーカ 王の時代に大発展した。この時セイロン島に仏教を伝え今日に至っている。この王朝滅亡後に西北インド に侵入したギリシア人やクシャーナ 族を教化し、クシャーナ 朝カニシカ王の時首都プルシャプラに大塔が建立されている。
 伝統的な仏教徒は出家し、個人の救済を目的としたが、前2~前1C頃になると在家信者達の中から出家信者中心の仏教に反対する動きが出てきた。彼らはブッダ の遺骨を納めたストゥーパ (仏塔)を中心に集まったとされ、この仏塔崇拝者はブッダ を超人・神格化し、やがて利他行を実践する菩薩(ポーディサットヴァ )を拝することで衆人が僧俗の区別なく平等に救済されると考えた。これが大乗仏教である。これは西北インド で成立したが、諸民族・諸文化の融合の地であったためであろう。大乗仏教の教理は南インド 出身のナーガルジュナにより体系化された。
 グプタ朝時代になるとインド 古典文化は最盛期に達する。仏教も5C初にグプタ 王の援助でナーランダ学院が建設され、学問研究が進んだ。しかし、仏教が哲学化する一方で民衆との乖離が起こり、グプタ 朝下の7~8 C以後はヒンドゥー 教が拡大していった。仏教もそのようなヒンドゥ教拡大の影響を受け呪術的儀礼を用いる密教が東北インド (ベンガル)を中心に成立した。密教を中心に仏教はこの地に起こったパーラ朝(750~1000) の保護下で最後の繁栄を享受した。さらに10世紀になるとイスラム教が侵入。12世紀には北インド全域を支配した。1203年にインド 仏教最後の拠点であったヴィクラマシラー寺院が破壊され、仏僧侶はチベットやネパールに逃げてインド の仏教は壊滅した。インド 仏教消滅の最大の理由は、大乗・小乗ともに仏教教団が民衆から離れた宗教生活を送ったことにある。仏教には在家信者の組織はほとんどない。そのためインド の民衆の生活に必要な宗教儀礼は、ヒンドゥー 教の司祭者バラモンによってなされていた。バラモンの司祭職は世襲化し、代々その地域に根づいて地域社会との関係を保っていた。このような関係は仏教には希薄であったといえる。また、教団財源を王侯や商人にたよったため、グプタ 朝以降になって王侯の保護を失い、インド 経済そのものも低下したため財源基盤も失われ、仏教僧侶は僧院を捨てて他の保護者をもとめざるをえなくなったのである。また、密教もヒンドゥー 教との差別化に失敗し、インド社会から仏教は完全に消滅していったのである。

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