こんにちは。
今日は、しろねこは出勤日に当たらない土曜日なので、少しゆっくり(9時前に)起きました。
昨日は帰宅後、おんなへんの残りの文字を引き終わりましたが、
一息つこうと横になった途端眠りの世界に行ってしまいました。(油断大敵ですね。)
ということで後れ馳せながら、
要覧151頁「嫣」~「孀」です。
(今晩の分は今晩の分で分けて出します。)
・「嫣然(えんぜん)」…あでやかなさま
=「艶然」
※同音異義語「婉然(=しとやかなさま)」と区別したい
・「嫩葉」〈音〉どんよう〈訓〉わかば
・「嬌態」=[難読]しな
(「嬖愛(へいあい)」は過去問でお馴染みですが、)
・「嬖幸(へいさい)」…寵愛を受けること
※「幸」を「さい」と読むのに注意
・「嬖臣(へいしん)」…お気に入りの臣下
・「嬲[ジョウ]」=いじめる意
※以下、配当漢字ではないですが、字形が似たものとして、
・「嫐[ドウ・ノウ]」=うわなり、嫉妬の意。
歌舞伎の演題の一つで、初世市川団十郎が演じた。一人の男に二人の女が嫉妬でからむ所作で、後妻(うわなり)打ちの風習が劇化したもの、
とある。
・「娚[ナン]」=「喃」の異体字。「喃」は喋る意。→「喃語」「喋喋喃喃」
…どの部首でも割とそうですが、明るい側面の意味と暗い側面の意味があるものだ、と思います。
おんなへんの字では、その神々しさとまがまがしさが特に紙一重であることが感じられ、覚えるために調べてイメージし続けると、非常に疲れやすいグループです。
時間があっても、調べるのが何となく億劫になることもよくありました。
それだけ女には女の、持てるエネルギーが強いということなのでしょう。
それにしても、「女」という部首はあるのに、「男」という部首が存在しないのは何故なのでしょうか?
少し気になります。
今日は、しろねこは出勤日に当たらない土曜日なので、少しゆっくり(9時前に)起きました。
昨日は帰宅後、おんなへんの残りの文字を引き終わりましたが、
一息つこうと横になった途端眠りの世界に行ってしまいました。(油断大敵ですね。)
ということで後れ馳せながら、
要覧151頁「嫣」~「孀」です。
(今晩の分は今晩の分で分けて出します。)
・「嫣然(えんぜん)」…あでやかなさま
=「艶然」
※同音異義語「婉然(=しとやかなさま)」と区別したい
・「嫩葉」〈音〉どんよう〈訓〉わかば
・「嬌態」=[難読]しな
(「嬖愛(へいあい)」は過去問でお馴染みですが、)
・「嬖幸(へいさい)」…寵愛を受けること
※「幸」を「さい」と読むのに注意
・「嬖臣(へいしん)」…お気に入りの臣下
・「嬲[ジョウ]」=いじめる意
※以下、配当漢字ではないですが、字形が似たものとして、
・「嫐[ドウ・ノウ]」=うわなり、嫉妬の意。
歌舞伎の演題の一つで、初世市川団十郎が演じた。一人の男に二人の女が嫉妬でからむ所作で、後妻(うわなり)打ちの風習が劇化したもの、
とある。
・「娚[ナン]」=「喃」の異体字。「喃」は喋る意。→「喃語」「喋喋喃喃」
…どの部首でも割とそうですが、明るい側面の意味と暗い側面の意味があるものだ、と思います。
おんなへんの字では、その神々しさとまがまがしさが特に紙一重であることが感じられ、覚えるために調べてイメージし続けると、非常に疲れやすいグループです。
時間があっても、調べるのが何となく億劫になることもよくありました。
それだけ女には女の、持てるエネルギーが強いということなのでしょう。
それにしても、「女」という部首はあるのに、「男」という部首が存在しないのは何故なのでしょうか?
少し気になります。
>「女」という部首はあるのに、「男」という部首が存在しないのは何故なのでしょうか?
>少し気になります
こちらの件について気になりましたのでコメントします。
確かに、女偏はあるのに男偏が無いというのは、
男性からするとちょっと不公平感がありますね。
しかし、おとこを意味する「士」(さむらい)という部首が存在します。
壮、壬、壱、声、売、壺・・・などは、部首が「士」です。
「婿(むこ)」という漢字は女偏ですが、
旧字体は部首がさむらいで、「壻」と書きます。
「女」の対義語はどの辞書を見ても常識的にも「男」ですが、
漢字的には「士」が対だとしてもおかしくないのではないでしょうか。
「男」という漢字は「田(はたけ)+力」ですから、象形ではないですよね。
「士」や、大の字に立った人の頭にまげを付けた姿を描いた
「夫」という漢字も、成年に達したおとこを表しています。
しかし一方、女偏の「姪(めい)」に対し、「甥(おい)」は
さむらいではなく、「生」+「男」という形になっています。
この辺がまた漢字の奥深いところで、面白いですね。
折しも、サムライジャパンが活躍してる中、
ふと男偏について考えてみました。
それでは失礼します。
私の覚束なげな呟きにお答えいただきまして有難うございます。
確かに、現代語では「男」が「女」の対義語ではありますが、
部首一覧を眺めて「男」に相当する部首を見つけるとなると、
成人して自立するおとこを表す「士」が最も当てはまりますね。
そして、fuji-moca様のコメントを拝見しているうちに、
何の根拠もないのですが次のような考えも浮かんできました。
つまり、漢字成立当時が今より男性を基準として成り立つ世界観だったとすると、
その世界の一部としての「おんな」は、「女」の部首一種類で区分されてあるけれども、
「おとこ」の概念は一種類の「女」との対比でひと纏まりに分類するべきものではなく、
男の持てる「力」(→「男」:但し部首は「田」ですが)や
「大」きさ(→「夫」)、
また「士」のように、
様々な「おとこ」の要素が細分化されて表現されているのかも、
と考えたのです。
繰り返しますが確固たる根拠もない考えです。
昔はもっと沢山あったといわれている部首の淘汰の過程を調べてみれば、
或いはまだもっと見えてくるものもあるのかもしれません。
ちなみに部首から外れますが、
職場に置いている学研『漢字源』の索引で「おとこ」を引くと、
「士」・「夫」・「男」のほかにもうひとつ、
「郎」があるのですね。
「郎」の解説部分によると、
会意兼形声。
「良」は「粮」の原字で、清らかにした米。
「郎」は、「邑(まち)」+音符「良」で、もとは春秋時代の地名であったが、のち、「良」に当て、男子の美称に用いる。
ということで、
清らかな男子のこと
→妻や女性が夫や恋人の男を呼ぶことば
→男子を呼ぶ美称
と意味が転じていったようです。
ところで、
部首の中で男子の名前にもよく用いる「臣」はどうなのかと調べてみましたら、
こちらはまた全然違うのですね。
象形。
「臣」は、下に伏せてうつむいた目を描いたもので、身をかたくこわばらせて平伏するどれい。
「臥」や「臨」に含まれる。
とありました。
古文漢文に触れていて毎度思うことですが、
本当に身分制度には伊達じゃない厳しさがあるのです。
ということで、正しいか否かは定かではありませんが、
Fuji-moca様からのお返事で、
また考えを広げることができました。
有難うございました。
>それにしても、「女」という部首はあるのに、「男」という部首が存在しないのは何故なのでしょうか?
>少し気になります。
この記事を書いた約3ヶ月後、『部首ときあかし辞典』(円満字二郎氏、2013年5月30日 初版発行)が世に出て、それから約2年後の現在、第3刷をしろねこは拝読中なわけですが(残りあと50頁程……)、本書にはごく始めの方に、「男」の部首が嘗ては存在していたことが書かれてありました!『説文解字』にはきちんとあったのが、なぜなくなったのかはよくわからないのだそうです。「甥」「舅」がそこには分類されていたとのこと。
そのほか、当時こちらの記事やコメントで引き合いに出した文字や部首についても、解説を拝読することができています。気になっていたことに巡り会えるような長期的な勉強ができていることが、しみじみ有難いです。
「男」という部首が『説文解字』にはあったのですね。初めて知りました。『説文解字』には540の部首が立てられていたそうですから、今では部首と認識されなくなったものがたくさんあったということになりますが、「男」もその内のひとつと言う訳ですね。
実は私も今、円満字さんの著書(以前、しろねこさんが紹介されていた『政治家はなぜ「粛々」を好むのか』)を読んでいるのですが、漢字世界の奥深さを改めて感じさせてもらっています。円満字さんの著書とは、私にとってはこれがファーストコンタクトになりますが、深くて広いことばの世界、時間をみつけて読み継いでいきたいと思っています。
『政治家はなぜ「粛々」を好むのか』
(今、手元に無い場所でこのご返信をしておりますが) 私はこのご著書のエピローグを拝読して、この感覚や問題意識を今の日本の人がみんなもっていけたなら、と心底思いました。ほかのご著書に比べて、引用される漢詩漢文についての円満字さんの逐語訳的な解説が拝聴できているようで、それも嬉しいですし、ごくはじめに位置する、擬態語に属する漢語一覧の見開きページもマニアックな感じで心躍るのですが、やはりエピローグを拝読したときが最も幸せな気持ちになったと記憶しています。
また、あとがきの「お城好きの親友」はほかでもたまに登場することがあり、円満字さんの編纂された辞書で「城」に関わることを拝読するにつけ、いろいろ見えざる背景があるのだろうなあ……と宛もない思いを馳せることも多いです。