“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

『漢字博士養成ドリル』

2016-05-31 22:43:40 | 日記
こんばんは。

新年度が始まり二ヶ月。
職場では、長距離を歩き通す、年に一度の行事も終わり、しろねこの両足の筋肉痛もすっかり回復しました。季節は夏に向けて、空気にも湿度が感じられるようになった今日この頃です。

さて、ここ数ヵ月、「隙間時間の、更に隙間時間」くらいの感覚で断続的に読んでいたのが、画像にある『【当て字・難字】編 漢字博士養成ドリル』(研究社、研究社編集部編、2009年12月25日 初版発行)。

最近この手の本(=表に読ませる語、裏に解答解説がある構成の本)は書店でも以前ほど頻繁には見かけなくなりましたし、また購入してもいなかったのですが、昨年末、読み継いでいたある本のカバーがあまりにもくたくたになってしまったので、ジュンク堂書店さんの新しいカバーを貰いに行きがてら、レジに持参するのに選んだのが本書だったのです。まずもって「当て字・難字」ときた段階で、しろねこなどはうずうずしてしまうわけですが、「漢字博士養成」などというタイトルを見ると、小学生のような子どもが「これを読破すれば、自分も漢字博士になれるのか…?」とドキドキ思案しながらこの本を手に取ったところなんかを、思わず想像してしまいます。

この本、実は横書きなのが当世風(?)で、左側から開いていく形式に新鮮さを感じます。(現代文や漢字の問題集にも、稀に横書きのものがありますね。)
「はじめに」の書き出しに、「学問的アプローチを試みるつもりはさらさらない」とあるように、各単語の裏にある二行ずつの解説は極めて平易・簡潔で、その語について親しみが持てる、時にユーモラスで、いかにも雑学的な雰囲気をも持ち合わせた一冊です。
たとえば、「花・樹木などの当て字」の頁から、いくつか解説をご紹介しましょう。

・撫子
なでしこ
「瞿麦」とも書く。秋の七草の一つ。花は淡紅色。(英)pink。この花の色から「ピンク色」という語義が生まれた。

・酸漿
ほおずき
「鬼灯」とも書く。口に入れて舌で押し鳴らす玩具。「うみほおずき」は巻き貝の卵嚢。

・仙人掌
サボテン
「覇王樹」とも書く。「仙人掌」の方は、柱状でなく、扁平状のサボテンを意識した表記。(英)cactus

・木天蓼
またたび
蔓性落葉低木。名の由来は、果実に強壮効果があり、食べると「また旅」ができるから。

…………………

――「酸漿」の項に「うみほおずき」のこともあるのはおもしろい。因みに丹後の生まれの母は、子供の頃、このうみほおずきでよく遊んでいたらしいです。
「また旅」説は、突っ込んで調べてみると、どうやら俗説で眉唾もののところが大きいようですが、限られた字数の解説から、その語の成り立ちについて、読者に関心を抱かせるという役割は、十分果たしていると思います。

本書の目次にある、当て字のカテゴリーを列挙すると、以下のとおりです。

花・樹木など/野菜・果物など/魚介類・海獣など/虫類/鳥類/動物/衣服関係/食品・飲料など/身体・病気など/性格・様子など/音楽関係/宝石・鉱物など/時代小説など/建築関係/物・道具類/文豪が使った当て字/その他の定番/国名/都市名/外国人の人名/難字にチャレンジ/商品名などの中国語表記/難読名字/難読国内の地名/なぞなぞ漢字にチャレンジ

――この、最後の「なぞなぞ漢字にチャレンジ」がまたこの本らしいところで、頓知を効かせた七字の漢字の羅列が出題されています。そして脇のヒントに、
「あんまり真面目に考えてはいけません。『なぞなぞ』です。」
と書いてある。私は半分はすぐ分かりましたが、あと半分は分からなくて、答えを見て成程、と思いました。普段からなぞなぞ漢字パズルをしている人や、「月見里」などの名字を読み慣れている人だとすぐ分かるような、発想を知ってしまえば単純なクイズなのですが、最後まで読み通してこのクイズに遭遇してみると、
“気さくに漢字と戯れながら、幾つもの扉をくぐって何となくここまで連れてこられて、知らず知らずのうちに漢字で遊ばされていた”
みたいな、妙な気分に捕らわれるのです。
……そんな、ちょっと老獪な印象のあるこの本、もし見かけたときは、是非お手にとってみてください。

記憶に宿る、親愛の情のようなもの

2016-05-04 14:16:32 | 日記
ここ1年あまり、なぜ自分が漢字の勉強を続けたいのか、時に真剣に考えているのですが、その過程で思い出したうちのひとつが、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(新潮文庫 S26/11/30発行、H28/2/5 111刷改版)です。『デミアン』は、しろねこが高校生のころ読んで、その一部分、殆どある場面だけが記憶に残っていたのですが、最近頻りとそれが思い出されるようになってきたので、このたび幾日かかけて読み返してみたのです。

そのワンシーンというのは、主人公のエーミール・シンクレールが、オルガン奏者のピストーリウスの自宅で横たわり、暖炉で燃える炎を長いあいだ凝視するという図で、ピストーリウスが「哲学の練習」と称して、シンクレールに与えた授業でした。
表題のデミアンのことより、その仲介ともいえるこちらの場面だけが記憶に残っていたのはなんとも奇妙なことでしたが、そこでシンクレールが意識的に「自然の怪異な形をながめ」ながらピストーリウスとの時間を過ごすことを経て、「自己発見の進捗、自分の夢や思想や予感への信頼の増大、自己内部の力の自覚の増大」を実感していったという内容を読んで、或いは、その次元にシンクレールが行き着くまでの様々な過程の場面を読んでみて、腑に落ちることがいくつもありました。

そもそも、漢字はその起源をはじめとして、「自然の怪異な形」から生まれてきたものがいくつもあります。極端なことを言えば、数々の漢字を眺めていくと、もとの“炎”に行き着くというわけです。漢字と哲学は切り離せないものですが、その象徴的なシーンともいえる場面がずっと記憶の中にあったのだと思うと、なにか縁を、親愛の情のようなものを感じざるをえません。

また、おしゃべりをすることや、お酒を飲んで放蕩の限りを尽くすことについて、解釈がなされている場面が処々にありますが、これはしろねこの場合は、特に社会人になってからのもやもやしたものに答えをもたらしてくれるところがありました。
しろねこはそれほどお酒が強いわけではないですが、ものを食べないで飲み続けることはしませんし、一気をしても(以前ほどではないですが、職場には一気の名残もあります)ウーロン茶で相殺する理性は残しているので、総合的にかなり飲んでも、残念ながら記憶をなくしたことが未だにありません。今日は飲むかと思って飲んでも、大抵相手が記憶をなくしています。つまり、しろねこは中途半端に放蕩仲間のふりはできても、完全に放蕩に徹してきたわけでもなく、半信半疑で人生を送ってきました。放蕩にどこかで憧れはしても、完全に放蕩に身を委ねられるだけの、自分に対する潔さを持ち合わせていないのかもしれません。
それ以上に時にたちが悪いのはおしゃべりをすることで、きちんとした対話にならないおしゃべりほど、何かを失ったような、身ぐるみ剥がれた気持ちになるものはありません。そのことを『デミアン』では、実によく言い当てていると思います。

喫茶店で漢字のことを勉強していても、手芸をしているときのように誰か見ず知らずの人が脇から話しかけてくるということは、まずありません。余程常連になったお店で店員さんから「いつも勉強されてますよね」と怪しまれる程度です。そのくらい、漢字学習は本来非常に内面的なもので、安易に他者と共有できる世界ではないということを、常々感じています。私たちは最低限、常用漢字と人名用漢字を共通認識のコードとして、学習し合っているのであって、単に読み書きができるより先の次元に漢字を追い求めるのであれば、それは一見、かなり孤独な営みにならざるをえませんし、なって然るべきでもあるのです。『デミアン』では、自身を自分自身へと導く道を見いだすことが繰り返し書かれていますが、しろねこもここ暫く切実にそのことを考えるようになっていました。今回の読書で、自分の漢字とのお付き合いが、自分の一生涯の中でどう関わりうるのか、ひとつの示唆を得たように思います。

ここで、『デミアン』のはしがき(作品冒頭に位置している)の最後にある一節を掲げておきます。


「すべての人間の生活は、自己自身への道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である。どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうと努めている。ある人はもうろうと、ある人はより明るく。めいめい力に応じて。だれでもみな、自分の誕生の残りかすを、原始状態の粘液と卵の殻を最後まで背負っている。ついに人間にならず、カエルやトカゲやアリにとどまるものも少なくない。上のほうは人間で、下のほうは魚であるようなものも少なくない。しかし、各人みな、人間に向かっての自然の一投である。われわれすべてのものの出所、すなわち母は共通である。われわれはみんな同じ深淵から出ているのだ。しかし、みんな、その深みからの一つの試みとして一投として、自己の目標に向かって努力している。われわれはたがいに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない。」

日本語検定でも……

2016-05-04 14:16:19 | 日記
こんにちは。

早くも5月…! 相変わらず月日は怒濤のように流れていきます。

一昨日、語検のメルマガを見ていたら、「日本語検定講師養成講座・講師認定試験」の案内が飛び込んできました。漢字教育サポーターの養成が盛んになっている昨今ですが、日本語検定委員会でもこのような動きがいよいよあったということで、しろねこも少なからず関心を持ちました。指定日に2日間講座受講の上、別日の試験内容は模擬授業と面接。日程を見ると、合わせて3日間、無理矢理受けられないこともなさそうなのですが……

「取って、どうしたいの?」
と家族に言われました。ごもっともです! 今現在の仕事に携わっている限りは、家に帰るのすらままならないのに、幸いにも取れたところで、どうすることもできません。いわば自己満足の域を出ないわけです。

この先受けるにしても、今年度は本業と、個人に留まる鍛練に専念するのがよさそうだ、とも本能的に思います。いくつも草鞋を履けるほど、しろねこは器用ではありません。


。この新年度は、自分が住む地域の桜の開花宣言をうっかり聞き逃してしまうほど春の訪れが早く、入学式には既に桜が咲いていました。今は跡形もなく木々は緑に包まれ、その勢いは増すばかりで、例の通勤路の柳ちゃんの枝も長々と垂(しだ)れています。

新しく受け持つ生徒の顔と名前もほぼ一致してきたので、仕事も精神的には軌道に乗りつつあります。取り組むべき課題は尽きなくて、テトリスの如く仕事の山を日々切り崩しております。その分、生徒が新しい物事に出会って、試行錯誤しながらやる気に満ちているのを見るのは、単純に心が洗われる気がしています。そしてその“やる気”の中身がどんどん具体的になるように、導く手助けをしたいと常々思います。

3月まで持っていた生徒も、廊下や職員室などで出会うたび、元気な表情を見せてくれます。

新年度になってまる1ヶ月、まったく自分のための勉強に取り組めていないので、そろそろまた少しずつ、記憶の蓄積を試みようと思います。