“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

今年が、あと二週間弱とは・・・。

2015-12-21 01:38:12 | 日記
こんばんは。

初のPC投稿です。とある設備の一部としてのPCを借りています。
ケータイ投稿のサービスの一部が先日終了になり、残された手段でケータイから投稿可能にするために、一度PCからログインする必要があったのでした。
設定も完了し、再び表現手段を得たわけですが、管理が制限されるので、投稿にはその都度細心の注意を払いたいと思います。
私は、まだスマホがなくても基本的にはケータイで十分足りると思っているので・・・(でも時間の問題なんだろうな・・・)。

2009年からこのブログを始めて、約6年半になるわけですが、自分のブログ画面って、PCで見るとこうなのか・・・と改めて思いました。
職場のPCはフィルターがあるので、自分のブログはおろか、調べものでの掲示板やショッピングサイトも見ることはできません(まあ、あって正解だと思いますが)。
ケータイからもフルブラウザである程度操作できるものの、画面が小さいのでスクロールには手間がかかるのでした。

震災から4年半、今していることが、明日もできるか分からないという気持ちが、いつも漠然と心の片隅にある(震災がなくてもそれは勿論そうなんですが)日々ですが、今年は“生きている”ということを、とても鮮明に実感した年でした。一生の中で、この一年を過ごすことができて、本当によかったです。

ところで、勤務先の校長先生が半年ほど前の全校集会でのお話で、
「我々は、今日出来たことが明日出来なくなる時期を迎えつつあるけれど、君たちは、今日出来なかったことが、明日は出来るようになってゆくんだよ」
と言っていたのが未だに心に残っています。自分が漢字という文字を勉強する意味、自分の個人の生き方と教育という仕事との関係、能力を磨くということ、自己愛との闘い、他者との連帯意識をどこまで持つかという問題、・・・そんな中で自分がなにかしっかり役割を果たすまで存在し続けるために、自己メンテナンスしていくときに、この校長先生の言葉は肝に銘じていきたいと思いました。そして教育は、自己満足ではいけなくて、未来の開けた人たちに対する責任があるという点においても。

では、おやすみなさい。

満一年

2015-12-13 23:51:45 | 日記
こんばんは。
年の瀬、様々なことが秒読み段階に突入しはじめている慌ただしい時期となりました。

数日前、さる所で目にした鷲田清一先生の文章の一節に、対話とは同じ気持ちになるために試みられるのではなく、他者との微細な違いを知るためになされるものであり、何かを失ったような気持ちになるということは対話の功績だ、という趣旨のことが書かれてありました。

一年前の今日、私が感じた衝撃は、多分そういう意味を大きく含んでいたのだと思います。

早すぎるようでもあり、やっと一年か、という気もします。この一年、これまで以上にいい加減にならざるをえない面もたくさんありましたが、過去から繋がる“わたし”という存在については、見ないことにせずにある程度向きあうことができたのではないか、自分を疎かにしなくて済んだのではないか、と思います。


昨年の一日に感謝の気持ちを寄せつつ、今年も横濱漢字の会12月定例会ならびに忘年会に参加させていただきました。来年以降は仕事の都合上、この時期に皆様にお会いするのが難しくなりそうなこともありました。
fuji-moca様、Jさん、Kさん、Iさん、Mさん、Fさん、…………会の皆様、ほんとうに有難うございました。

やるべきことが見えて、しなければならないと思ったら、年齢にかかわらずひたすら取り組むのみ。お話を伺う中で、そのことを改めて自分に問い直しました。

また一歩ずつ、自分の決めたことに取り組んでいきます。
おやすみなさい。