“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

言葉を習得する手順

2016-01-23 17:00:39 | 日記
こんばんは。気がつけば2016年、今年初の書き込みになります。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

つい最近、言葉を習得する手順について、目から鱗が落ちるような或るお話を拝読しました。
『さよならは小さい声で』(松浦弥太郎、PHP文庫)というエッセイ集を通勤駅で見かけて読んでいたら、若き日の松浦さんが滞在先のアメリカで英語を習得するためにしていた、あることが書いてありました。その一節を紹介します。


アメリカに滞在し始めの頃、英語が話せないことを克服しようと、晴れた日の朝、サンフランシスコのユニオンスクエアの角に立ち、手当たり次第に郵便局はどこですかと道行く人に訊いた。
「まっすぐ歩いてつきあたりを曲がれ」と言う人がいれば、「右に曲がって、すぐ左に曲がって、まっすぐ」と言う人がいるように、その答え方は人それぞれで、とても英語の勉強になった。


凄い!こういう方法があるのか~! と私は感動しました(留学する意欲のある人なら、誰でもこういう発想はあるのかもしれないけれど)。私なら、たとえば一度見かけた相手が、近くで用事を終えてすぐに引き返してきた場合、相変わらず立ち続ける自分を見て、そこで怪訝な顔をされたりしたらどうしよう、なんて細かいことを心配してしまいそうですが、松浦さんは言語習得において、素晴らしく勇気のある人に思えたのです。それに、型通りでない言語表現のバリエーションを学ぶのに、なんと効率のよい方法なんだろう、と感心もしました。同じ先生から様々なことを学ぶのも大切なことですが、松浦さんのこの方法だと、数々の先生が一時期に様々な表現を教えてくれるのです。……因みにこのお話はこの後、松浦さんがとても素敵な女性に遭遇し(この女性がまた本当にかっこいい!私も会ってみたかった)、さらにその女性の横顔が、ある小説に登場する女性の横顔と重なった、という展開になるので、気になる方は是非読んでみてください。

ともあれ、これは体系的に言語を習得する際に、どの土地で、どのような手順で学ぶかを考えさせてくれるお話でした。松浦さんのことは、私は全く詳しくないのですが、プロフィールを拝見するかぎり、渡米する前から英語が堪能だったわけではないみたいです。

私が大学生だったとき、日本語教育学の講義中に先生が、「留学生は、その辺の日本人より余程きれいな敬語を使うから、なんだか恥ずかしくなってしまうわよ。自分の国できちんと日本語を習得してからこちらに来た人たちの敬語はね」と仰っていたことも、今でも忘れません。
現地で実用に直結するような学び方をするのと、予めしっかりと言語体系を記憶の中に構築してからその言語を使うのと、それぞれに利点はあり、きれいにどちらかだけというよりは、その相乗効果でどんどん上達してゆく人が大半なのでしょう。

漢字の勉強の手順でも、多くは紙の上でのことではありますが、これらに近いことが言えるように思います。
要覧や辞典で配当漢字をがっちり覚えてから漢文や漢詩や書道の世界に足を伸ばしてみる人、専門で漢文や東洋史の資料をさんざん目にしてから1級の世界に入る人、様々な漢字本やパズルで語彙力を鍛えたのが始まりの人、漢検ブログを読みまくって、そこに提示された学習方法を片っ端から実践してみる人、…と、漢字・漢語に対する感覚を磨く手順は、人それぞれでしょう。

私の場合はたとえば、高校時代、授業で習う古文をノートに写しては三社(小学館・岩波・新潮)の全集の現代語訳を比較していたときに、自然と記憶した漢字や、同時期に習った漢文で印象に強く残った漢字を、後に1級の問題を目にした瞬間、自然と文脈ごと思い出したりもしました。
かと思えば、あるときまでは辞書でしか見かけていなかった1級・準1級範囲の四字熟語を、その後暫くして偶々教材の漢文中に見つけたりするという、勉強の甲斐があった嬉しい経験も増え、最近はさらに、教材の漢文や古文や近代小説の中で、殊更学習した内容であることを意識せずに、1級漢字や二字熟語・四字熟語、また常用漢字を使った1級レベルの漢語等が自然と目に留まることも多くなったように思います。

文章読解を通した経験的な言葉の記憶にはアナログの連続性があり、辞典や一般的な漢字本などで個別に漢字・漢語の知識を習得した記憶にはデジタルの非連続性が感じられて、そこを往ったり来たりして、互いの感覚を関連付けた訓練をしているというイメージが、常にあります。
でも、自分の血や肉となったと実感しやすいのは、やはり松浦さんのお話にあるような実践的習得方法から得た感覚ではないでしょうか。近代文学の読書量とも相まって類義語のバリエーションに強い人、且つ自らもそれら習得した語彙を使うことができる、という人の感覚などは、このタイプに当てはまるのかもしれません。

ところで、1月は我らの職場に春から通ってくれる生徒たちの入試シーズンでもあり、同僚の先生方と受験者の所見に目を通していると、彼らの担任の先生方が、生徒たちの性格の長所がなるべく活かされるような形容に、あれこれ心を砕いているのが窺えます。それらについて、面接委員を担当する同僚同士で感想を述べ合っていると、ある英語の先生が、「でも、しろねこ先生とお話ししていると、本当にものの言い方ひとつで全然違うんだなあって、いつも思い知らされますよ」と言ってくれて、その人もまた表現には独自のポリシーをもっている人らしいのですが、やはり日本語でも(漢語を含めて)様々な言い回しのバリエーションをアナログ式に体得しようと心掛けることは大切だよなあ、と、また松浦さんの郵便局への道順のお話に、心は飛んでゆくのでした。

ここ数年で、自分の使う言葉について、まだまだではありながらも、以前より自分の理想とする言葉のあり方を模索することができてきたので、今後もつくりすぎず、穏やかで緻密な言語表現を心がけていきたいです。勿論そのようなことを問えば問うほど、言葉を使う本体の私の生き方こそが、常に問われるわけですが……。

きちんと人として穏やかに生きるお話といえば、これもごく最近のことですが、内藤濯(ないとうあろう)訳『星の王子さま』のことを思い出す機会がありました。内藤さんの訳した『星の王子さま』は、私が2~3歳のときには家にあって手にしていたのを覚えていて、4~5歳のときには具体的に内容を読みはじめていました。もっとも、よく意味が飲み込めないでなんとなく読んでしまっている箇所もたくさんあって、わからないながらも繰り返し読むので、その数々の言い回しだけは半ば謎に包まれたまま、私の記憶に刻み込まれていったわけです。
元々は多数の絵本や、茸と海の生物の図鑑、さらにはオコジョなどの写真集に親しんでいたのが中心で、それほど積極的に文章での童話や小説の読書率が多かったわけでもない子どもでしたが、こうしてみると内藤さんの訳した『星の王子さま』は、しろねこの価値観の原点となっているお話のひとつです。それを、ずっと長い年月わざわざ読み返すことはせずに、記憶に残っている断片的なことだけで時々思いを巡らせていたのですが、このたび改めて内藤さんの訳した文章を追ってみると、大切なことは、やはりはじめからちゃんと自分の傍らにいつもあって、長年それにはっきり目を向けていなかっただけなのだ、としみじみ思いました。

自分が未来にどこの土地で、いつまで無事に生きているのか、まったく定かではありませんが、シビアな世の中を生きていても、まだいくらか心根がやわらかかった頃の自分をなくしきってしまわないように、仕事も暮らしも、漢字を知ることも、時代の許す限り考えていきたいです。