“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

名前の由来、使われる漢字の背景。

2015-03-17 22:56:33 | 日記
こんばんは。
ここ数日はすっかり春らしい日が続いていて、今日はコートを薄物に替えました。
ですが我が学年では、明日から語学研修旅行だというのに(しろねこはお留守番です)、
密かにインフルエンザが再燃していたり、油断ならない面もあります。

そして春といえば、花粉の襲来!
しろねこはそれほどでもないですが、マスクをしてしんどそうな人も増えてきました。
彼らの苦しみが終わるのは、だいたい桜の見頃が終わるときらしく、ゆったり落ち着いた心で花を眺めることもできないなんて、と、こちらまで何となく落ち着かない気分になります。


ところで、この前の週末は、保護者役員会の管理(土)、新入生予備登校日の運営(日)と、また連続勤務でした。
予備登校日は、新入生代表が入学式で述べる誓いの言葉の指導を担当したのですが、
その子の下の名前には、「琉」の字がつけられています。
他の漢字と「琉」とで2文字、読み方も含め全体的に珍しい名前なので、その名の由来を聞いてみました。

するとその子は、
両親が歴史上のとある人物が好きで、その文武両道を極めた人物のように育ってほしいという願いを込めて、
その人物の字(あざな)の読みになぞらえて自分の名前はつけられたのだ、
ということを、その子なりの言い回しで説明してくれました。

なるほど、歴史上の人物と漢字まで同じにしてしまうと「いかにも」という名前になってしまうから、
音だけとった結果、その2字を使うことになった、ということでしょうか。
謂わば、当て字的な名前であると言えます。

ここで、この2字のうちの「琉」ですが、
その前日ちょうど読み終えた『人名用漢字の戦後史』(円満字二郎氏 2005.7.20発行 岩波新書)で、記憶に新しい一字であっただけに、
先の由来のお話については、少し考えさせられました。

『人名用漢字の戦後史』によれば、
1997(H9)年、沖縄からのある訴えがあったのが7月、
そのことがきっかけで、同年12月には「琉」一字だけが、実にスピーディーに人名用漢字第四次改定として追加されたといいます。
(私も記憶していてもおかしくない頃の出来事ですが、当時はまるでこの分野に関心がなかったのでしょう、記憶にありません。)

「琉」は七宝のひとつ「琉璃」で使われる以上に、「琉球」の一字であり、
沖縄県民にとっては親しみのある常用平易な漢字であるという、
先の著書の主たる柱:「漢字の唯一無二性」によるところが、改定に至る経緯では大きかったようです。


…それから5、6年して、今度の中学新入生たちが誕生しています。

その新入生代表の子の「琉」の由来を聞く限りでは、
「琉」という文字は既に第四次改定当時の物語を離れ、
彼の名付け親が求める、全く別の世界との繋がりを助けるはたらきを担っているのでした。

私たち人間の一人ひとりが、歴代のご先祖さまを背負って生きているように、
漢字の一字一字も、その歴史の意味を地層のように背負いつつ、
その場の新たな文脈においても使われてゆくのですね。

錦蜑小舟の記憶

2015-03-11 11:03:50 | 日記
昨夜から雪です。
冷え込みも久々にきつく、帰宅するときは、地面が白くなっていました。

4年経った3・11の午前中です。

4年前、スクールバスで同僚と生徒たちと約5時間かけて居住区に戻り、
線路の絶たれた自宅に帰れず急遽スクールバスで向かえる祖父母宅へ身を寄せることになった生徒を、1人送り届けるために、
私がその子と2人で或る駅の近くに降り立ったときも、雪は降り続けていました。

その子も今春、高3を卒業しています。





先週土曜日、うちの中3の人たちも無事卒業し、
今週から、高校の先生方によるガイダンス授業が始まりました。
私は国語科なので、国語科の先生方の授業では教室後方で生徒と一緒に受けているのですが、
これまで教えていた人たちが、自分以外の人に習っている姿を目にするのはこれまた楽しいです。


ところで、最近いろいろ昔の自分を思い出すことが多いのですが、
先日、実力テスト作成のために或る問題集を浚っていたところ、
藤田順子さん『子守唄の余韻』の一節が使われていて、
そこに「しぶ好み」な女学生という文脈が出てきました。
(因みに、この藤田さんの文章は、本当にいいなあ、と思います。)

その「しぶ好み」という言葉を目にしたとき、
私は急に、ニシキアマオブネのことを思い出しました。

ニシキアマオブネとは、或る貝の名前です。

幼少時、私がきのこと海の生物を図鑑で見るのが好きだったことは、
過去にもどこかで書いたことがありましたが、
図鑑というものを眺めるうちには、必ずお気に入りのページなり生き物なりができてきて、
満遍なく見るなかでも、そのお気に入りのところを開くと、いつまでも凝視して、その色や形を目でなぞるのでした。

『貝と水の生物』というハンドブックタイプの図鑑で、
繰り返し見過ぎて、早くからカバーが取れてしまった薄緑色の表紙の記憶しかないせいか、
ネット上で探しても書名の記憶だけではいまいち出版社を限定しきれないのですが、
そのタイトルどおり、はじめに貝(淡水、海水、海外の貝の順)のことが、そのあとそれ以外の水中生物のことが、分類ごとに、からだの器官の断面図と一緒に載っていました。
一つひとつの表示は写真と絵が混ざっていたようで、
ある程度成長してから別の図鑑で同じ生物を見てみると、
他の図鑑では自分の瞼の裏での記憶と全く異なった印象を受けるものも多くありました。

その『貝と水の生物』の貝のなかでも私のお気に入りなのが、ニシキアマオブネだったのですが、
その図鑑に示されたニシキアマオブネは、
海外の貝のページに入る少し前のページで、見開きの右上段の位置に示してあって、
楕円形の巻き貝をある角度から写したもので、渋い薄緑色の模様が微妙についていたのを記憶しています。
派手でも大きくもなく、結構地味だけど雰囲気に味のある貝だったと思います。

藤田さんの文章中に(年のわりに)「しぶ好み」という言葉を見いだして、
久しぶりに浮かんできたのが、そのニシキアマオブネでした。
振り返るとよく思うことですが、私は昔の方が、趣味が渋かったような気がします。

そこで、思い立ってニシキアマオブネを検索してみたところ、
「錦蜑小舟」
という漢字表記に行き着いたのです。
幼少時から何の疑問もなくカタカナ表記のまま記憶に定着していたニシキアマオブネでしたが、
こんなに風情のある表記だったとは知りませんでした。

漢和辞典で「蜑」を見てみると、字義は次のように書いてあります。



中国地方に住む少数種族。多くは水上生活を営む。=蛋(タン)。
[国]あま。漁夫。特に海にもぐって貝などを採ることを職業とする女。
(大修館書店『大漢語林』)


①中国南方に住む異民族。=蜒(タン)。
②中国の南方に住む住民。水上に生活し、漁業を営む。=蛋(タン)。
[和]あま。海や湖で水産物を採るのを業とする人。
(角川書店『角川大字源』)



ニシキアマオブネを検索すると、採取できる地域としては、国内では沖縄の例がよく見られるようです。

そして、昔ひとつの図鑑でひとつの像のイメージのみに固定していた記憶は、
ネット上に検出された色とりどりの模様を幾通りももつ貝の記憶に塗り替えられました。
「錦」の名の通り、織物のように実に美しい模様と色つやを様々にもつ貝なのだということが、この度ふとしたきっかけで分かったのです。

こどもの頃から好きだった貝が深い海に漂うイメージと、
美しい蜑の小舟が波間に漂うイメージとが、
まさに漢字を介して重なった瞬間でした。

「不言実行」存亡の危機?(3)

2015-03-05 09:50:41 | 日記
大修館書店HP別館「漢字文化資料館」が、只今プレオープンの状態なのですね。
「今日の大漢和」がtopページに新設されていて、毎日更新されています。
私は2月下旬に気がつきました。
1月26日からリニューアルしていたようで、フルオープンは「今春を予定しています」とありました。まずは楽しみです!!

しかし、漢字Q&Aも、スタイルがすっかり今めかしくなっていて、
もとのスタイルに馴染みきっていた私は何気なくアクセスして一瞬、
そこにあるはずの見慣れた建物が目の前から消えており、探してもどこにも見当たらない、という状況に似た動揺と心細さを覚えました。
幸い、もとの画面はコピーしてwordに貼り付けて保存してあったので、懐かしくなればいつでもそれを見ればよく、
紙媒体でもとってあるので、大丈夫といえば全く大丈夫ではあるのですが。

メンテナンスされている方のご努力も考えると、無闇に淋しがるわけにもいきません。
500を超えるQ&Aは、ジャンル別で探せるようになっており、
「字形・字体」「PC・モバイル」「筆順・画数」「部首」「読み」「歴史・全体」「意味・成り立ち」「表記・使い分け」と、
7項目で分類されています。
これは、系統立ててQ&Aを理解したい人には、有難い機能だと思います。
また、以前は50問毎にひとつの画面だったので、かなりスクロールする必要がありましたが、
今は画面上で前後の質疑応答と連続してはおらず、
前後のQ&Aに序でに目を移せた以前の様式を思えば、
謂わば紙辞書スタイル(内容の順番はバラバラでしたが)から、電子辞書スタイルに様変わりした、と言えましょう。
個々のQ&A画面毎に、Facebook・Twitterでシェアのアイコンがあるのを見るにつけても、
フォントの変化を見るにつけても、
こんなに変わるんだなあ……
と瞬きせずにはいられませんでした。


で、「不言実行」のお話も引っ張って(3)です。これで区切りにはしますが、自分でも言いたいことが沢山あったのね、と振り返ってみて思います。

最後にお話しするのは、書籍やブログなどの、タイトルや記事内容の見出し項目を、どう命名するか、についてです。

もともと不言実行型のしろねこですが、
弊ブログタイトルを眺めると、
以前からその自覚は勿論きちんとしていましたが、
夢の無いくらいあからさまな有言実行型なんですよね。

これはブログを開いた当初から、悩みどころでした。

何が一番悩むかというと、どう命名するかで、net検索でのヒット数が大きく変わってくる、ということです。
皆様もご存じの通り、漢字ブログひとつとってみても、
奥ゆかしい方のブログはタイトルも本当に奥ゆかしくて、「もっと目立つ個性的なタイトルにすればいいのに……」と周りが何とかしたくなるくらいなのですが、
そこには、「もっと沢山の人に読んでもらいたい」という思いと同時に、「もっと検索したときヒットしやすいタイトルが相応しい」という思いがあるはずです。

ハウツー物の書籍なども、以前より「進化」しているなあ、と感じることのひとつに、その目次があります。
目次は、大きい章立てが分かるほかに、本文を区切った項目のタイトルも一覧することができます。
それがものによっては、最近インターネット上のアイコンのように、物凄くダイレクトな感じになってきているよなあ、と思うのですが、どうでしょうか。
下手をすると、勘のよい人なら内容をよく読まなくても、目次を一覧してしまえば著者の編み出した発想を、書籍購入もせずに掠め取ってしまえる。これって、商品として利益があるのか?
などと、ついお節介なことを連想してしまうくらい、目次のキーワードがダイレクトすぎる気がするときがあるのです。
勿論、目的やテーマははっきりしているのに、とても魅力的なタイトルが付けられているものもありますけれど。


話は少し逸れますが、
入試問題を作るために新書を読んでいても感じることで、いまの文章はとにかく夥しい項目に寸断されています。
頻出する見出し項目のゴシック体に煩わされることなく、著者とあからさまな区切りの無い対話を自然にするように、連綿と続く長文をゆったり読む、となると、これはもう殆どの新書やハウツー物のスタイルとはかけ離れてしまいます。
そういう本を探しても、今やなかなか見つからない。あったとしても、今度は作問に適さなかったりする。
ですから、入試問題の評論は、やむを得ず途中に出現する小項目を抜いて、いかにもその文章がひと繋がりであるかのように抜粋するのです。
そこに何の躊躇いも無いかといえば、個人的には結構あるんですよね…………。


お話を戻しますが、
書籍の見出し項目や、ブログのタイトル・記事の命名は、

・明解さを目指して、テーマや目的をはっきり本文に持たせること
・読者の歯痒いニーズに即座に応じること、欲求を即座に満たして読者を退屈させないこと
・すぐに見つけてもらえること
・自分の威力や意気込みの表明
などの意図でつけられているものが多いのかな?と思います。

そこに、世の中の「有言実行」の定着された考え方が結構関わっている気がします。
「有言実行」自体、「はっきりした目的があり、それを叶えたい」という意識と直結するからで、その考えの現れが項目として文字になり、誰かの目に触れれば、嫌でも「有言」スタイルになるからです。


……理想をいえば、
謎かけみたいなタイトルで、中身が思いがけない宇宙をもっている!
というふうになれたらよかったのですが、
悩んだ結果、当時の私はその道は選びませんでした。

弊ブログタイトルは今現在、中途半端な有言実行型の生き方を曝しておりますが、
往生際を悪くして、タイトルを逃げるように変えることはせずに、
どうせならかっこよく有言実行を極めて、同時に不言実行の要素も磨かれた状態になっていることを目指して、
どちらの発想からも逃げないで鍛えていきたい、と思うしろねこなのでした。

「不言実行」存亡の危機?(2)

2015-03-04 23:40:44 | 日記
こんばんは。
桃の節句も過ぎました。
昨日の朝、通勤路を歩いていたら、水潦[スイロウ]に薄氷[ハクヒョウ]が張っていました。
水潦を「にわたずみ」、薄氷を「うすらい」と読むと、急に短歌の世界だなあ、などと考えてみたり。

なんだか今年は、歳月の過ぎ去るのが曾てないほど早く感じられます。
26-3Web合否通知サービス解禁日も近づいてきましたね。
自分の結果は先にお伝えした通りではありますが、
やはりどこか身の引き締まるべき日であることに変わりはありません。

数日内に前の記事の「その2」を出すどころか、10日ほど経ってしまいました。
先日高校の卒業式も、雪の中なんとか無事終わり、
いよいよ今週末は、我が中3の人たちが卒業の日を迎えます。とはいえ、また翌週から普通に補講授業で登校、普通に卒業研修旅行の準備なのですが………。

今年度、何がどうなってか、
中学校の卒業台帳なるものの筆耕担当になってしまい、
数日前まで、まとまった時間があると集中力を維持するため、
誰もいない教室や誰もいない会議室にこもり、
小筆の穂先と書体と、ままならぬ自分の腕と格闘しておりました…。
主に卒業生全員の卒業証書番号と氏名、及び生年月日、更には皆勤者や精勤者の氏名と出身小学校を、間違えないように筆で書くのですが、
これが半端なく難しいのです。
昨年度までの歴代の先生方の筆跡が、美しく涼しすぎて、
それに引き換え、どうでしょうこの私の筆跡の暑苦しさは…!

ときどき母に、「黙っていてもあんたは騒がしい」と五月蝿そうに言われることがありますが、
誰もいない空間で筆を手に紙面に向かうと、
確かに自分のざわざわが分かる気がします。

人名用漢字とじっくり向き合えた上に、
己を知るよい勉強になりました。


さて、前回の記事の続きですが、
「不言実行」はそんなにも人々の記憶から薄れている言葉であり、
その言葉の存在を知らなかったり、
「有言実行」が先に生まれた言葉だと信じて疑わなかったりする人々がざらにいることには、
本当に驚愕しました。

私の勤める進学校は、それこそ有言実行型の方針で、
みんなの前で目標や志望校を宣言するのは伝統になっています。
私自身は、もとはバリバリの(?)不言実行型で育てられているので、
勤めたての頃は、「不言実行型の子は、さぞや辛かろう」などと密かに憂いていました。
(しかし最早その憂いも、この現状においてはまさに杞憂というものです。そもそも、少なくとも不言実行という言葉では、その概念自体、殆ど生きていない現状なのですから。)

と同時に、それほどまでに有言実行が際立つ環境にいるせいか、
職場での在り方としては有言実行のよさをも受け入れながら、
個人では常に、不言実行の概念を意識するようして勤めて来たのです。
これまで長年勤めてきたうちで、最も衝撃的かつ意識的に大騒ぎしたのは、そういう経緯が自分にあったからなのかなあ、と、
自分のことながら、日数が経つにつれ気づくようになりました。


「願掛け」というものがありますが、あれも他人に口外しないのがよい、という暗黙の了解があるはずです。
たとえば、ハードルの高い志望校合格を果たすなら、
私の勤務先ではどうしても有言実行型の受験生になるように育つため、
同時に己の中での信念を密かに保つ、禁欲的な願掛けの発想も必要になってくるように思うのですが、
ここ4、5年ほど、授業などで願掛けや断ちものの話をしても、
高校生にせよ中学生にせよ、なんだか通じ切った感じがしないなあ、と教室の空気を読んだ記憶が、そういえば確かにあったのです。

そのしっくりこなかった原因が、一面的であるにせよ、今回はっきり分かったような気がしました。


生徒のみんなに、
「有言実行」ってどういうときに使う言葉なの?
と聞いてみると、
「自分の言ったことには、きちんと責任とるみたいな」
とか、
「自分の目標をちゃんと掲げて、それをみんなの前でちゃんと宣言して、実現させるように頑張るときとか」
などと話してくれます。
時代小説が好きで、いつも禁煙が長続きしない化学の先輩の先生は、
「『不言実行』がかっこいいとは思いつつも、
実際には『有言実行』が殆どだったり、下手すると『有言不実行』で終わっちゃったり…(笑)
でも、本当に大事なことは不言実行にするけど、
人に言っとかないと挫けそうなことは有言実行にしといて、逃げ場を断つ、みたいな使い分けはあるかも」
と、自己分析してくれました。

全体的に、この「逃げ場を断つ」という発想は、多くの人が話してくれました。
実際、うちの職場でも受験から逃げないために、その趣旨で有言実行スタイルをとっているところが大きいのです。

あとは、自分より他者に認められること、他者の前で自分の思いをしっかり宣言して共有することのほうが、今の若い人たちにとっては重要なのだ、という見方もあります。

でも、もしそれが時に足枷にしか感じられなくなったとしたら、
その手綱をとっているのは自分ばかりではなく、その宣言を耳にした他者でもあるのですから、
その他者の目を、どんなにか煩わしく感じることでしょう。
有言実行として掲げた内容を遂行する[し続ける]にあたり、
それを苦痛を伴う義務としてしか感じられなくなったとき、
有言不実行の柔軟性を、誰もが持てるとは限りません。
しかも、その行き詰まりの心理に、無自覚だったら?
そのとき、思考の避難場所はどこになるのでしょう。

現代人が何だかつかれやすい原因には、もしかしたらこういうところも関わってきているのではないでしょうか。

そのように有言実行の壁にぶつかったときに、その苦しみをバネに変えるのが、不言実行の発想ではないのかと思います。
私が第一に何がショックだったかといえば、
人々が不言実行の発想も知っていて、有言実行を敢えて選んでいるならば何の問題もないのですが、
不言実行の発想を持たないまま、有言実行ありきの世界で何の疑問も持たずに生き続ける虞のある日本人が、今や大多数である、ということに対してなのです。

「不言実行は、もう流行らないよね……」
と答えた先生方が、何人かいらっしゃいました。


人に言わないから逃げ道があるのではなく、
人に決して言わないからこそ、己のなかでの己の在り方が確実で、揺らぎがなくていられる。
その発想を、願わくは多くの人々に、もっと実感してもらいたいです。
【(3)へ続く】