“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

「不言実行」存亡の危機?

2015-02-22 23:56:04 | 日記
あと数分で日付も変わりますが、今日は猫の日!
全国のにゃんこさんたちにとっては、どんな一日だったのでしょうか。猫らしく猫としての暮らしを満喫できたのでしょうか。

私はといえば(一応人間ですが)、本日は新入生予備登校日で、出勤でした。諸事情で、3月8日まで2週間あまり、出勤しない日がありません。恐ろしい。いくら「しろねこ」と名乗ってみても、現実的に猫ではないからか、仕事の苦しみを満喫することになります。
せめてもの抵抗で、こうして記事を書くことで、今日人間らしく生きた証としましょう。


さて、前の記事の終わりに、自分にとっては衝撃的なことがあったと書いた件ですが、
それはほかでもない、言葉とその概念に関することなのです。

一昨日、生徒の最終下校時間にさしかかった間際、生徒に教室前の廊下で呼び止められました。

生徒:「先生、『不言実行』って言葉があるんですか?ないですよね?有言実行なら聞いたことあるけど」
しろねこ:「……!??」

質問してきた子の後方、少し離れたところから、この疑問の発端になった会話相手らしき子がこちらの様子を伺っています。

しろねこ:「(1秒間呆然)……いや、『ないですよね』って、あるよ、あるある!!むしろ『不言実行』の方が先でしょ!!!」
生徒:「えぇっ、あんの!!!」
しろねこ:「(ほんとにその存在を知らんのだな………)いま辞書で確認してくるけど……」

職員室に戻り、『漢検四字熟語辞典』[第二版]を確認。


○有言実行 = 意味:言ったことはかならず実行すること。「不言実行」のもじり。
対義語:不言実行

○不言実行 = 意味:あれこれ理屈をいわずに黙って実際に行動すること。「不言」はとやかく口に出して言わないこと。
類義語:訥言実行、訥言敏行。
対義語:有言実行

○訥言敏行 = 意味:人格者はたとえ口は重くても、実行は正しく敏速でありたいということ。「訥言」はことばが巧みでない、口べたの意。「敏行」はすばやく行動すること。
補説:「言に訥にして行いに敏なり」とも読む。
出典:『論語』(里仁)
類義語:不言実行


教室に戻り、残っている帰り際の生徒約10名に次のような質問をしてみました。

・不言実行という言葉を知っているか。
・生まれてから今まで不言実行と有言実行どちらを多く聞いてきたか。
・不言実行の意味や使うべき場面が分かるか。
・家の躾に不言実行/有言実行いずれかの考え方があったか。


まず、不言実行という言葉を知らない子が数名。
次に、有言実行のほうを多く(またはいつも)聞いてきた子が殆ど。一人だけ、学年で語彙力トップの女の子だけが、「(有言実行と不言実行)半々ですね」と答えた。
さらに、不言実行という言葉を知っていても、どんな場面で使うのか想像がつかないという子が大多数(学年の成績上位者でも!)。
そして、家で保護者から有言実行の考え方で躾られた子が数名。

翌日(つまり昨日)、授業で教室の全員に聞いてみても、だいたい同じ結果でした。


私は職員室に戻り、その辺にいる同僚や後輩や先輩に、同様の質問を矢継ぎ早にしてみました。
後輩の場合はほぼ生徒の場合と同様。
私より年上の同僚でも、やはり有言実行の考え方で生きてきている人がかなりいました。
中国哲学出身の教頭先生に話しかけてみると、
「“男は黙ってサッポロビール”の時代は終わったんですよ」
とのこと。私は何かの対談記事か何かで、このキャッチコピーを知っていました。
先日書いた、準1級を受けた二人だけが、不言実行型でした。


私は学校の教員になってもうすぐ満11年になりますが、もしかしたらこのことが、勤めていて最も動揺し、かつ意識的に大騒ぎしたことかもしれません。
自分のまわりの殆どの人が、不言実行の発想を、彼らの生き方に織り込んでいないなんて、
思わずその日から山に遁れたくなってしまいました。


取り敢えず、猫の日も終わろうとしている今、明日の支度もあるので、この続きはまた数日以内にアップします。

チョコと海の深さ

2015-02-21 02:17:25 | 日記
昨日(もう一昨日)は、二十四節気でいうところの雨水の日。実際しろねこの住む地域では雨も降りました。
今年は雪も比較的少なくて、春の訪れも早いような…。名実ともに「雨水」を感じさせる日だったように思います。
卒業式を、私の職場では高校・中学とそれぞれ別の日に執り行うため慌ただしく、いろいろな準備もいよいよ間近に迫ってきました。

そして、バレンタインデーから早くも1週間が過ぎようとしています。
これもうちの職場の場合ですが、
中学に異動して大きく変わったことのひとつに、担当している学年の女の子の殆どから2月14日に小さな手作りチョコを貰うことになる、という現象があります。高校でも全く貰わないわけではありませんが、これほどはっきり沢山集まるということはありません。

その中で、ラッピングに画像のような絵入りのチョコ(正確にはチョコケーキ)がありました。この子は普段から歌って踊って笑い転げて賑やかでおもしろいのですが、この絵もおもしろくて思わず見入ってしまいました。
一番下に「チョコ」、間に泳いでいるようにみえるくま、その上に、ちょっとチョコと重なって見えにくいですが、「海」と書いてあります。

この「海」という漢字に、なんだか深いものを感じてしまいましたが、
描いた本人曰く、お気に入りの“すみっこぐらし”の寝そべったくまを描いてみたら、なんだか変で泳いでいるみたいになったので、水平線を描いてみて、なんとなく海みたいだから「海」と書いて、この海はチョコだ!と思ったので、「チョコ」と書いたのだそうな。

「じゃ、あの海はチョコの海なの?」
「そうです!チョコの海です!」
「じゃあ、背後のチョコケーキは??」
「チョコケーキは…………崖ですね」
「崖……!!」


チョコの海に聳り立つチョコの岩肌……まったりとした絵の中に、漢字の「海」と「崖」というイメージを浮かべると、急に野性味の溢れる世界に思えてしまう。中学生女子の考えることは突拍子もないです。

字源は別にしても、「海」から連想するものはいろいろありますが、その深さを思えば、やはり「愛」!!
辞書の項目には見られない意味ながら、愛情の比喩としては「海」はお馴染みです。何気ない彼女のイラストから、子どもらしい、逞しく広く、何気に深い愛情を貰った気持ちになりました。

そのまま気分は大海原の「瀛」のイメージにまで遠出したくなります。

片や、チョコレートは漢字で何と書くのだろうと思って検索してみると、いろいろなページで
「貯古齢糖」
が代表格でヒットします。あまりチョコレートのイメージは湧いてこない字面ですが、他にいくつかある当て字を見ても、かなり美味しくなさそうです。

中国語では?と調べてみると、
「巧克力」らしく、先の当て字よりはよほどチョコレートの持てるエネルギーを字面から貰えそうです。
さらに見ていくと、チョコレートパイは「巧克力派」、ウィスキーボンボンは「酒心巧克力」………でも、ウィスキーはというと、「威士忌」、バーボンウィスキーは、「波旁威士忌」。
大学での第二外国語は中国語でしたが、簡体字を見定めて、発音練習するのが精一杯でした。
何も知らないことがまだまだ多すぎる。

しかし取り敢えず、明日は連コマ授業と保護者会があるので、そろそろ寝ます。
もうひとつ、今日はちょっと自分にとって、衝撃の話題もあったのですが、また明日か明後日にアップします。

26-3自己採点結果と、ここ暫くのしろねこ

2015-02-15 22:30:40 | 日記
こんばんは。

一昨日解答が届いていて、採点は昨日、結果は149点でした。久々に受検できること自体は大切に考えていたものの、相変わらず結果が出せていないことについては確かに残念です。昨年、奈良国立博物館に行ったときもそうだったし、その昔、出産日からも1週間遅れて出てきたことも考えれば、自分が相当ののんびりやなのだということが、最近漸く分かりかけてきたかもしれません……!

■自己採点結果■

音読み13点
訓読み6点
書き取り18点
国字10点
語選択書き取り8点
四字熟語書き取り14点
四字熟語意味選択10点
当て字・熟字訓10点
二字熟語・一字訓読み9点
対義語・類義語14点
諺10点
文章題書き取り18点
文章題読み9点

合計点149点。


……今回1月~2月初旬に勉強をしているとき、同時並行でいろいろな考えが心中を駆け巡っていて、私のなかでは久々に思考の細胞分裂が起こっているような日々で、それは漢字のことだったり自分のことだったりそれ以外のことだったりして、
気持ちの面では、まるで水のなかを、抵抗を感じながらゆっくり前に進んでいるようでした。
決して苦しくはなく、むしろ心地よいくらいなのですが、辞書を捲っていたり、大量の過去問を流したりしている最中に、ふとした考えにはまりこむとなかなか抜け出せなくなり、その都度手がとまってしまうのには本当に困りました。こんなことは学生のとき以来です。
現在もまだまだ進行形で、そんな感じです。

でもこの精神の状況は、人間としても、国文学出身の国語科の教員としても、ほんとうはずっと前から私が望んでいた方向に、やっと少しずつ向かいはじめているということの現れなのかもしれません。

簡単に言えば、私は大学時代と数年前に、それぞれの事情で自分の心のはたらきの一部を止めました。それは自分への歯止めでもあり、防御装置でもあり、そのお陰でこれまで無心に働いてもこられたし、漢検の難関にチャレンジもし続けられたというところが大きいです。
その代わり、もともとの自分らしさは消えつつあったかもしれません。性別も不明、大人になることも止めていたようなところがあって、けれど最近、それらの止まっていた自分が、ゆっくり動き出しているように思います。

これは、この慌ただしい日々にあって、少しつらい感覚でもあるのですが、今さらの自分の変化に怯えることも殆どなく、明日どうなるかもわからない人生の上では、一日でも早くそういう感覚の戻りつつあることは、やはり幸せなことなのかもしれない、とも感じています。

ちょっと歩くとそこここに春の兆しが感じられて、毎年春は訪れるのにそれがこのたびはことさらに懐かしくて、うっかりしみじみとしてしまう。

かなり、仕事や試験に必須の戦闘モードから逸脱してしまうのです。油断していれば簡単に足元は崩れ、背後から斬りかかられてしまいます。

ひとつ、今回の漢検では、同じ科の同僚と後輩が準1級にチャレンジしました。おそらく、二人とも合格するでしょう。それで同僚が、改めて勉強してみて見えたことがあったという実感を、こちらに伝えてくれました。長年一緒に働いてきて、新しく分かち合えるお話が僅かでも増えていくのは、嬉しいことです。

自分の足元が崩れないうちに、
同僚と切磋琢磨できるように、
漢字を愛するひとの人生を愛する資格を失くさないために、
ゆっくりですが止めることなく、またことばと漢字の海を泳いでいきたいです。

漢字と出会ったころのこと

2015-02-10 23:55:03 | 日記
こんばんは。

昨夜の帰りの時刻には、冷え込みがきつくなりました。

勤務地の駅のホームに設置された待合室にいると、

「間もなく、上り電車が通過します。雪が舞い上がりますので、下がってお待ちください。」

と、いつもと違うアナウンスが流れたので、あっ、今日はそういう位置付けの日なんだな、と驚きました。このパターンのアナウンスは、十年以上通勤していて数回しか耳にしたことがありません。
(パターン自体最近できたのかも?)

いつもだと、

「間もなく、上り電車が通過します。ご注意ください。」

としか言わないのです。

いつもは通過電車があると耳を塞いで俯きがちにやり過ごすのですが、今日は通過後に漂う雪煙を見逃がさじと、つい一心に見守ってしまいました。


2月はじめに、ひとつ我ながら唖然としたことがありました。
必要があってタクシーを自分の名字で予約して、乗り込んだところ、ドライバーさんが笑顔でちょっと振り返って、
「奇遇なんですけど、ぼくも○○[=しろねこの名字]なんですよ」
とにこやかに言うではないですか。

私の住んでいる県では私の名字はそれほど多くはなく、大体1年に1人~2人お見かけする程度です。また、私の家系は全く別の地域なので、このドライバーさんはどうなのだろうと興味がひかれて、
「どちらの地域なんですか?」
と聞いてみました。
すると、
「ぼくはむこどのなんですけど、…」
と言うので、
「むこどの」??そんな地名あったっけ、武庫川じゃないし、うちの県だろうか、私、地名の知識ないもんな………と一瞬悩んでしまい、
「むこどの、ってどこですか??」と尋ねると、
「むこどのって、お婿さんですよ」とそのドライバーさんは屈託なく返してくれました。
あっ、「ムコ殿」ね!我ながらアホな質問をしてしまった、と思わず笑うと、そのドライバーさんは、奥さまのご実家の地域を教えてくれました。

地名を聞こうとするあまり、地名でないものまで咄嗟に地名の意味に変換しようとしてしまった自分の神経の融通の利かなさに、呆れてしまいました。



ところで、自分が生まれてから、漢字に出会ったころのことを思い出してみました。

自分が漢字という文字を使って生きていくことになるんだなあ、となんとなく自覚したはじめの記憶は、多分、幼稚園の終わりごろ、自分の名前の漢字の字体について、父と母の見解が違っていた、という出来事です。

小学校に上がる前に、母は私がそろそろ自分の名前を漢字で書けるようにと思ったらしく、紙に縦書きで私の氏名を書いてくれました。

記憶が確かなら、テーブルについた私の目の前にその紙が置かれていて、右に母、左に父がいました。

ここで、私の名前をつくっている文字の片方は、旧字体にすると点がひとつ増えるのですが、
点をつけずに書かれた母の肉筆に対して、父は、点がつくはずだ、と話しかけたのです。

父と母はかなりの年の差だったので、父が戦後まで旧字体とともに生きてきた人だったことを考えると、父の感覚は当然と言えば当然です。対して母は当用漢字以降の人なので、二人はそれぞれの字体での教育が別々に身についていた、ということになります。

父と母の、「点はつく」「いや、つかない」という会話を聞きながら、なんとなく、点はつかないんじゃないだろうか、と考えていたのは、幼いなりに点の無いほうが既視感があったのかもしれないし、より頻繁に会話をしていた母の説のほうを信じたくなる傾向が、当時の私にあったからかもしれません。

でも父にしてみれば、本当に点がつくのに、と思っていたのでしょうね。
私が父とこのことについて話をする機会は、遂になかったのですが。


……私の名前のもう片方の漢字は、実は奇遇にも、父の名前にも母の名前にも含まれています。
ですから、いつでも自分の名前を思えば、おのずと父と母とともにいるような感覚になれるのです。

26-3 受検してきました。

2015-02-08 16:28:37 | 日記
ご無沙汰しております。
(慌ただしい投稿ですが、考えてみたら今年明けて最初の投稿ですね。本年も何卒宜しくお願い申し上げます。)

26-3 受検してまいりました。
受検された皆様も、おつかれさまでした。

今回も難易度は高いほうだったかと思います。

私は冬からの勉強で、意識的になるべく孤独に徹することに努め、1月半ばからは数時間でも早く退勤するようにもして無理にでも時間を作るようにしました。
現実的には生憎、新たな勉強までは手が及ばず、
成美堂問題集と過去問19年分によるリハビリで精一杯でした(そこで勉強したことは、大体しっかり書けたと思います)。

今日の感じだと26-3は、また厳しい結果のようにも思います。自分の生活全体の許容量からすると、まだ暫く冬の時代が続くかもしれません。

27-1は次年度なにかの年間行事とはおそらく被らない筈なので、受検はできそうです。あとは来年度の人事がどうなるかですが、これはギリギリまで分からないのが常で、どこに配置されても多分忙しくなるのでしょうから、勉強であてにできるのは、まだ年度末の3月かなと思います。

まずは今現在担当している中3の人たちの卒業まで、やらねばならないことの山を切り崩していきます。
切り崩していきながら、自分の今後の身の振り方と、漢字との付き合い方について、じっくり考えていくつもりです。