“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

以前は『〜てはいけない○○』を遠ざけていましたが……

2016-09-23 00:19:16 | 日記
駅ナカと、駅に隣接した書店で、

河出書房新社の夢文庫『あなたが口にしている 使ってはいけない日本語』(日本語倶楽部著、宇野義方監修、2016年10月1日初版発行)

を見かけました。つまり、めちゃくちゃ新刊というわけです。

以前は、『〜てはいけない○○』を敬遠しがちで、できれば『〜したい○○』という方向のタイトルを選びたい気持ちがありましたが、最近一概に言えなくなってきました。年のせいと、それに伴う問題意識の変化もあるのだと思います。

雑誌などでは結構、若手目線での上司の躱し方とか、年上のSNS NG集とかの会話術があがっているのをよく見かけて、時々戦慄が走ることもありますが、本書では、若手には上司に対する節度を、年配者には今時の部下の思考回路を解説していて、比較的バランスがとれているのではないかと思います。読んでみると、そういう意味か〜という、こちらの意図しなかった解説も少々あるにはありますが、『〜てはいけない○○』タイプのタイトルの本、初めて前向きに読もうとしたと思います。

見出し項目を一覧すると、このブログを始めた頃、職場などで違和感を抱いた記憶のある表現満載だったため、自己チェックを兼ねて購入。
本書は下記のように10章から成り、そこに“使ってはいけない”約250語が分類されています。

1.つい口にしがちだか微妙に礼を欠く日本語
2.敬意をはらったつもりがかえって失礼になる日本語
3.時と場合によっては顰蹙を買ってしまう日本語
4.勘違いして使って笑われてしまう日本語
5.何げないひと言で人間関係にヒビが入る日本語
6.うっかり誤用の言いまわしで大恥をかく日本語
7.いますぐ直さないと社会人失格になる日本語
8.相手のプライドを傷つけるかなり危険な日本語
9.冠婚葬祭で使うと誠意を疑われる日本語
10.手紙・ハガキに使うと常識を疑われる日本語

ここで、特にしろねこが注目したのは、第5章「何げないひと言で人間関係にヒビが入る日本語」と、第8章「相手のプライドを傷つけるかなり危険な日本語」にある表現でした。

第5章では、「言い訳するわけではないんですが」「この件は、なかったことにしてください」「こんなことは言いたくないが」「聞き流してもらっていいんだけどね」「聞いてません」「さすが部長!」「私の独断と偏見ですが」「そのうちわかるよ」「あなたのためを思って言うのよ」「結局」「それは理想論だよ」「ゆっくり休んでください」「顔色が悪いね」に注目。
似たものでしろねこが思い出すのは、「悪気はないんです」と「言われればやります」と「疲れてるんじゃない?」です。上記すべてを自分が言われたわけではありませんが、言われたことがあるものについては、シチュエーションによっては当時、相手に殺意すら覚えました。(怖いですね…!)
でも、「こんなことは言いたくないが」と「あなたのためを思って言うのよ」と「結局」は、しろねこも過去に使ってしまっていた時期があったのでした。このブログを始める前の、一番自分が職場でもがいていた時期です。今だったら、信頼関係を築けていない、時期尚早の使用は、あまりに逆効果だとよくよく分かります。若くてせっかち、いっぱしの心境だったんでしょうね。

第8章では、「だから、キミは○○なんだ」「キミに言っても始まらないが」「常識だよ」「言い訳は聞きたくない」「よけいな口だし」「ここだけの話」「話にならない」「はっきり言って」「口が達者だから」「○○クンを見習ったら」に注目。
中でもちょっと笑えたのが、「口が達者だから」の解説でした。

「そういう人に向かって、『あの人は口が達者だから』とか、『キミは口が達者だから』というのは、単なる負け惜しみ。『だから、何』と問い返されれば、何も反論できないし、『あなたにも、そんな才能があればよかったのに』と言い返されれば、かえってミジメになるだけだ。」

実は、これはこの春、ある後輩からしろねこが言われたのと似ています。「先生は、話すのが得意だからいいじゃないですか」と。生徒たちが、よく喋る国語科の私と口下手な(?)自分を比べて、自分をバカにしてくる、というのが彼の言い分でした。でも、私は生徒がバカにする原因はそこではないと踏んでいたので、「それは関係ないと思うけど、もし自分でそれが気になるなら、努力すればいいんだよ」と、間を置いて返しました。まさに、「それが、何」の心境です。「私だって、初めからこんなにすらすら喋れなかったし」。

――そう、自慢でもなんでもなく、振り返ってみると私も努力はしたんだなあ、と思います。もともと一人っ子で、外、とりわけ子ども同士の世界では、自己表現をその場でするのが非常に苦手だったし、複数の人の会話の輪にも、長縄みたいに入るタイミングが読めなかったし、大人になってからも、授業で緊張すれば人前で声が震える人でした。でもそれでは生き残れないので、自分なりにひとつひとつ、できるときに研究・克服・自己点検していったのです。代々の生徒はそれを、文句も言わず待ってくれたんだな、とも感じています。

……言葉遣いに関する本は、大概企業のビジネスシーン対応のもので、それにプライベートシーンなど、人間関係づくり全般に対応したものなので、しろねこのように学校で仕事をする場合、使い方の事情が多少違ってくることもあります。

たとえば、
「ダメなものはダメ」
という表現を、本書では第8章で「相手が呆れ返る拒否の言葉」と位置づけ、セールスやプレゼンテーションの場で発言すれば、論理的思考がストップし話し合いの余地が失われる、ムチャな言葉づかいだとしています。無論、それはそうに違いありません。
しかし、しろねこは昨夜、違反物を持ち込んだ生徒の弁解だけ聞いて、持ち込んだこと自体を正せなかった後輩に、
「気持ちはいくら理解してあげてもいいけど、『ダメなものはダメ』ってその場で言ってくれないと」
と断言したばかり。この毅然とした「ダメなものはダメ」という態度をとれるかとれないかで、教育がいかに大きく左右されるか。この仕事をしていてつくづく思い知らされるフレーズのひとつです。

ですが、本書の約250語のうち、ここに今日挙げた数々の表現は、生徒、またはスタッフ、あるいはその両方に使ってはいけないにもかかわらず、実際使われてしまった場にしろねこが居合わせた記憶のある、言葉の数々です。“知らない”ことで、それこそ「悪気はないのに」、配慮が浅いせいで誰かが不快な思いをしたり、心を傷つけられたりするのは、あまりに悲劇。そもそも上の立場の人たちと下につく人たちが、きちんと言葉づかいも含めてお互いの仕事を尊重して、そのために自分も磨いて歩み寄れる心を保てる世界であってほしい。そう考えて明日の準備に取りかかるしろねこなのでした。

初めて上手に書けた字は…?

2016-09-19 11:05:50 | 日記
たまに、他教科の先生と漢字について雑談をすることがあります。先日は隣の数学のK先生が、

自分は「集」が一番好きな漢字です

と言いました。数学の先生だから、「集合」を説明するのによく書くから好きなのかな? などという考えが脳裏を過るそばから、理由を聞いてみると、

初めて上手く、バランスよく書けた字って、「集」なんです

とのこと。言われてみると、「集」は確かに左右非対称で、上か下が大きくなりやすいうえに、右上がりか左上がりにもなりやすい字のひとつ。

そこで母に、「初めて上手く書けた字って何だったか覚えてる?」と聞いてみたところ、母は衣類を畳みながらこともなげに、「『む』。あのくるっとするところがね…。あ、あと『ま』。…漢字? 漢字は『遠』! しんにょうとか…先生にも褒められたもん」
と、ポンポン答えるではありませんか。

でも、こういうふうに、人は覚えているものなんですね、初めて上手く書けた漢字のことを。
みなさん、ご記憶にあるものなのでしょうか。

しろねこは、とにかく義務教育のうちは、いい加減な字を書いているのを見かけられると母親に逐一字の形や大きさを注意され続け、それぞれの直すポイントを気をつけるようになったこと自体は記憶にあるのですが(はねとか突き出るとか)、常用漢字表を何も眺めないうちから、K先生や母のように「この字だ!」とぶっつけで言えるほど、“初めて上手く書けた”字の新鮮な記憶がありません。
また、それが具体的にどんな漢字だったかの記憶はないですが、形をとるのが苦手な字を上手く書けた瞬間に限って、隣の字が間違っていたり上手く書けていなかったりして消しゴムをかけているうちに、上手く書けた字の端まで消してしまい、結局一から書き直したらたいして上手くもなくなった、という要領の悪いことも度々ありました。しろねこは、消しゴムを入念にかけないと筆圧が強いほうだったのです。

ただ思い巡らしてみると、K先生の言う「集」みたいに書きにくい字は、しろねこの場合、自分の氏名が最も当てはまりそうです。というのも、左右対称の漢字が実はひとつもないのです。一文字だけ左右対称に近いのがありますけれども、それは成り立ちの姿は左右対称なのですが、文字になってみると完全な左右対称ではなくなっているのです。
ひとつひとつの形が取りにくい上に、トータルで書いたときのバランスも、子どものころは難しくて、特に毛筆による書写のときなどは悩んだものでした。高校で先生に古典のノートを褒めてもらうためにきれいな筆跡を心がけたり、書道部にいたとき練習したりしたのである程度問題なく書けるようにはなりましたが、今でも気を抜くとあちこちに線が流れてしまうので、心して書いています。助かったのは、氏名の画数は、それほど多くなかったということかもしれません。

幸い、自分の名前が上手く書けなくてもしろねこは字を書くことが嫌いにはなりませんでした。なんでかは正確には分かりませんが、絵でも字でも、きれいだと感じるものを写して残したり、表現して見てもらったりすることは好きだったから、なんじゃないかなと思います。
先日、演技と衣装が素敵でしろねこが応援していた、フィギュアスケートの鈴木明子さんのご講演を拝聴する機会があったのですが、そのお話の中でも、やはり同様のことが含まれていました。人間、ひとつの欲求があれば、いくら苦手なものでも、そこを避けているうちはその欲求が叶えられないんだと分かったら、やるしかないと挑み続けて、いつか克服するものだ、ということ。もちろん、オリンピック選手が求める世界と一個人の文字を書くお話では次元は大違いですが、でも、理屈の筋道は根っこのところでは同じなのではないかと思います。

そんな、“できるようになる喜び”の記憶というものについて、暫し思いを馳せてみた次第でした。

図書館のスタッフに間違えられる理由

2016-09-18 09:24:36 | 日記
秋の風情が一日のどこかには確実に感じられるようになってきました。

今日は、直接漢字に関係のないお話です。

中学国語科で地区の書きぞめ役員になってしまうと、秋に書きぞめ手本が発表されるや否や、冬の審査に備えて県や地区の講習会に出掛けなくてはならなくなり、そこでは手本作成に携わった、書写・書道に優れた先生方が書き方を教えてくださることになっています。
そういう先生方からは、うまく説明できないのですが書道をする人特有のオーラが出ていることがあり、高校生のとき書道部の顧問だった先生と似通った雰囲気を感じたりもします。

時々そんなふうに、その職業特有の、あるタイプのオーラに気づかされます。一度気がつくと、次に「あ、あの人も…」と何となく共通を見いだしたりすることも増えてきます。


ところで自分の場合、初対面の人に教師であることが知れると、外見のせいなのか、ほぼ十中八九、「小学校ですか?」と聞かれます。大体高校が長かったので、「いえ、高校です」と返すと、「高校生は言うこと聞かなくて大変でしょう」と労われたり、「生徒に怒ったりするんですか、想像つきませんね」と言われたりします。

因みに長いキャリアのお陰で、しろねこも今やすっかり、職場の方針に合わせて、ほぼ狙い通りに叱れます。こういう点では、私立で異動がなく、職場の伝統を体得するのが楽と言えば楽。特に中1男子は、ちょっとツボを突けばまだ簡単に泣いてしまいます。勿論泣かせるのが最終目的ではなく、反省させる手段でしかないですが。
そもそも、余程理不尽なことがない限り、生徒も分かって入ってきているので不要な反抗はしません。様子がおかしければ原因を探ればよいし、普段からお互い会話するようにしていれば、問題が起きても反抗せずに自分の気持ちを説明してくれます。


ところがこの半年くらいの間に、今度は市民図書館で、2度もスタッフに間違えられました。

1度目はカウンターに隣接した新聞閲覧コーナーで、コピーの済んだ新聞を立って重ねていたら、大学院生っぽい女性が近づいてきて、「あの、1ヶ月前くらいに書架の本を並べるボランティアの貼り紙があったと思うんですけど、…あれって、もう終わっちゃいましたか…??」と話しかけてきたではありませんか。一瞬、なんのこっちゃと思ってから、あ、間違われてるのかと気がついて、「あの、私図書館の人じゃないんです」と答えると、「え、そうなんですか」と相手は当惑気味に去っていきました。

そんな出来事をすっかり忘れた最近になって、今度はカウンター近くの、お客さんが利用するコピー機で思いっきり新聞をコピーしていたら、自分より少し年上かな?とおぼしき女性が近づいてきて、「あのー、この本借りようと思ってるんですけど、ここの真ん中が割れてきちゃってて、……このままじゃよくないかなって……」と、単行本の見開きを私に見せてくるのです。咄嗟に以前の例を思い出した私は、今度は笑顔で「そうですよね。私、実はスタッフじゃないんです」と返すと、相手は「あ、そうなんですね」と慌てて去っていきました。

因みに、そのお二人とも本が好きそうで、大事な本のことを思って話すときの独特の含羞みみたいな表情があったのは、ちょっと親近感が湧きましたけれど。

……にしても、そりゃあどちらもカウンターの近くでの出来事ではありましたが、大体ネームプレートもエプロンもしてないのに、一体どこ見て判断されているのだろう? と謎。職場でも、総務と兼任で図書館関係の部署にもいるからなのか、なんか“書籍なオーラ”でもこの身から出てるんだろうか、と微妙にうれしいような、こそばゆい気持ちになりました。


……しかし、立ち戻って考えてみたら、自分は本業の“教師オーラ”を放っていなければならないはず!
なのに、保護者会などのときに、いつもは着ることのないスーツを着てくると、子どもたちには、「なんか女社長みたいだから、いつもの格好のほうがいい」といわれる始末。教師でなくて、社長…。まだまだ修行が、足りないみたいです。
まあ、「いつも」のほうが落ち着いて安心できるということだから、それでいいのかな。


電子教科書の普及やアプリによる教育が進むこの時代、生徒が紙の書籍や文字に親しめる環境も衰退しないように、“書籍なオーラ”を纏ってがんばっていきたいなあ、と思った、一連の出来事でした。

“漢字なオーラ”というのもあるのでしょうかね。それには自分はまだまだ程遠い。仕事で先輩方の成してきたことを受け継ぐときに、その先輩方の如才ない中にも垣間見える威厳に敬意をしっかりとはらうべきなのと同様に、漢字も親しみのある文字だけれど、気軽に接しているだけではやはりいけないんだろうな、と感じたりもする今日この頃です。