“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

「子紙」の意味を真剣に考えようとしていることへの懐かしさ

2016-08-23 01:56:48 | 日記
台風が、先週から断続的に続いています。時折、通勤・勤務時間も多少イレギュラーな形になっていますが、しろねこのところはまだまだ穏やかなほうです。
日本の天候は本当に、一体どうなってしまったのだか。


ところで先日、よく勉強している生徒の一人が、「これらの言葉の意味を辞書で引いてもよく分からなかったので、それぞれの読み方と意味を教えてほしい」と、言葉をリスト化した紙切れを持ってきました。見ると漢文の一節や、収録語数が多めの辞書でないと載っていないかも、という語が多くあります。ところがその中に、一つだけしろねこが見てもよく分からない言葉があるではありませんか。

「子紙」って、何だろう……。

「――これ、どんな文の中にあった?」と聞くと、その子が何かの例文を持ってきた、それを見て納得。
彼女は、「鳥の子紙(とりのこがみ)」という言葉をひと纏まりで認識せず、その後半部分「子紙」だけに注目していて、その意味を真剣に探していたのです。
それで、古語辞典の「鳥の子」の項目の説明を、彼女に教えました。本当は実物も見せてあげられたらよかったのですが、そこまではしていません。

思いおこせば、高校で古典を習い始めたころ、おもしろくなってきて辞書を引いて引いて、あとで全集の脚注とつき合わせていた数年間がしろねこにはありましたが、その時のノートを見返すと、当てずっぽうで目星を付けた単語の区切り方がおかしくても、力技で意味調べを成し遂げています。いつかも書きましたが、漢検準1級に一発合格した時の勉強もそう。『漢検漢字辞典 第一版』がギリギリ世に出たかどうかのころで、それは買っていなかったから、部首で引く普通の漢和辞典だと四字熟語なんて本当に力技の意味調べだった。今だとこんなとんちんかんな調べ方はもうできないけれど、大真面目で真剣だったんだよなあ、多分質問に来たあの子も、今そうなんだよなあ、と思いを巡らせました。


そんなしろねこが最近辞典で調べた言葉は、まず「食言」。ある雑誌の紙面で、最近の公人の言動を表現する際に使われていて、三省堂の『大辞林』では次のようにあります。

・「食言(しょくげん)」=〔「書経湯誓」より。一度口から出した言葉を、また、口に入れる意〕前に言ったことと違うことを言うこと。また言ったことを実行しないこと。約束を守らないこと。うそをつくこと。「君子は――せず」

次に、ある小説の中での、「伝法はだ」。こちらも『大辞林』の説明。

・「伝法肌/伝法膚(でんぼうはだ)」=荒っぽい言動を好む性質。勇み肌。主に、女性について言う(本当は、ここで「伝法」の意味から列挙すべきなのでしょうけれど、割愛します)。

そして、また別のある小説の中で見かけた、「霑酔」。こちらは、学研『漢字源』の説明。

・「霑酔(てんすい)」=全身にしみわたるほど酔う。(類)泥酔

……なぜ「泥酔」では味わえないなんともほろりとしたふくよかな印象を、「霑酔」という字面は与えているように感じるのだろう。
「泥酔」も、いかにも酔って、だからこそ酔った肉体が生きている感じがして、なかなか悪くはないけれど、「霑酔」のような、ひたひた、はらはらと全身の感覚がどこかに落ちてゆく感じはない。やはり、雨かんむりはそれほど何かしみじみとロマンチックな風情があるのでしょうかね……。すべてはしろねこの勝手なイメージで、原典を見ればそんなものではないのかもしれません。


1990年代の後半は特に、部屋にいると昼間から閉じ込められたかのように感じてしまう雨が、多かったような気がします。そのままどこか別の世界に、連れ去られてしまうような……。――でも、今の雨は、とてもそういう感じには思えません。あるいは、自分の社会的立場が当時と今とでは違うせい……?

とにかく、早く残暑と野分が去って、穏やかな秋が来てほしいと願うばかりです。






『日本人として知っておきたい日本語150 の秘密』(彩図社)

2016-08-16 13:42:58 | 日記
お盆休み中に届いた「漢検生涯学習ネットワーク会員通信 vol.22」を、いつになくゆったり読んでいたところ、兵庫県の古川さんという方の合格体験記の中に、
「ベレ出版で田中春泥さんの『書けなくてもいいけど読みたい漢字』を書けるようにするべきです」
とあったのを、本当にそうだと懐かしく思い出しました。このご著書について、はるか昔(7年前)2009年8月24日の記事で、ものすごく地味にしろねこもご紹介していて、当時自分でもよく拝読していたのです。
因みにこの田中春泥さんの続編として、四字熟語編も出ていましたが、果たしてあれを私は購入したのでしたっけ、確かしたはず……とうろうろ思い出そうとするのですが、震災前の纏まった荷物の中にあり、同僚の何人かもそうなのですが、なかなか改めて出して整えるということをしていなくて、今年の夏も過ぎ行くことになりそうです。
震災前に嬉々として購入していた漢字本が結構あって、どれも好きだったので丁寧に読み返したいのですが、震災後増え続ける新たな資料に呑まれています。こんなでは人生いけないのでしょう。
また明日から、本格的に生徒と授業です。


――で、月日は流れ、7年後のこの夏、しろねこが読んでみたご本は仕事分も含めていろいろありましたが、その中で、しろねこの近所のコンビニに置いてあった『日本人として知っておきたい 日本語150の秘密』(彩図社、沢辺有司氏、平成28年8月25日第一刷)についてご紹介します。

沢辺有司さんのご本を拝読するのはしろねこは初めてですが、書店でもつい最近、タブー視された映画のお話が書架に置かれているのを見かけたりしています。
タイトルのとおり、本書は150の項目で日本語のあれこれが解説されているのですが、最後の150個目が用語表記の統一について書かれていて、共同通信社刊の『記者ハンドブック――新聞用字用語集――』に筆者が言及しているのは、いかにもライターさんらしいかもしれません。

150の項目は6つの章に分けられていて、日本人の漢字使用に関しては、第四章の「戦前・戦後で変わった日本語」の中に詳しいです。2020年の次期学習指導要領や、2018年からの小学校教育を視野に入れた考察が所々入っているので、教員としても考えさせられるところです。
1年ほど前、『人名用漢字の戦後史』(岩波書店、円満字二郎氏、2005年7月20日第1刷、多分これまでの円満字さんの御著書の中で最も硬派な内容)を法律の苦手な私がどうにかこうにか拝読し切ったこともあり、当用漢字成立から常用漢字への変遷を、ある程度の実感を伴って駆け足で概観することができました。

本書『日本語150の秘密』を拝読していて、自分がこれまで深く考えず、曖昧に受け入れていたいくつかの言葉の由来について、解説を目にしました。例を挙げると、

・ふりかなの発生はいつごろか
・指の名前の変遷
・日本語の横書きの発生
・五十音図の現在の配列はいつからか
・今でも横書きの文書で「、」でなく「,」を使うのはなぜか(これでやっと、職場で心底納得して使い分けができる…!)
・日本語に助数詞が多い理由
・「元旦の朝」はよくない表現(しろねこの場合、本書で投げかけられている「元旦」と「元日」の違いは言えるものの、上記の表現は無意識に使ってしまいそうだ)
・「行なう」が認められているのはなぜか
・手紙の頭語と結語はそれぞれいつごろ成立したか
・「形容詞+です」が認められるようになったのはいつか
・なぜ「全然〜否定表現」が日本で固定されるようになったか(よく「国語の先生でしょ」と訂正されるのですが、しろねこは「全然+肯定表現」を使うのがなぜだか気に入っていて、未だに止めていません)

などなど。
しろねこは人に教える職業なのに、知らないことがありすぎて、勉強するたびに日本人としても、どうなんだろうと改めて悩んでしまいます。
単に読み書きできるのは、それができないより、かなり怖いこと。それを肝に命じながら、言葉と接していきたいと思います。

妖怪のような気持ち

2016-08-11 21:44:45 | 日記
「――しろねこ先生は、いつも草原にいるんです」
と、この春まで教えていた高2の女の子が先日、私に言いました。出張帰りの私と、放課後自習を終えた彼女と、学校の夜の廊下で最近の彼女たちの様子について話していた中での会話です。
「草原?」
「はい、草原からこっちを静かに見守ってくれてる、って感じなんです!」
「…そうなの?」
「はい。先生は、私の一部分だけを見てそれに乗っかって味方するようなことを言うんじゃなくて、“私”っていうまんま捉えて見てくれるじゃないですか。その、味方も否定もしないで見ててくれるのがいいんです!!」
な、なるほど〜。そういう言い回しで、自分の態度を考えたことはなかった。でも、彼女が言ってくれたことは、私が生徒に対してこれまで少なからず心がけてきた在り方ではあったので、それを彼女がこうして受け止めていてくれたのが、内心とても嬉しかったのでした。

――それにしても、なぜ草原なのか。私は彼女の心象風景を想像しようとしました。彼女に限らず、よく「先生はねこみたいだから」と言われるから(私がねこ好きだから、そう言ってくれるだけかもしれないけど)、それとも関係があるのかもしれません。
草原というと、私の脳裏に浮かぶのは『スーホの白い馬』の世界、それから草原とは微妙に違うけど、『星の王子さま』のキツネ。
どこまでも見渡せる空間、相手との目線は常に対等。距離の取り方も伸縮自在。草陰に隠れたりもできるけど、行方不明にはならず、呼び合えば居場所が分かる、そういう空間。
つかず離れず、確かに生徒たちを私は草原から見ているのかもしれません。

さらに、真面目な話、漫画『夏目友人帳』のニャンコ先生は私の憧れの存在ですが、彼もよく公園や草っ原や森の中や岩場に姿を現します。ニャンコ先生は手塚治虫氏の『ユニコ』や、ジブリの『千と千尋の神隠し』のハクのように、いざとなると巨大に変身する妖怪ですが、ユニコやハクよりはるかに人間くさい(もっと言うとオヤジくさい)。タダ酒と食べ物と昼寝にしか興味が無さそうなのに、夏目のことをよく見守っている優れた先生なのです。私が生徒の中にいて心がけていることのひとつに、“性別・年齢のものさしを自在に動かせる目で物事を見て、生徒に対する受け答えもする”というのがありますが、それゆえに私の心象風景中では実は、自分がしょっちゅう人間ではなくなっているのです。それには動物か妖怪のような立場がもっとも都合がよい。勿論生徒は人間に育てなくてはならないのですが、それを煩悩に囚われた成人女性の視点で行うのは、時に限界があると思うわけです。

ここらへんから文字のお話になりますが、実は仕事上の様々な校正作業についても、しろねこの場合、この感覚が当てはまります。すなわち、校正しようとする文字に“憑依”しようとする感覚です。
出版業界とは比べものになりませんが、教員の世界でもそれなりに数々の校正作業があります。生徒の作文、学校から出す公文書、PTA新聞、定期考査や日々の自作教材、同僚や先輩の原稿……、そして最も大きなのが、我々で作成する入試問題の校正です。自慢しますが、しろねこは責任者だった昨年度までの5年間、自分の科から校正ミスを出したことが一度もありません。

以前、同じ科の先輩と入試問題の校正作業のお話をしていて、何も考えず私が、
「文字に憑依したときに、――」
と話しかけたのを、先輩が制して、
「…憑依!? ……俺には、まだそんな感覚はねぇわ……」
と微かに狼狽した顔で言ったので、あ、しまった、つい人前での言い方間違えたわ……、と思ったのでした。因みに、その先輩が今後も自分の身には起こらないであろう現象を「まだ」と表現してくれたのは、しろねこが多少変でも多目に見て認めてくれる心意気からだと、しろねこは解釈しています。

さて、「文字に憑依する」とは、もう少し正確に言うと、吸盤か触覚のように指先を行間に辿らせながら、活字の余白に己の感覚を滑り込ませ、センサーのように間違いを感知する、とでも申しましょうか。そうしていると不思議と、次第に己の身体が人間ではない何者かになっていく気がするのです。その時の、神経が研ぎ澄まされてゆく感じはそれなりに楽しいのですが、終わってみると割とエネルギーが奪われている作業でもあります。

で、ここまで様々お話ししてきましたが、漢字を勉強するときも、そんな半ば浮き世離れした感覚と、人間の泥臭い感覚とが混在したような、人間が生み出した妖怪のような心持ちに、自分がなることがよくあります。逆に検定などの勉強があまり上手くいかなかったときは、本来確保すべき勉強期間に職場などで人間であり過ぎたか、仕事上の憑依にエネルギーを費やし過ぎた結果、漢字とその周辺世界に憑依しきれなかった、というのが正確なところです。

俗っぽ過ぎても、浮き世離れし過ぎても、漢字は理解できないように思います。教職にもそんなところがありますが、生徒抜きの貴重な数日間、お盆であの世からの人々をお迎えし、またお見送りする傍ら、人間として生まれて、漢字という文字を身近に感じて生きてゆく境遇に、しばし思いを馳せたいと思います。

世の中は“美意識”で溢れている

2016-08-08 08:18:56 | 日記
おはようございます。
毎日暑いですが皆さんの地域はいかがでしょうか。
しろねこはこれから終日研修の出張に行ってきます。テーマは道徳! 特に分掌で担当になっているわけではないのですが、なぜか“お前が行ってこい”ってことになっていたので、行ってまいります。そんなわけで今朝は、電車の時間まで喫茶店で少々のんびり。


しろねこにとっては今年も、入試作成のシーズンがやってまいりました!! 特に支障の無い限り、しろねこは毎度小説を担当しています。一日中というわけにはいきませんが、断続的に小説を読んで読んで、これだというのが見つかるまで読む。できるなら、二次募集の分も確保できるまで読む。短い休み明け生徒が来たら最後、もう絶対読む余裕なんて無い……。今年は、特にそう思います。現に上半期、入学式前までで読書がふっつり止まってしまっていたのです。入稿締め切りは9月上旬、うかうかしてはいられません。

以前、いつだかもう忘れてしまいましたが、連続して読んだ別々の小説の中に、絶滅危惧種の話が出てきたと書いたことがあったように思います。今年は、連続して読んだ別々の小説の中に、昔好きだった映画(フェデリコ・フェリーニの『道』)と昔好きだった絵本(『せいめいのれきし』)が出てきました。『道』は当時教育テレビで再放送を何度か見ていて、絵本も繰り返し飽かず眺めていて、そのたびに発見がありました。どちらも1980年代のことです。自分自身、今より何倍も不器用な人間だったけど、独自の発想とものをつくる意欲とが日々湧き出ていたように思います。しろねこの人生も、平均的に考えればそろそろ半分に差しかかろうというころなのでしょうが、こんなふうにいろいろな“再会”が、きっとまだまだ待ち受けているのでしょう……。

――そのように昔を懐かしむ中に、自分の美意識も挙げられます。しろねこの場合、多分、今より美意識は数倍(下手すれば十数倍)高かったように思います。自分で言うのも何ですが、以前は若い緻密さもあったし、自分でつくろうとする作品の完成イメージが、つくる前からかなり鮮明で、作成過程でそのイメージに近づくまで諦めなかったし(諦める以前にどうすればできるかしか考えていなかった)、近づける方法を実際見つけられてもいた、と思うのです。そのために限られたお小遣いで絵の具や手芸の材料を探して買うのも楽しくて、自分の全エネルギーを完成に向けて集結させていました。
そして、そのために普段から好きなものやきれいなもの、映画や図鑑は、許される限り食い入るように見る子どもでした。好きな音楽も、完全に脳内に再生できるまで繰り返し聴きました。それは中学校から古典を習って、表現を暗誦するようになってからも同じです。高校の部活で書道をして、何十枚も好きな書体を練習したときもそう。

大学入試を経て大学生になり社会人になって、そういう美意識に、少しずつ蓋をしてきたところがあって、たかが一個人の美意識、そんな言うほど大層なものではないのですが、感覚は確実に鈍くなったし視野も狭くなったよな、と。プラスチックも貝殻も石ころも、昔ほど曇り無い憧れの眼差しでは見られなくなってしまったかもしれません。


――さて、ここからが漸く本題です。
ひところ、ネット上のニュースの見出しなどで「美人すぎる○○」という表現を頻繁に見かけ、現在はわりとピークは過ぎたかなと感じるのですが、最近は、本屋さんにいても職場の図書館の新刊図書を見ていても、
『世界で一番美しい○○図鑑』
というタイトルがやたら目につきます。そのたびに、「思いきったタイトルをつけるなあ」と、思わず横目で見るような身構えた気持ちになってしまいます。これはなぜなのか? 業界は、何を意図してこの表現を使用し続けているのでしょうか。消費者の食い付きをよくするため?? 確かに「美しい」と言われたら、見たいと思うのが人情ではありますが……。

大体、誰が「世界一美しい」と決めるんだろう、と訝ってしまう。私が子どものころに見た図鑑のほうが、画像はデシタルじゃないけど、もっと美しさが違ったんじゃないかな、とか、装丁や被写体に味があったんじゃないかな、とか。
実際、そういう図鑑を見かけると一応手にとってパラパラしてみたりもするのですが、連れて帰ろうと思ったものには、生憎まだ巡りあっていません。というよりしろねこの場合は正直なところ、このパターンのタイトルがついているというだけで、もう半分買う気が失せている、と言っても過言ではありません。まあ、それもまた偏見なのかもしれません。
「美人すぎる○○」も、確かに思わず見とれてしまう美人さんもいらっしゃるのは確かですが、なんとなく“仕立てられているのでは”、と感じさせられる場合もあって、「元々何を根拠に、その職業や立場に美人の基準を設けているのだろう」と考え込んでしまいます。単にその人自身が美人ってことでいいじゃん、と、ついつい反論したくなる。
メディアが美しいと言えば、確かに美しいと靡くのも素直でよいのでしょうけれど、何がそんなに違和感があるかって、こちらが見る前から「(一番)美しい」と誰かに価値を与えられてしまっていて、自分で美しいと極(き)められるチャンスが減らされている、ということです。
「いや、タイトルの見方にむしろ共感しようという親和力が、見る人の側にも事前にはたらくでしょ。見てみたら“ホントだ〜”みたいな」という方もいらっしゃるかもしれません。みんなで、美しいと共感しあえばいいじゃん、と。

美しいって、誰が決めるの。

と、しかししろねこはどうしても踏みとどまってしまう。そして、ある対象をみんな同じ言葉で美しいと思っても、個々の審美眼により、その美しさは異なるはず。その個々の捉え方が、事前に大きな括りの「美しい」という言葉で決められてしまっている。その居心地の悪さゆえに、来るべき感動に警戒心が倍増してしまって、ストレートには素直に対象を見られない、何とも残念な気持ちに襲われてしまう。ただ、いろんな生徒を教えて、いろんな言葉を勉強して、ものもつくる自分としては、普遍的な美意識、万人受けする美意識と、一部の人にしか理解できない、個性的で偏愛的な美意識、いずれも持ち合わせていたいと思うのですが、そう器用には、なかなかいかないですかね。


――という、朝から難癖つけまくりな記事になってしまいましたが、同じく、「善悪とは誰が決めるのか」と考えさせられる道徳について、より充実した授業ができるための研修に、そろそろ行ってこようかと思います。

しろねこ流『漢字の使い分けときあかし辞典』の読み方…?

2016-08-02 01:59:03 | 日記
梅雨も明け、8月になりました。
職場ではまだ授業が続いています。

7月6日の記事でご紹介したイベント「記者報告会『漢字の使い分けを考える』」に行ってきました!
午後から仕事を抜けて、蜻蛉返りでした。
当日の内容や様子については、毎日メディアカフェ > イベントアーカイブの7月20日付のページに詳しいので、ここでは書きませんが、お話はたいへん楽しかったです。
個人的には『漢字の使い分けときあかし辞典』をどう読み進めていけばよいか、ツボを押さえて帰ってこれたという感じでした。
毎日新聞校閲グループの岩佐記者の挙げた数々の用例に、『漢字の使い分けときあかし辞典』を書いた立場から円満字さんが解説を加えていくのですが、新聞のためのオフィシャルな表記の考え方とは一線を画して、基本的にプライベートな書き手の意図し得る表記のバリエーションを様々に想定した漢字の使い分けを、その漢字が当てられた日本語の意味をも考え合わせながら場合分けしていくのです。
本書を連続したページで読み始めたのは28-1を終えてからだったので、仕事もあって殆ど読み進めていなかったのですが、実際、イベントから帰ってきてからは理解度が上がって、本書を読み進めるスピードが、少し上がりました。

ところで、研究社の円満字さんの辞典三部作で、最初に読み終えたのが『部首ときあかし辞典』でしたが、『漢字ときあかし辞典』より先に、気がつくと新刊の『漢字の使い分けときあかし辞典』を継続して読むほうに取りかかってしまいました。部首の理解がある程度自分のなかでこなれた矢先だったので、『漢字の使い分けときあかし辞典』の部首から入る説明も、早く理解できているように思います。

そしてここからはちょっとマニアック(?)な読み方なのですが、円満字さんの御本(及び「漢字Q&A」その他二つのブログ、数々の雑誌記事等)を一番最初のものから遡って拝読した私としては、あちこちの文章中に散らばっている円満字さんのエピソードと、かなりの確率で関連しているのではないかと思しき例文をついつい見つけてしまいます。子どもの頃よりは深読みしない性格になった私ですが、その例文の中に微かな確率を見出しては、次の例文へ移る、ということを繰り返しています。

具体的にはたとえば、「しのぶ(忍/偲)」の項目で、
「怪しい人影が忍び寄る」「人目を忍んで逢い引きする」「ドアの向こうから、忍び泣きの声がもれてきた」と例文が並ぶ後に、さりげなく(?)
「辞書編集をしているのは世を忍ぶ仮の姿で、実は……」
と入っているので、「実は、……実は、何者なんだろう」と思わず真面目に悩みそうになるのですが、
「いや、謎のままにしておこう」と次に移ります。

あるいは、「おそれる/おそろしい(恐/畏/怖/懼/虞)」の項目で、
「恐ろしい速さで牛乳を飲む」
という例文があるのですが、これは一般的な辞典の例文としては、かなり謎の設定ではないでしょうか。人間のことなのか、いやいやおそらく(円満字さんが飼っている)猫のことではなかろうか……? 猫だとして、この猫の置かれた状況は、余程空腹だったのだろうか?? と悩むと、きりがありません。
因みに、「さく/さける(裂/割)」の項目にある「鶏のささみを手で(裂/割)く」は、明らかにご本人のブログにある記事と関連しています。

それから、パラパラ無作為に読んでいた時だったのか、どの項目で見かけたか記憶が辿れなくて再び見つけられないため、表現が正確でないのですが、
”お城を模した家を建てる”
のような例文を目にした記憶があります。円満字さんといえば、根っからのお城好き(正確には城跡好き)。そういう方ならではの発想なのかな……と、思わずお城に似た家を想像しようとするわけです。

円満字さんの『太宰治の四字熟語辞典』のまえがきだったか、ご本人が大学時代に太宰ゆかりの地を先輩と旅したが、その先輩とも今は行き来がなくて、自分がこの本を出したことを知ったらなんと思うだろう、というようなことが書いてあったような気がします。そう考えると、この『漢字の使い分けときあかし辞典』には、円満字さんと親しい(親しかった)方々が手に取れば、何らかのメッセージになっている例文が数々織り込まれているのでは……!? と、ついつい自分の癖で深読みしそうになってしまうのでした。その、本当なのかつくり話なのかの例文の境目がなんとも絶妙で、ファンとしてはかなりおもしろいのです。

さて、タイトルにある「しろねこ流」というのは、本書を拝読するときに貼ってゆく付箋の使い分けにあって、だいたい以下のように分かれています。
・漢字の使い分けと和語に関する、目から鱗の内容・説明【これが大部分】
・上でご紹介したような、円満字さんらしい(?)例文
・猫に関する(または、関すると思しき)例文
・疑問点が残る箇所【稀】
・誤植【極稀】

ここで、猫に関する例文には、猫の付箋を貼っています。その他の場合は Post-it を使用していますが、猫の付箋は100均に手頃なのがあり、それを使っています。ところが、数時間前に気づいたのですが、なんとこの付箋、貼るほう(シールになっている面)に、しっぽが描いてあるではありませんか!!



(裏面を参考までに横に並べてあります)
なんてかわいい、直接見えないところも手を抜かない、健気なデザイン!!
と思わず感動してしまったしろねこ。この辞典を拝読していなかったら、この付箋を買うこともなく、その魅力にも気が付かなかったかもしれません!

そういうわけで、あと何十日このような想像の漂流が続くか分かりませんが、仕事とほかの勉強の合間に、漢字学習を本筋として地道に読み進めていきたいと思います。

今年の4月から、本当に思いがけず中学校1年生の学年主任、兼担任(兼総務主任)を任され、細かくはいろいろあったものの、どうにかこうにか無事に4か月が過ぎました。なんとか担当スタッフや生徒たちとのコミュニケーションのバランスもとれてきたので、常用漢字も非常用漢字も関心をもって聞いてくる彼らに、しっかり分かりやすく説明できるように、円満字さんの御本もそうでない御本も、引き続き頑張って勉強していきます。
では、明日も授業なので寝ます。