“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

趣味か仕事か?

2015-08-11 13:32:52 | 日記
先日、「冊」の字を書こうとしていたのに、気がついたら指先にある文字が「皿」となっていて、一瞬石化したしろねこです。
「烏焉魯魚」とか「魯魚亥豕」とか、確かに似てはいるけれど、現代の中国の人にとって、まして日本人にとっては、どれだけリアルな話なんだろう?と思っていましたが、
先のような現象を己の身体において目の当たりにすると、「あ、ありかも……」とつい納得してしまうのでした。
だんだん私にも増えていくんだろうか、こういうことが。


ともあれ、夏のお休みに入って、少しほっとしています。職場自体は自習教室として開いているので、ちょこちょこ残務処理と次の準備で行きはするものの、暫し自分の世界に浸り込むゆとりがあるのが嬉しいです。


少し前、27-1の結果が返ってきましたが、今回は自己採点結果と一致していたのですっきりしました。
概要のみですが、以下の通りです。

■27-1正式な結果■
音読み17点
訓読み7点
書き取り28点
国字10点
語選択書き取り8点
四字熟語書き取り16点
四字熟語意味選択10点
当て字・熟字訓9点
二字熟語・一字訓読み10点
対義語・類義語12点
諺14点
文章題書き取り14点
文章題読み8点

合計点163点

というわけで、ほんとうに長期記憶だけでどうにかなったという結果でした。
(二)書き取りで「ムラキ」の「斑」が出てこなかったり、
(四)語選択で「刪定」なのに「推敲」と早合点してしまったり、
(五)「三釁三浴」の「釁」を思い出せなくて「爨」がもやもや脳内をうろついたり、
(九)「横道」が試験終了後に浮かんできたり、
…………
相変わらずでしたが、今回は偶々救われました。
「没分暁漢」は、中国語で「没」が「not」のような意味だと知っていると、覚えるのが楽でしたし面白いよなあと思っている言葉のひとつでしたので、出題されてちょっと心が踊りました。
次回、また行けるところまで行くのみです。


さて、これまでもずっとぼんやり感じていたことなのですが、
いったい私の漢検1級受検や言葉の勉強は、趣味か仕事か?
ということについて、少しお話ししたいと思います。

これを考えるには勿論、「仕事」や「趣味」や「遊び」が、その人にとってどのような位置づけなのかということも、深く関わってくるのでしょう。
たとえば、趣味を「仕事や現実から逃げるためのもの」と考えるのか、「実益を兼ねるべきもの」「仕事以上に自己実現の手段となるもの」ととるのかで、仕事や遊びに対する捉え方も大きく違ってきます。

しかしとりあえず、私が漢字の勉強をしていてひとつ気がついていることは、
根を詰めた後の現象の、他との違いです。

何故だか漢字や言葉のことはいくら追い込んでやり続けても、
寝る前目を瞑っても、まったく残像として瞼に浮かんでもこないし、
夢にも出てこないし、
嫌気がさすこともない(もう暫く見たくないとか、満腹感を抱くことがない)のです。
検定前は確かに記憶の蓄積が意識的に行われるので、多少蜘蛛の糸のような網の目や、語彙の集積した重さのようなものは意識のうちに感じはするのですが、それらの感覚に受検後までしつこく囚われるということはありません。漢字との関係はいつも自由な印象があります。

反面、私の明らかな趣味である絵画や映像や手芸に関しては、
根を詰めただけ、寝る前に図案や素材などが残像としてありありと瞼に浮かんでもくるし、
仕事も兼ねて描きまくった後は(しろねこは講座を持っているほか、行事によっては毎年大きな絵を生徒と描く機会があるのです)、ふと空を見上げると目の前の色彩が全部絵の具に見えて、覚えずどんよりした気持ちになるし、
展覧会や何かを根を詰めて見続けた後は、満腹感が甚だしかったりしてひどく疲れます。
身体や意識に徹底的に刻み込んだなあ、という、ある種のしつこさがあるのです。

いったい、この違いは何なのか。

さらに、大学受験のときを回想してみると、
たとえば二次試験のために微積の記述演習をずっとしていたときは、その数多(あまた)の数式が、寝る前瞼にぼんやりと浮かんできて、ああ、今日も自分はがんばったなあ、とやり切った感を抱いて眠りについたものでした。
英単語の読み込みや英語の長文読解を集中して解いたときも同様の感触があり、
やはり、こういう義務的な受験勉強においても、
身体や意識に徹底的に刻み込んだなあ、という、ある種のしつこさがあるのです。

でも、漢検の一連の勉強や言葉の勉強では、考えてみるとほぼそういうことがない。自分がたとえば朝起き抜けでも、あるとき突然切り取ったように漢字の世界に滑り込んで、記憶に留めながらも、執着しきらずにまたそこからスッと抜け出すことができます。

受験勉強のような義務でもなく、絵画や手芸のような趣味でもない。謂わば、番外でそっと寄り添っているような感覚が、漢字に対してはあるのです。
逆に、どっぷり近づこうと試みたとしても、なかなかそうはさせてくれない部分をも、漢字は持ち合わせているのかもしれません。

単純に、漢字の学習が仕事か趣味かということなら、私の場合、確実に仕事を兼ねていると言えるでしょう。
高校に再び配属されると、現代文の抽象度が増えて難読語を目にする頻度が増えたり、以前より古文漢文を大量に読む日々が戻ってきて、漢検学習で目にした古典に纏わる漢字がたくさん出てきたりして、自分の勉強が自分の仕事にも十分縁が深いことが分かります。
それに、何度か書いてきたことですが、多分いまの仕事がなければ、漢検にもここまで張り合いを感じることになったかどうかは分からないです。
とはいえ、うちの職場の大多数の人は、私の勉強は私の趣味だと思っているし、私自身も概ねそういうことにしています。その方が、たとえば自慢話に取り違えられずに済むし、いろいろな場面で話が簡単だからです。

そこではじめのお話ですが、
そもそも自分が「趣味」というものをどう捉えるかというときに、
少なくとも漢字に関しては、私にとって、趣味は趣味でも仕事から逃れるための趣味、というわけではないようです。
様々な現実を受け入れる鏡のような役目を漢字がしてくれていて、それを一つひとつ水面に自分の姿を映すように覗いていくというのを、果たして「趣味」と言えるのかどうか――私が漢字を番外だと感じる理由は、その辺にあるのかも、とちょっと感じました。

結論として、私の漢字学習が仕事か趣味か白黒つけることを、今ここではしないのですけれども、自分が何故漢字に関わり続けようとするのか、改めて悩むつもりの今年も早7ヶ月が過ぎてしまいましたので、
ふとここにこのようなとりとめのないことを書き置いた次第でした。