goo blog サービス終了のお知らせ 

宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

「スターリン秘史―第28章 1950年(上)」”日本共産党批判をスターリンが執筆した”

2015年05月07日 | 綱領関連

 2015年4月執行のいっせい地方選挙が終了しました。 3月13日以来、約2か月ぶりのブログとなりました。 日本共産党はすでにご存知のように県議選では、6名の議席を獲得することができました。大和市区のくぼ 純さんは議席獲得にはいたりませんでしたが、10622票獲得し、4年後の議席獲得にむけて大きな足場をつくっていただきました。また、後半戦の大和市議選では1議席増の4議席獲得、全員2千票以上、合計8700票を獲得し、7人を擁立した自民党を上回る得票増、得票率を果たすことができました。 支持者、有権者のみなさんに心から感謝申し上げます。新市会議員団は公約実現に向けて決意を新たにしています。 引き続き、みなさんのご支援をお願いします。

 不破さんの「スターリン秘史ー巨悪の成立と展開」は28章に進み、「1950年(上)」が始まりました。 日本共産党にとって、また、戦後の日本の政治史の上で、「1950年問題」はまだ未解明の部分があると言われてきました。 この大問題がどのような事実によって解明されるのでしょうか。

 「第28章」は、1949年12月6日北京を出発し、50年2月17日までに及んだ毛沢東の訪ソとスターリンとの会談内容がドキュメンタリー映画をみるような緊張感をもって紹介されています。 この毛沢東とスターリンとの初めての出会いと会談結果が、どのように日本共産党に及んでくるのでしょうか。

 「50年1月初めに、中国との同盟関係締結の交渉を軌道に乗せたスターリンは、いよいよ、アジア『第2戦線』構築にむけた布石の作業に手をつけはじめました。1月7日、日本向けモスクワ放送は、コミンフォルム機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』1月6日付に掲載された論評『日本の情勢について』を繰り返し放送しました」(「前衛」誌5月号209頁)

 このことに関しての、不破さんの回想が紹介されています。

  不破さんは、「論評が発表された当時は、渦中にある立場で、なかなか深読みすることができませんでしたが、いま読んでみると、スターリンがこの論評に込めた狙いのいくつかがあらためて浮き上がってきます」(「同誌」210頁)

 以下、不破さんのこの時点での「指摘」を紹介します。

 「結局、スターリンは、野坂理論批判に名を借りて、武装闘争不可避論を、そのなかにすべりこませていたのでした。 この批判を受けて、日本共産党中央がただちに統一した見解をもてず、一種の混乱状態に陥ったのを見て、中国共産党は、1月17日付『北京人民日報』に論説『日本人民解放の道』を発表して、論評を受け入れるよう日本共産党に呼びかけました。その論調の重要な特徴は、議会を通じての政権獲得という考えそのものを正面から否定し、武力革命以外に革命勝利の道はないという立場を、いかなる場合にもゆるがせにしてはならないマルクス・レーニン主義の根本原則として宣言したところにありました」(「同誌」211~212頁)

 「この路線転換にあたっては、日本共産党の非合法化ということは、武装闘争に入る以前の先行条件として、スターリンがすでに予定していたことでした。日本を占領している占領軍の司令官マッカーサーは、コミンフォルム論評に先んじて50年元旦の声明で強烈な反共路線を打ち出していた人物でした。彼が率いるアメリカ占領軍が、コミンフォルム論評に刺激されて、日本共産党への弾圧などの強硬手段に出れば、非合法状態への移行から武装闘争へと進む筋書もより容易に推し進めることができるようになる―スターリンなどの干渉者の側にこういう打算があったということも、決してありえないことではないように思います」(「同誌」213~214頁)

 「実際、日本共産党への弾圧は、朝鮮戦争の開始よりも早く、50年6月6日に中央委員会への公職追放令として発動され、これに呼応して、徳田・野坂分派による党機関の乗っ取りと分裂工作が展開され、非合法活動と武装闘争への道に急速に踏み込んでいったのでした」(「同誌」214頁)

 

 


「中国革命とスターリン」=スターリン秘史第27章  ”スターリンの目は日本と北朝鮮に”

2015年03月10日 | 綱領関連

 今回も最終第5節の紹介に焦点を当ててみたいと思います。 第5節の表題は、「スターリンの目は日本と北朝鮮に」です。

 「アジア・太平洋労組会議の呼びかけは、スターリンのアジア『第2戦線』構想では、大づかみな背景を描いただけの、ほんの第1歩でしかありませんでした。その構想では、中国が最大の役割を果たすことになりますが、スターリンの目は、すでに1949年段階で、構想のなかで、重要な役割を果たすであろう他の国々にも向けられはじめていました。 その視線が向いた国の一つは、アメリカの占領体制がト-ルマン・ドクトリンから一歩遅れてではあるが急速に反動化し、政治的対立が鋭くなるとともに、共産党が49年1月の総選挙で4議席から35議席へと大躍進を遂げた日本であり、もう一つは、戦争終結当時のアメリカとの協定で、ソ連の占領下に入った北朝鮮でしした」(「前衛」誌4月号226頁)

 「ここでは、南北それぞれに占領軍を後ろ盾にした政府つくられ、南北の境界線である38度線をめぐって、49年ごろには境界紛争がはげしくなっていたのです」

 不破さんは、「私たちがソ連崩壊後に入手した東京のソ連代表部関係の内部資料の一つに、49年ごろ、モスクワでは、『在日ソ連代表部職員からの情報』にもとづく日本共産党研究がおこなわれてていた、という記述がありました。 日本情勢などの日常的な報告ではなく、日本共産党研究に的を絞っての情報と研究ですから、特別の問題意識が働いていたことを推測させる記述でしたと」指摘し、次のように問題意識を進めています。

 「いま見てきた観点から見直せば、そこには、日本共産党を『第2戦線』構想に利用する準備作業というスターリンの意図が鮮明にうかがわれます。 そのころソ連代表部が提供した『情報』のなかで、私たちがとくに注目したものに、『日本共産党中央委員会政治局員・書記野坂参三について」という49年10月29日付の報告文書がありました」

 「この報告の筆者は、K・セシキン大佐と署名しています。 (ソ連大使館に勤務していたソ連の情報部門の将校)」

 「同誌」227~228頁にかけて、セシキン報告が紹介されています。 そして、として、不破さんは、次のように指摘しています。

 「要するに、野坂が現在は『待機の姿勢』をとり、書記長の徳田と意見が違っても議論を避けているが、いざという時には徳田を制御する力をもっている、という評価です。 セシキン武官は、このように、日本共産党指導部の内部事情にまでふみこんだ点検報告書ー野坂は、ソ連が日本共産党に路線転換をもとめた場合、それを正面から受けとめ、徳田をふくめて党をソ連のめざす方向に導ける指導者だという報告書を、スターリンに送ったのでした」

 そして、第27章は、1949年のスターリンと北朝鮮の金日成の動向を紹介しています。


「スラーリン秘史=第26章」 戦後70年、被爆70年に 戦後史の解明にかかわる ”新たな視点を提起”

2015年03月01日 | 綱領関連

 「スターリン秘史=第26章 コミンフォルム」の最終節は、「スターリンのヨーロッパ戦略の決算表」です。 この節は、戦後の日本、アジア、世界の歴史の展開を検証する上で重要な視点を提起するものになることを予感させられます。

 「トルーマン・ドクトリンとコミンフォルム結成で、世界大戦中の『大連合』体制に双方から公的な終止符が打たれ、スターリンのいう東西『2つの陣営』の対決が世界情勢の中心に押し出されました。 それから2年余り、1940年代から50年代への転換を迎える時点で、スターリンのヨーロッパ戦略の決算表をつくってみると、どういうことになるでしょうか」と不破さんは提起し、次のような2点を指摘しています。

 「第1に、スターリンによる東ヨーロッパ制圧作戦の強行は、アメリカ政府に、議会の承認のもとに、ヨーロッパに乗り出す上で、きわめて都合の良い情勢をつくりだしました。 ヨーロッパの資本主義世界の旗頭だったイギリスに代わって、ヨーロッパでも、アメリカ帝国主義が西側陣営の主役に公然と躍り出てきたのです。 しかも、スターリンの強硬路線は、西側陣営を、『共産主義の侵略阻止』を口実にソ連ブロックに集団的に対抗する体制、すなわち軍事同盟の結成という道に前進させました」~中略~「軍事的対抗ということになると、核兵器開発の問題をふくめて、ソ連側の劣勢はいっそう明白でした」(「前衛」誌3月号230頁)

 「第2に、東側陣営の状況ですが、スターリンが、東ヨーロッパにおけるソ連の支配体制を強化する決定的な柱として打ち出したユーゴスラヴィアのチトー政権打倒作戦は、完全な失敗に終わりました。 あらゆる手段をつくして進めたこの作戦は、東ヨーロッパの内部に、強固な国民的意思をもってソ連の侵略・干渉・強圧から自国の主権と独立を守り、社会主義への自主的な道をきりひらくためにたたかう国家、覇権主義に敵対する国家をつくりだす結果に終わったのでした」(同頁)

 不破さんは、次のように、論を進めます。

 「こういう状況のもとで、もしアメリカが、内外の反共産主義的好戦派の圧力におされて、軍事的対決の道をえらんできたらどうなるか。 いまあげた政治的力関係の決算表にくわえて、軍事力の対比がまず問題になります。 ソ連は、アメリカに追いつこうと、1945年以来、核兵器の開発に全力を注ぎ、49年9月に最初の原爆実験に成功しましたが、アメリカのような遠方の国にそれを届ける長距離の運搬手段はまだ持っていません」(同誌231頁)

 「西ヨーロッパや日本など、ソ連本国を自由に爆撃できる基地を持っているアメリカの戦略的地位と比較すれば、この分野でのソ連の劣勢は明白でした。 どんなことがあっても、東西の対立が米ソ間の世界戦争に発展することは警戒し、防止しなければなりません。 この情勢のもとで、いかなる政治・軍事戦略をもつべきか」(同頁)

 「スターリンは、次第に、世界のヨーロッパ以外の地域にアメリカ帝国主義と戦う新しい戦線を開き、ヨーロッパが東西両陣営の対決の主戦場となっている状態から早くぬけだす可能性はないかと、その探求に注意を向けるようになりました。 これは、いわば第2次大戦中の『第2戦線』にあたるものですが、ただし、この戦線が、米・ソ対決の戦場となったのでは、同じ悩みが引き継がれますから、この『第2戦線』はソ連の軍事的参加なしという条件で開くことが、必須の要件となります。 こういう立場から、スターリンは、1949年以降、アジアでの新たな戦略的探究を試みることになりました」(同231頁)

 


スターリン秘史ー「第25章ー東ヨーロッパの制圧」 ”ディミトロフもスターリンの指示のもとに”

2015年02月08日 | 綱領関連

 「第25章」は、「スターリンの戦後ヨーロッパ構想」から始まっています。 

 まず、次の不破さんの指摘を紹介します。

 「結局、反体制派絶滅の起点となったぺトコフ裁判なるものは、1946年の『静粛』活動のなかで、モスクワから持ち込まれ、軍隊からのべェルチェフ派追放の根拠とした『軍事連合』事件のシナリオを、今度はぺトコフら農民連盟(反政府派)と強引に結びつけた、NKVD仕込みの”デッチ上げ裁判”でした。 いま見てきたディミトロフのモスクワ発の一連の発言は、そのことのあからさまな実証だといってよいでしょう」(「前衛」誌2月号頁220)

 「こういう虚構の『反体制派犯罪』にもとづいて、ディミトロフは、スターリンの指示のもとに反体制派絶滅作戦を強行し、44年9月9日の祖国戦線による権力掌握からわずか3年の短期間で、事実上の共産党1党専制の政治体制への大転換をなしとげたのでした」(同前)

 そして、不破さんは、「他の東ヨーロッパ諸国で」のスターリンの「統一的な戦略」を「注書き」しています。

 「1947年は、東ヨーロッパの多くの国ぐにで、戦後成立した多党連合政府から共産党1党支配の体制への転換の年となりました。 そのさい、他の党による『国家的犯罪』とその告発が、反政府党や有力な非共産政党の消滅へのもっとも強力な手段となったのは、ブルガリアと同様でした。 そこ現れ方には国によって多少の違いがありましたが、手法の本質は共通しており、この時期の各国の政変の背景に、東ヨーロッパ全域の急速な制圧を狙うスターリンの統一的な戦略があったことは、明瞭でした」(同前)

 続けて、不破さんは、「ルーマニア」「ハンガリー」「チュコスロヴァキア」の例を紹介しています。(同220~221頁)

 「戦後ヨーロッパの政治体制についてスターリンが構想していたのは、ソ連と米英軍の占領地域におおよそ対応する形で、ヨーロッパ全域をそれぞれの『勢力圏』に分割することでした。 各国の戦後の政治体制は、開放j後に『自由な選挙』を通じて民主主義的に決定するとうことは、建前としてヤルタ協定でも確認されたことでしたが、(第19章参照)、この点で多少の意見の違いが生まれても、ポーランド問題の交渉経過などにすでにあらわれたように、3大国首脳の話し合いや暗黙の了解で解決できるはずでした」(同184頁)

 しかし、この「構想の前提」が大きく狂ってきたのです」として、不破さんは、次の2点を指摘しています。

 「第1に、米英ソの『大連合』は、なによりも、ヒトラー・ドイツ打倒の戦争で、ソ連の軍事力が決定的な役割を果たしている、とう事実を、なによりの基盤にしていました。 アメリカにとってもイギリスにとってもヒトラーに勝利するためには、ソ連との『大連合』は絶対に壊すことのできない絶対的な条件だったのです」

 

 「第2に、この『大連合』は、スターリン、ルーズヴェルトとチャーチルという3首脳の個人的な信頼関係によっても、強く支えられていました。 この3者は、その根本的な立場に大きな違いがあることをたがいに十分承知しあいながらも、ヒトラーとの戦争のもっとも苦しい時期を共同して切り抜け、互いに援助しあい、戦争にともなう複雑な政治問題を解決してきた仲でした」(同186頁)

 しかし、こうした前提が、「45年4月にルーズヴェルトが急死、続いて7月、ポツダム会談中にイギリス総選挙でチャーチルが敗北して、米英の首脳がトルーマン、アトリーに代わったことで、3国首脳間の”戦友”的関係にも終止符がうたれました。 戦時中の『大連合』が3つの大国の利害が裸でぶつかり合うむき出しの国家関係に変わってゆく条件が、人物構成の面からも準備されることになったのです」(同186~187頁)

 「国際的条件のこの変化のもとでも、スターリンは、ソ連軍が占領した東ヨーロッパ諸国の全域にわたって、既定方針通り、この地域をソ連の『勢力圏』に組み込む”制圧作戦”を展開」(同187頁)したのでした。

 


「スターリン秘史」第1巻(統一戦線・大テロル)-”スターリン個人専制の政治体制が目的”

2015年01月17日 | 綱領関連

 昨年11月に開催された「第41回赤旗まつり」で、「スターリン秘史」第1巻を購入しました。 13日付「しんぶん赤旗」に、不破さんと神戸女学院大学石川康弘教授、党社研山口富男副所長の鼎談が掲載されました。

 鼎談の最後の部分を紹介します。(一部除く)

 「山口 不破さんは、スターリンは何を目的に『大テロル』をおこなったのかという問いに対し、『大テロル』以前と以後で何が変わったかを見れば、答えが出てくると述べています。 そうすると、スターリンが専制的な独裁体制を確立したことがズバッと出てくる。 単なる反対派の排除ではなく、スターリンの決定に無条件に服従する政治体制をつくることに目的があった、と」

 「石川 スターリンは、国内では政敵をすべて排除し、コミンテルンを上意下達の機関に変質させながら、それでも自分の行為を社会主義・共産主義の言葉で飾りつづけます。 スターリンはなぜ、世界の共産主義運動の指導者たりえたのでしょうか。 スターリンを疑うことのできない空気は、どのようにつくられたのでしょう」

 「不破 個人の専制支配を可能にするには、個人崇拝、スターリン絶対信仰がないとダメです。 それで、スターリンは『世代の断絶』を強行したのです。 レーニン時代は、ソ連共産党内でもコミンテルンでも、自由な討論が行われました。 だから、レーニンとその時代を知っている人がいると困るのです。 政策転換が求められるとき、批判勢力になる可能性があるからです。 『大テロルが終結した翌年39年のソ連共産党大会の代議員名簿を調べると、代議員1570人のうち、10月革命以前に入党した人は34人しかいません。 たった2%です。 革命前の入党者は、ほとんど絶滅してしまったのです」

 「『公開裁判もすごい役割を果たしました。 外国の共産党が真相をつかめないなか、かつての指導者が、死刑になると分かっていながら裁判で誤りを認めたわけで、裁判の公正さを装うものになりました」

 「反ファシズム人民戦線運動も、ある意味で、『大テロル』を覆い隠す役割を果たしました。 独ソ不可侵条約が結ばれる直前、人民戦線を支持する米国の知識人の間でソ連の人気がものすごく上がりました。 『大テロル』と『公開裁判』を目の前にしながら400人がソ連支持の声明を出した。 スターリンは、反ファッショ人民戦線運動の威光も利用して指導性を保ったのです」

 「もう一つは、38年に『ソ連共産党小史』を出したことです。 コミンテルンの決定もなしに、イタリア、フランスなど主要共産党指導部の連名で、革命の武器として勉強せよという声明を出しました。 指導性を確保するため、あらゆる手段を使っていたのです」

 「山口 今年は、前後70周年ということであらためて歴史が振り変えられるでしょう。 世界の平和・民主主義の秩序がどうつくられたのか知る上でも今度の研究から学ぶものは大きいと思います」

 「不破 予告編ですが、これまで私たちは、日本共産党の『50年問題』の経緯を解明してきましたが、スターリンが、資本主義国の中で日本にだけ武装闘争を要求した理由が謎でした。 今度の研究では、その答えを探求することも一つの課題となりました」

  

 

 

 


「シベリア抑留 新資料」=「読売」紙が報道。 スターリンの巨悪を裏付ける新たな資料になるか

2015年01月06日 | 綱領関連

 4日付「読売」紙が一面で、「シベリア抑留 新資料」の見出しで「シベリア抑留」問題を大きく報道しました。

 同紙は、「今回の資料は、ソ連閣僚会議(政府)の『送還業務全権代表部』が作成した700冊のファイル。 同公文書館が機密文書として保管していたが、2012年に機密指定が解除された。 富田武・成蹊大名誉教授らが13年以降、一部を閲覧して著書などに引用する一方、日本政府も同年に資料の存在を知り、ロシア側に調査への協力を要請。 14年12月に両政府が協議し、15年4月の調査開始で基本合意した。 15年中に日本人に関する情報を抜き出してDVDに保存し、16年から本格的な調査に入る」

 「同公文書館は14年12月、日本政府の調査に先立ちロシア語の資料の一部を本紙に公開した」(中略)

 「抑留が長期に及んだ背景には、日本兵らを徹底的な思想教育で『洗脳』し、共産主義者に仕立て上げる目的もあったとされ、演芸会などの余暇を撮影した写真には、『日本共産党の旗の下に』などのスローガンも写っていた」として、「収容所での演芸会」の写真も掲載されています。

 同紙7面では、「抑留者たちは、日本に帰国するために、ソ連政府への感謝や共産主義への評価などを記すよう強要された。 本紙が確認した資料にも、『赤軍司令部が私たちに親切に接してくれ、食事や衣類、住居について配慮してくれことに感謝を表明する』(京都市出身の上等兵)、『1年半にわたる政治学習で、私のソ連に対する考えは間違っていたことに気付いた』(東京・渋谷区出身の少尉)などの回想が含まれていた」

 不破さんの「スターリン秘史ー巨悪の成立と展開」(第24章)「前衛15年1月号」では、1945年8月24日付のスターリンの命令書が紹介されています。

 「1、極東およびシベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本人ーー日本軍軍事捕虜を、約500000人選抜すること。 2、軍事捕虜をソ連邦に移送する前に、1000人ずつからなる建設大隊を組織すること。・・・ 3、それぞれの輸送編隊に、すべての軍事捕虜の人数分で2カ月分の食糧を配分すること。・・・

 4、軍事捕虜収容所の保障のために必要な、すべての戦利品を、計算し確保すること。・・・ 5、輸送編隊は、軍事捕虜からなる建設部隊を形成し、ソ連邦内務人民委員部が指示した場所へ、鉄道、水路によって移動する・・・」

 このスターリンの命令書について 不破さんは、ポツダム宣言の次の項目を挙げ、厳しく批判しています。

 「九 日本国軍隊は完全に武装解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめられるべし」(同誌)

 今回の「読売」の報道で特に注目されることは、先に紹介した、ソ連側の「洗脳教育」の事例です。 これは、スターリンが早くから戦争終了後の日本共産党対策を練っていたことの新たな証明でもあるように思います。

 戦後の日本共産党の最大の困難は、いわゆる「50年問題」でした。 日本共産党の分裂のキッカケとなったのは、スターリンの干渉でした。 また、その手先となった中心人物は野坂参三でした。

 スターリンのいいなりになる日本共産党づくりが、様々な手段、方法で大規模に計画されていたことを伺わせます。

 シベリア抑留の残酷な強制労働の実態や犠牲者の解明と同時に抑留者を何のために、どのような目的で「洗脳教育」をしたのか、その解明も求められているように思います。

 


「対日戦の終結」スターリン秘史第24章、”関東軍将兵のシベリア抑留の謎”の解明

2014年12月22日 | 綱領関連

 「スターリン秘史」は第24章になりました。 不破さんの連載予告では、「前衛」誌で2年間ぐらいかかるだろうという事でしたが、丸2年となりました。 しかし、連載は終了する気配がありません。 どんな「秘史」が解明がされるのか、期待が高まるばかりです。

 第24章では、「ポツダム会談」中でのアメリカの原爆の完成という大きな情勢の変化なども取り上げられています。 

 この章の最後に取り上げられている、「満州でなにが起こったか」について紹介したいと思います。

 「8月8日、ソ連軍が攻め込んだ満州では、何がおこったでしょうか。 ここでは、三つの異常な大惨害が日本の軍隊と居住の日本人を襲いました。 第一の惨害は、ソ連軍が、各地で起こした略奪・強姦・殺戮の惨劇でした。 ソ連軍は、東ヨーロッパやドイツにおけると同様、社会主義の軍隊であるどころか、人間性を欠いた無法で野蛮な武装部隊ーー少なくともその部隊を有力な部分として含む軍隊であることを、満州でも実証しました」

 「第二の惨害は、関東軍の数十万の将兵がポツダム宣言の条項を無視して、シベリアに抑留され、長期にわたって強制労働で使役されたこと」

 「第三の惨害は、当時、満州にいた百数十万の一般日本人が、満州に遺棄されたこと、です」と不破さんは指摘しています。 その上で、第二、第三の惨害について解明しています。

 第二の惨害の部分を紹介します。

 「関東軍の将兵のシベリア抑留の経過については、事情を知るもののあいだで、以前から大きな謎とされてきた問題がありました」(「前衛」誌1月号220~221頁略)と記述したあと、「この謎を解くカギは、その間の関東軍首脳部とソ連極東軍との交渉にありました」として、全国捕虜抑留者協会の会長を務めた斎藤六郎氏が入手したソ連崩壊後の1993年、「ソ連国防省のアルヒーフから、関東軍がソ連側に提出した諸文書」、「その後、日本側で明らかになった資料」も含めて、敗戦前後に満州を舞台におこなわれた関東軍とソ連極東軍の交渉の経過が再現されています。(同誌222~225頁)

 不破さんは、こうした資料による検証によって、明らかになった事実を踏まえ、次のように指摘しています。

 「シベリア抑留の元凶がソ連でありスターリンであることは言うまでもありませんが、大本営と関東軍が最初からすすんでこれに協力し、シベリア抑留の推進者となったこと、その意味では、シベリア抑留はソ連と日本の戦争指導部が”合作”で引き起こした悲劇であったことも、疑問の余地がない歴史の事実です。 ここにも、日本国民にたいする日本の戦争指導部の、見逃すことのできない犯罪的役割があることを、あらためて強調しなければなりません」

 「三つの異常な大惨害」の影響は、今日も日本人の私たちの記憶に生々しく引き継がれています。 そして、「社会主義・共産主義」への不の元凶の一つともなっています。 その克服のための活動は、総選挙での躍進後さらにい重要性を増してきているように思います。

 

 

 


「スターリン秘史ー23章」「亡命幹部たちの”知的衰弱”」とは

2014年12月17日 | 綱領関連

 第23章は、「コミンテルン解散の虚実」には、「フランスの抵抗闘争」「ギリシアの解放を襲った悲劇」「軌道をはずれたアメリカ共産党」など新しい歴史に出会うことが出来たように思います。

 この章の中で、特に注目させられたのは、「ドイツ問題ー亡命幹部たちの”知的衰弱”」の項です。 この項は不破さん独自の分析的評価です。 以下、紹介します。

 「スターリンがトリアッチやトレーズにあたえた路線転換は、それぞれ成功をおさめて、イタリアでも、フランスでも、共産党が戦後政治で有力な地位を得ることに貢献しました。 スターリンが求めた路線転換に共通していいるのは、反ファシズム闘争の成果を強引に社会変革に結びつけることに固執せず、資本主義的政治体制のもとで共産党がしかるべき政治的地位を獲得するという限定的な目標を、わりきって追求した点にありました」

 「イタリア問題で、トリアッチに、国王の即時退位要求の撤回、バドリオ政権への参加を指示したのも、フランス問題で、トレーズに、ドゴール政権の成立という新事態に適応してレジスタンス部隊の解散要求に応じるよう指示したのも、そこから引き出された指示であって、それがそれぞれの国の政治の現実的要請にあっていたことは、その後の経過が証明したところでした」

 「問題は、この路線転換が、どちらの場合にも、すべてスターリンの直接の指示で、いわば”一夜漬け”でおこなわれたことです。 スターリンが指示するまでは、トリアッチもトレーズも、その相談にあずかっていたディミトロフも、その国の現地の党組織と緊密な連絡をとりながら、まったく反対の、現実性を欠いた政策を立案していたのです」

 「ディミトロフはもちろん、トリアッチもトレーズも、1935年のコミンテルン第7回大会の時期には、人民戦線政策の確立とその実践で、それぞれなりに指導的役割を果たした幹部たちでした。 その人々が、なぜ情勢の要求にこたえる政策的立場を生み出す力をここまで失ってしまったのか? 私は、そこに、モスクワでの長い亡命生活、とくに『大テロル』以後の、方針の最終的決定者はスターリンだけという専決体制下での生活と活動の中で、これらの幹部たちの”知的水準の衰弱”が現れていること、そして、そのことが、スターリン専決の体制の一つの基盤ともなってきたことを、強く感じるものです」

 不破さんは、「亡命幹部たちの”衰弱”ぶりを示す典型的な実例として、『ディミトロフ日記』から一つのエピソードを紹介しておきたいと思います」として、「ディミトロフの日記」の「1945年6月7日」、同「6月8日」分を紹介しています。(前衛12月号218~219頁)

 この項で、不破さんは、「これは、すべての政治的判断をスターリンに任せきってきた旧コミンテルン幹部たちが、どんな政治的、知的実態におちいっていたかを、もっともあからさまな形で示したものではないでしょうか」と指摘しています。 

 今日の日本の激動的情勢の発展のなかの党の対応についても、教訓となるような指摘ではないか、と感じています。


自主独立のユーゴスラヴィア国家はスターリンの陰謀乗り越え実現=「スターリン秘史」第21章

2014年09月23日 | 綱領関連

 不破さんは、「ユーゴスラヴィア解放戦争」の過程でのスターリンの覇権主義について、「戦慄を禁じることができません」と怒りを込めて告発しています。(「前衛」誌10月号225頁) その内容は次の通りです。

 「ユーゴスラヴィアの解放政権の打倒というスターリンのこの目標は、1944年2月に到着したソ連の軍事使節団の行動にも現れました。 この使節団は、軍事的協力という任務のほか、ユーゴスラヴィアの解放勢力の内部にスパイ・協力者を組織するというNKVD的任務をもっていたのです」

 「ソ連の最初の軍事使節団が来たとき、その士官のある人々はソ連の諜報機関に勤務させるためにユーゴの市民を使いはじめた。 ソ連の使節団は、彼らのほしい一切の情報をわれわれの全国委員会から手に入れられることができたのに、それでは満足せずに、われわれの党や国家機構の中に彼ら自身の手下をつくっておき、好機到来の節に役立たせようとしたのである」 

 「彼らは、ユーゴの当局者にかくれてユーゴの市民を雇い、その1人1人に対しそのことについて沈黙を守るようにと言いつけた。 戦時中および戦争直後、こういう誘惑の手がのばされたのはかなりの数にのぼっている。 ソ連の士官たちは色々の手を使った。 ソ連にたいする信頼の念につけ込んで誘惑したものもあった。 金をやり、良い地位を約束して従わせるものもあった。 また、手伝わないと困ることになるぞ、といって脅迫したこともある。 彼らは、個人の生活のなかで知られては困ることを、あるいは隣近所の人々にかくしておくことを、いつも見つけ出しては、彼らの諜報機関に協力しないならばバクロするぞといっておどかした。 こういうやり方は、あらゆる方面でおこなわれた。 中央委員会の委員からはじまって、党や国家機構の暗号係にまで及ぶという有様であった」(デディエ、231ページ)

 不破さんは、こうした記録を踏まえて、

 「これは、ソ連が戦後の世界でも常套手段としたことですが、生死をかけた戦闘がたたかわれているパルチザン部隊の本拠に到着した使節団が、そのただなかで、解放勢力の打倒の準備のためにスパイ・諜報網の組織に取り掛かったという事実には、スターリンの覇権主義の諸機構のあまりもの醜悪さに戦慄を禁じることができません」(「同誌」225頁)と書いています。

 そして、新政権確立の過程が書かれています。

 「ユーゴスラヴィア完全開放の後、臨時国民議会が開かれ、憲法制定議会選挙に必要な法令が決定されました。 憲法制定議会は、連邦議会と民族会議の二院から構成され、その選挙が11月11日におこなわれました。 その結果は、人民戦線の候補者名簿は、連邦議会では、投票総数の90.5%、民族会議では88.7%の得票を得、解放勢力は圧倒的勝利を得ました。 憲法制定議会は、この結果をふまえて、11月29日、『ユーゴスラヴィア連邦人民共和国宣言』を発表しました。」(同誌228頁)

 私は、不破さんの次の指摘に、日本共産党の綱領路線とも重なる意味で注目させられました。

 「ヤイツェ会談で決めた通り、君主制か共和制かという国の体制の問題は、ユーゴスラヴィア人民の意思によって決定され、人民主権、自主独立の新しい国家が出発したのでした。 また、二つの大国の圧力によって、複雑な経過をたどったとはいえ、新国家が、旧王制国家から法制的連続性を保ちながら成立したということは、特別の意味を持ちました」

 そして、

 「あらゆる艱苦に耐えて祖国の自由と独立のための英雄的闘争を続けたユーゴスラヴィア人民の勝利であると同時に、外部からのいかなる圧力にも屈しないで自主独立の立場を貫きとおしたチトーを先頭としたユーゴスラヴィア共産党の大きな政治的勝利でした。このことが、ユーゴスラヴィアの側でどれだけ理解されていたかは、それを推し量る確かな資料はありません。 しかし、誰よりも強く、そのことを痛感していたのは、スターリンでした」(「同誌」229頁)

 「しかし、ユーゴスラヴィアの側では、さまざまな疎外感は節々でもちながらも、スターリンの覇権主義の実態についても、スターリンの敵意の深刻さについても、彼がこの国家の転覆を最終目標にしていることについても、ほとんど気づかいないまま、戦後を迎えることになりました」(「同誌」231頁)

 

 

 

 

 


「アジア政党国際会議」”平和協力のアジア共同体””核兵器禁止条約の交渉開始をよびかけ”

2014年09月22日 | 綱領関連

 日本共産党の代表団(団長・志位和夫委員長)も参加した第8回アジア政党国際会議(スリランカ・コロンボ)は20日閉幕しました。 日本のマスコミではほとんど報道されないこの国際会議は2000年に初回総会を開き、日本共産党は第2回総会(バンコク)以降代表を派遣しています。

 今回の総会には、アジア29カ国から75政党(与野党含む)、オブザーバーとしてラテンアメリカ・カリブ海政党会議、アフリカ政党評議会、国連など11の多国間・国際組織が参加しました。(「しんぶん赤旗」22日付)

 総会では、「コロンボ宣言」が全会一致で採択されました。

 「コロンボ宣言」について同紙は、次のように報じています。

 「『地域的安全保障と政治的安定性に向けた相互信頼の強化』の章で、『ASEAN加盟国による友好協力条約(TAC)にような地域的な協力と統合の枠組み』がアジアの各地域に生まれていること、そうした枠組みが北東アジアなど、『地域の他の部分でも形成され』、『これらが、最終的にはすべてを包摂する汎アジアレベルに適用されるというわれわれの希望を表明した」

 また、「核兵器の問題では同じ章で、『われわれは、2010年の核不拡散条約(NPT)再検討会議で核兵器国によって合意された核兵器の廃絶という明白な約束を実施する必要を再び強調し、潘基文国連事務総長が提案しているように、核兵器禁止条約についての速やかな交渉開始をよびかけた」

 日本共産党の志位和夫委員長は19日、同総会で次のように発言しました。(「核兵器禁止条約」部分は略)

 【アジアの共同体の構築=今総会のメーンテーマ】に関して

 「とりわけ私たちが大きな注目を寄せているのは、東南アジアの国ぐにの取り組みです。 ASEAN(東南アジア諸国連合)は、武力行使の放棄と紛争の平和解決などを掲げた東南アジア友好協力条約(TAC)、ASEAN地域フォーラム(ARF)、東アジアサミット(EAS)、南シナ海行動宣言(DOC)など、重層的な平和と安全保障の枠組みをつくりあげ、それを域外に広げています」 

 「それは、軍事ブロックのような外部に仮想的を設けず、地域のすべての国を迎え入れるとともに、アジアと世界に開かれた、平和の地域共同体となっています。 徹底した対話と信頼醸成によって、『紛争を戦争にしない』-紛争の平和解決を実践しています。 政治・社会体制の違い、経済の発展段階の違い、文明の違いを、互いに尊重しあい、『多様性のもとで共同の発展をはかる』という考え方にたっています。 私は、ASEANの取り組みは、私たちが学ぶべき豊かな教訓を含む、未来あるものであると考えるものです」

 「この点で私たちのすむ北東アジアには、さまざまな紛争と緊張の火種が存在しています。 いかにしてこの地域に平和的環境を構築していくか。 それは、北東アジアの国ぐににとって大きな課題であるということにとどまらず、アジア全体の平和と安定にとっても重要な課題となっているといえるでしょう」

 志位委員長は、今年1月の第26回党大会で提唱した「北東アジア平和協力構想」説明し、次のように述べました。

 「提案されている『コロンボ宣言』案は次のようにのべています。 『われわれは、ASEAN加盟国による友好協力条約(TAC)のような地域的な協力と統合の枠組み、南アジア地域協力連合(SAARC)、上海協力機構(SCO)の加盟諸国による、より緊密な一体化が、われわれの地域の他の部分でも形成され、これらが、最終的にはすべてを包摂する汎アジアレベルに適用されるという我々の希望を表明した』」

 「私は、この提起を心から歓迎します。 アジア大陸の各地域で、それぞれの実情に応じて、地域の平和協力の枠組みを構築・発展させ、やがてはそれを合流させて、平和、友好、協力、繁栄の『アジア共同体』をめざそうではありませんか」

 安倍政権の戦前の日本の戦争を美化し、日本を戦争する国につくりかえ、「アジアを再び戦争の惨禍に引きずり込む道」と日本共産党がアジアの諸政党と共にめざす「平和、友好、協力、繁栄の道」との対決が鮮明になってきたように思います。

 


”社会変革の闘士となる” 労働者階級が「社会変革の主体として成長する三つの必然性」の第三

2014年09月15日 | 綱領関連

 「第三は、資本主義の発展のもと、労働者階級が社会変革の闘士となる必然性です。 資本論の第7篇『資本の蓄積過程』の第23章『資本主義的蓄積の一般的法則』は、『本章では、資本の増大が労働者階級の運命におよぼす影響を取り扱う』という一文で始まっています」

 「この章について不破さんは、『完成稿で初めて執筆した章です。 マルクスはこの章全体を資本主義のもとでの労働者階級の運命の探求にあてました』と述べています」

 「資本主義的生産の発展過程のなかで、生産手段の部分(不変資本)が技術革新によっていっそう大きくなる一方、賃金に支払われる部分(可変資本)はより小さくなっていきます。 『資本の構成の高度化』とよびます。 不破さんは、ホワイトボードに『総資本』『不変資本』『可変資本』の構成の移り変わりを書き込みます。 生産力が低い時には、不変資本と可変資本に半分ずつ資本が投下されていたものが、生産手段が大きくなり生産力が高くなると、可変資本の比率が4分の1にしかならない場合が出てくると説明します」

 「そうするとどういうことが起きてくるか。 不況時には、大量に労働市場から労働者を吐き出します。 好況と恐慌を繰り返しながら資本を増大(蓄積)させる資本主義が経済環境の節目節目に労働者を吐き出すのが『資本の人口法則』になるのです」

 「マルクスは、労働市場から吐き出された労働者を、今は働いていないが資本がいつでも使える労働者として、『産業予備軍』と名付けました。 産業予備軍は、労働者階級全体にどんな影響を及ぼすのでしょうか。 産業予備軍があることによって、『あんなところに落ちたくない』と現場の労働者はきつい労働にも我慢し、過度労働になります。 そうなればなるほど、労働者は余り、産業予備軍は、景気が停滞、中位の時には現場の労働者を圧迫し、過剰生産で労働者がもっと要求される時でも産業予備軍があることで労働者の要求が抑えられます」

 「不破さんは、『いつでも安く雇える人たちが周りにいる圧力で、労働者はしばりつけられています。 これは、今ではよくわかる話です。 安倍政権は、非正規雇用という仕掛けを作って、現場の労働者のなかにも、『産業予備軍』をつくっています」と告発します。 『失業している人と半失業の非正規雇用労働者に正規雇用労働者を取り囲まさせて、痛めつけるやり方です』」

 「労働者はみずからの要求のために資本主義の枠内で大いに頑張りますが、資本主義では富が蓄積される一方、他方に貧困が蓄積され、格差の拡大がどうしても起こるとマルクスは分析しました」

 「しかし、『これは労働者の貧困化は仕方がないと、あきらめや絶望を説いた議論ではない』と不破さんは強調します。 労働者は階級闘争をやり『社会的バリケード』を獲得するが、それだけでは労働者の解放になりません。 資本主義の体制そのものを覆さなければ本当の解放ができないということを労働者は自覚させられるーこれがマルクスが強調したことだと、指摘しました」

 ついで、不破さんは、「資本主義の没落過程の定式」に話を進めています。 

 その中では、「未来社会で労働はどう変わるか」「マルクスの『人間の全面発達』」なども紹介されています。

 「理論活動教室」の「しんぶん赤旗」掲載分は、日本共産党中央委員会のホームページで読むことができますので、ご覧いただきたいと思います。


 労働者階級が社会変革の主体として成長する「三つの必然性」 不破氏の「理論活動教室」から

2014年09月14日 | 綱領関連

 9月1日付「しんぶん赤旗」で紹介された、労働者階級の歴史的使命の解明として不破さんが強調した「三つの必然性」について、11日付同紙では、9日に開かれた「第5回『理論活動教室』の講義内容で、「三つの必然性」をより詳細に紹介しています。

 「『資本論』第一部の完成稿でマルクスは、労働者を搾取され抑圧される被害者として描くだけでなく、労働者がどういう階級として成長する必然性をもっているのかを追究しました。 不破さんはそれを『三つの必然性』と名付けて解説しました」

 「第一は、階級闘争の必然性です。 『資本論』第一部第三篇の『労働日』の章で『資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない』と書いています。 実は、現代日本の会社経営者も、マルクスと同じことを述べていました。 22年前にソニーの盛田昭夫会長(当時)は、日本企業の低賃金・長時間労働や下請けたたきなどの問題を個別企業で解決しようとしても、経営危機に追い込まれてしまう、だから日本の経済・社会のシステム全体を変えていくことが必要だと発言したのです」

 「では、その『社会による強制』はどのように実現するのでしょうか。 マルクスは『資本論』で労働日を制限する10時間工場法の制定は、労働者が選挙権を持たない時代に、階級として、団結し、『半世紀にもわたる内乱』で国家を動かして勝ち取った『社会的バリケード』だと評価しました」

 「マルクスは、労働時間の短縮について、『賃金、価格および利潤』のなかで、『時間は人間の発達の場である』と指摘しました。 同時期のインターナショナルは8時間労働日を求める決定をしました。 中央評議会は『労働者階級、すなわち各国民中の多数者の健康と体力を回復するためにも、またこの労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動にたずさわる可能性を保障するためにも、ぜひとも時間短縮が必要である』と決議しました」

 「労働時間の短縮は、資本家の心配をよそに大工業の発展をもたらしました。 労働者の活力があってこそ、産業も発展することを証明しましたのです」

 「最初の『社会的バリケード』であるイギリスの工場法から160年、今ではそれがより進んだ内容の社会的ルールとして世界中に広がっていると語りました」

 「1917年のロシア革命の影響で国際労働期間(ILO)が生まれました。 1936年のフランス人民戦線運動のもとでゼネストがおこなわれ、有給休暇の権利が勝ちとられています。 第2次大戦終結後には国際連合が結成され、ILOが新しい力を持ちました。 世界人権宣言や女子差別撤廃条約なども生まれました」

 「第2は、労働者階級が新しい社会を建設する主体に成長する必然性です。 マルクスは『資本論』第4篇で、生産が、協業ーマニュファクチュアー機械制大工業へと発展する中で、労働者が生産の担い手として成長していく過程に目を向けました」

 「マルクスは協業することで労働者の集団的な力が発展することを指摘し、『全体労働者』と表現しました。 また、集団で、仕事をするためには指揮者が必要です。 マルクスはその例えにオーケストラをあげています。 指揮者はオーケストラを指揮しますが、支配者ではありません。 共同作業に指揮者は必要ですが、支配者が必要なのは階級社会だけだと解明しました」

 「マニュファチュアでは、一人ひとりの労働者は工程の一部だけをおこないます。 マルクスは『多数の部分労働者からの結成された全体労働者そのもの』と表現しました。 機械制大工業では、工場を動かしているのは、機械を運転する人や監督、手伝いで走り回る下働きも含めた『全体労働者』です。 マルクスは、その姿を『結合された全体労働者』が『支配的な主体として現れている』ものとして描写したフランスの経済学者の言葉を引用しています」

 「そして、不破さんは、マルクスが『61~63年草稿』で”機械制大工業から資本主義的所有の皮をはいだら、労働者集団が主体の生産体制が現れる”と述べたことも紹介しています」

 「同時に、機械制大工業のもとでは、労働者が多面的な能力を持った人間として鍛えられます。 『まさに未来社会で高度な生産を担う主体が資本主義社会の中で、労働者階級の中に生まれる必然性を分析しているのです』と述べました」

 第3の、「社会変革の闘士になる」は、次号とします。


「未来社会と労働者階級の歴史的役割」不破社研所長が労働者後援会で講演

2014年09月01日 | 綱領関連

 8月30日党本部で、不破哲三社会科学研究所所長が、「労働運動の活動家として、『資本論』をどう読むか」をテーマに講演したことが、9月1日付、「しんぶん赤旗」で報じられていました。 全文の「赤旗」紙や「前衛」誌での掲載を期待したいと思います。

 講演を聞いた、30代の女性の感想が紹介されています。 

 「未来社会論で、『自由の国』と『必然の国』の話が印象的でした。 日々の活動に追われてしまいがちですが、今回のような”大きな話”を聞くことができて刺激になりました」

 若い世代にとっては、「未来社会論」は大変大きな意味があると感じています。 これからの数十年をどんな展望をもって活動するのか、自分自身の活動を振り返っても実感させられます。

 不破さんは、「マルクスが資本主義社会の変革における労働者階級の歴史的使命の解明に特別の重点をおいたことに、注目する必要があると語り」、そこでは3つの『必然性』が重要と指摘しました。

 「第1は、労働者とその家族の生活と生存をまもるための階級闘争の必然性」

 「第2は、新社会建設の主体に成長する必然性」

 「第3は、社会変革の闘士になる必然性」

 です。 不破さんは、「第3の必然性」について、次のように解明しました。

 「マルクスは第7編の『資本主義的蓄積の一般的法則』の章全体をこの問題にあてました。 資本主義は、恐慌の時や技術革新の時など、労働者を市場に投げだして大量の失業者からなる『産業予備軍』をたえず生み出します。 社会全体に貧困と抑圧が広がる根源はここにあります。 その根本的は打開のためには、労働者階級は、資本主義の枠内での闘争にとどまらず、資本主義そのものの変革にすすまざるをえないのです」

 この3カ月あまり、一人の30代前半の青年と大会決定や志位さんの「綱領教室」のテープを活用しながら、学習を続けていますが、若い世代と共に学び合う喜びを感じています。

 


スターリンの予想を超えたユーゴスラヴィア解放戦争、―「スターリン秘史第20章」(2)

2014年08月27日 | 綱領関連

 不破さんは、スターリンとユーゴスラヴィア共産党の関係について、注目すべき解明を行っています。 以下、その点について紹介したいと思います。

 「自主的な革命運動に対するスターリンの恐れ、あるいは敵視です。 最初にあげた外交戦略上の問題よりも、この問題の方が、スターリンの心中では決定的な位置をしめていたかもしれません。 『大テロル』以後、コミンテルンに結集した各国共産党の運動は、スターリンの決定に無条件に従うソ連絶対の体制に染めあげらてきました。 その状況が世界大戦の勃発に際してのコミンテルンの迷走ぶりに現れたことは、すでに見てきたところです(第11章)。」 (「前衛9月号」229~230頁)

 「ドイツの対ソ攻撃の開始にあたっても、各国共産党が取るべき方針は、スターリンの指示をディミトロフが具体化し、各国共産党に指示したところでした。 それは、(1)”自国の革命の諸課題は棚上げにして反ファシズム闘争に専念せよ”、(2)”ナチス占領者との闘争では、ソ連防衛のための抵抗闘争を主とし、武装決起を急ぐな”という方針です」(同誌230頁)

 「ところが、ユーゴスラヴィアでは、これらの指示をなんら意に介することなく、独ソ開戦とほぼ同時に、反ファシズムの武装闘争が開始され、スターリンが予想した『粉砕』的な打撃をうけるどころか、たちまち全土を蜂起の波で覆って、パルチザン部隊は各地に解放区を持つ解放軍へと成長してしまいました。 しかも、その解放闘争は、亡命政府の存在を問題にせず、ファシズム侵略者の打倒だけでなく、新しいユーゴスラヴィアの建設を堂々と旗印にして、革命的な戦争を戦っているのです」(同前)

 「そこには、スターリンが、自分の支配下においたコミンテルンの中ではこれまで見たことのない共産主義者の姿ーー自国の革命に責任を負う自主性をいかんなく発揮して反ファシズム闘争を戦う共産主義者の頑強で不屈な態度がありました」(同前)

 「いったい、これはどういう集団なのか? ユーゴスラヴィア共産党は、ヨーロッパの諸党の中でもあまり目立たない存在でした」(同前)

 そのうえで、不破さんは次のように指摘しています。

 「そのユーゴスラヴィアで、これだけの解放闘争を自主的に組織する力を持った共産党が存在していたこと、そして、この運動がそのまま発展して勝利をえるようなことがあったら、どんな事態が起こるか、そのことにスターリンは恐れを抱いたのではないでしょうか。 ポーランドの国内軍のような敵対的勢力なら、軍事力で圧殺することができます」(「同誌231頁)

 「また、共産党の抵抗運動の場合でも、モスクワの指示を忠実に守り、旧体制勢力にどういう態度をとるかもモスクワに相談し、武装決起をやる場合にも、事前に指示を仰いでソ連軍の進撃と時期をあわせてことを起こすような勢力なら、解放後の体制づくりもスターリンの計画に協力させることができます」(同前)

 「しかし、悪条件のなかでもこれだけの英雄主義を自主的に発揮して、自国の解放のために戦う勢力が、もしも東ヨーロッパの重要な一角で勝利を得るようなことが起きた場合には、バルカンに勢力圏を拡大しようとするスターリンの計画にとって重大な障害となるに違いないーー予想もしなかったユーゴスラヴィア・バルカン闘争の発展という事実に直面した時、こういう不安と警戒心、もっと強い言葉でいえば敵意といってもよいものが、スターリンノ頭に浮かんだであろうことは、間違いないと思います」(同前)

 その後の「ユーゴスラヴィア解放戦争」の解明に期待したいと思います。

 


ユーゴスラヴィア解放戦争(上)「最初から国民解放戦争をめざす」-「スターリン秘史」第20章(1)

2014年08月26日 | 綱領関連

 第20章は、38頁に及び貴重な歴史的資料も加えられた読み応えのある内容です。 ユーゴスラヴィアの解放は、他のヨーロッパ諸国とは違った解放の歴史があったことは、かねてから言われていたことでした。 今回の連載で、その内容、プロセスが解明されようとしていることに大きな関心を惹きつけられます。

 「ユーゴスラヴィアは、第二次世界大戦において、自力、すなわち自国自身の解放戦争で侵略者からの国の解放をかちとった。 ヨーロッパで唯一の国です。 しかも、その解放戦争は、ドイツ軍自身が人民戦争軍を『交戦国』の一つとして扱って、この戦場を連合国と戦った他の戦場に匹敵する重要性を持つとまで意義づけ、数十万の兵力をそこに釘付けにせざるをえなかったほど、ヨーロッパ戦線で重大な地位をしめしていました」(「前衛」9月号199頁)

 不破さんは、「ユーゴスラヴィアの解放戦争がなぜ、そのような、他国に例を見ない壮大な発展と最終的な勝利をかちえたのか、その秘密を、解放戦争の経過を追いながら考えてゆきたいと思います」とこの問題の解明への意欲を語っています。

 「4月10日、すでにザグレブはドイツ軍に占領されていましたが、そのザグレブで、ユーゴスラヴィア共産党は中央委員会を開きました。 そこで、今後の国民解放闘争の基本路線を決定し、4月15日、ユーゴスラヴィア人民に呼びかける中央委員会声明を発表しました。 後にチトーは、この声明の意義について次のように述べています」(同紙202頁)

 「1941年4月15日、ユーゴスラヴィア王国の崩壊」の前に、ユーゴスラヴィア共産党中央委員会は声明を発表し、そのなかで、ファシストの侵略の結果起こった情勢を分析し、ファシスト侵略者に対する武装闘争が戦われなければならないこと、この闘争から『新しい世界』が生まれ、そこから新しい社会主義的ユーゴスラヴィアへの展望が開かれることを明らかにした」(「76年チトー演説」)(同前)

 不破さんは、このチト演説を踏まえて、2つの「特質」次のように指摘しています。

 「第一に、ユーゴスラヴィア共産党が決定した武装闘争の方針は、侵略者の支配に対する抵抗闘争にとどまるものではなく、ファシズムを打ち破ってユーゴスラヴィアの独立と自由をかちとる国民解放闘争とその勝利をめざしたものだったことです」(同202頁)

 「第二にユーゴスラヴィア共産党は、この闘争が、侵略者を駆逐して、”4月戦争”前の状態ーー旧体制を復活させるだけのものであってはならないことを、よく理解していました。 旧体制とは、多くのユーゴスラヴィア人民にとっては、専制主義と勤労大衆の抑圧、諸民族の無権利の体制でした」(同203~204)

 (つづく)