goo blog サービス終了のお知らせ 

宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

戦前の日本共産党の選挙活動ー1928年最初の総選挙で労農党から山本宣治ら2名当選

2016年04月09日 | 綱領関連

 日本共産党綱領(2004年1月17日採択)の第1章「戦前の日本社会と日本共産党」には戦前の党の選挙活動についての記述はありませんが、天皇が全権限を握る専制政治の下で非合法活動を余儀なくされた日本共産党が選挙戦を堂々とたたかったことはよく知られていることです。

 こうしたたたかいがなぜ出来たのか、改めて、多数者革命論の立場から研究され、今日の活動にも生かしたいと思っています。

 「日本共産党の80年」には、次のような記述があります。

 「28年2月、党は、普通選挙法による最初の総選挙をむかえました。 総選挙にあたり、党は、君主制の廃止、民主共和制の樹立、18歳以上の男女の普通選挙権、言論・出版・結社の自由、8時間労働制、大土地所有の没収、帝国主義戦争反対、植民地の独立などをよびかける『政綱』をまとめました」(同書33頁)

 「そして、『赤旗』やビラで党の政策をひろく訴える活動を展開しました。 また、地方政治の分野では、任命制だった知事を公選制にかえ、地方自治を保障するよう要求しました」(同前)

 「党は、この選挙で11人の党員を労働農民党(労農党)から立候補させました。 天皇制政府は、内務省、警察などを動員したはげしい選挙干渉を無産政党に集中しましたが、無産政党は、約49万票(得票率4・7%)を獲得し、8人の議員を当選させました」(同前)

 「労農党は19万票と無産政党では最大の得票をえて、山本宣治(京都2区)ら2名を議会におくりました。 政友会は217議席、民政党(27年6月憲政会と政友会が合同)が216議席と両党で衆議院の90%をこえる圧倒的多数をしまました」(同前)

 また、同書には、「天皇制政府は、29年3月5日、前年に緊急勅令で死刑法に改悪した治安維持法の事後承認を衆議院で強行し、これに反対してたたかった旧労農党の山本良宣治は、その夜、右翼テロリストによって刺殺されました。 党は、山本の活動をたたえ、日本共産党員の資格をおくりました」(36頁)と記述されています。

 なを、この総選挙の有権者は、25歳以上の全ての男子でした。

 党綱領の冒頭部分には、党創立の背景が簡単に適格に記載されています。

 「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなか、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする正当として、創立された」

 この記述に関わって、私が注目させられたのは、不破氏の著書「日本共産党史を語る」(上)の次ぎの部分です。

 〔比較的健全だった時期〕(同書92~93頁)

 「日本共産党がコミンテルンに加盟したのは1922年、レーニンがまだ健在で、多数者獲得、統一戦線などの課題の探究をはじめた時期でした。 そして、日本共産党中央が活動の中断を余儀なくされたのは1935年、コミンテルンが第7回大会で人民戦線の方針を打ち出した年でした」

 「この時期は、『社会ファシズム』など戦術上重大な誤りがおかされたとはいえ、コミンテルンの歴史のなかでは、まだ割合に健全な時期でした。 ですから、日本との関係では、戦術論では誤まった路線のもちこみはあっても、戦略論では、22年『綱領草案』、『27年テーゼ』、『32年テーゼ』と有益な援助をうけましたし、党の解党決議のときにも、福本主義の横行のときにも、党建設の組織論の確立でも、党の発展に役立つ助言を得たのでした」

 「そして、これから見るコミンテルンの最悪の変質の時期には、日本共産党とコミンテルンとの連絡は絶たれていました。 ですから、世界の共産党のなかでも、コミンテルン変質による悪影響をもっとも受けなかった党、ということができるかもしれません」

 


不破氏著「革命論研究」(下巻)つづき。「エンゲルス死後のドイツ社会民主党」=「決定的裏切りへ」

2016年04月08日 | 綱領関連

 エンゲルスは、1895年8月5日、その生涯を終えました。 (誕生日:1820年11月28日) エンゲルスが直接体験したドイツの選挙選は1893年が最後となりました。

 不破氏は、同書の215頁~219頁にかけて「(補論)エンゲルス死後のドイツ社会民主党」を掲載しています。

 「エンゲルスの死によって、それまでドイツの党に強く作用していた科学的社会主義の羅針盤が失われたことは、党に大きな影響をおよぼしました。 まず現れたのは、思想的な解体作用でした」

 として、コンラート・シュミット、ベルンシュタイン、ローザ・ルクセンブルクなどの哲学論、革命論、経済論、政治論などを指摘しています。

 「こうして、エンゲルスの死とともに、マルクス、エンゲルスが多年の努力を経てきずきあげてきた多数者革命論は、肝心のドイツに、まともにこれを受け継ごうとした潮流がないまま、事実上は棚上げの運命をたどることになってしまったのです」

 「党のこうした内部状況にもかかわらず、選挙戦での前進は続きました。 19世紀の末から20世紀初頭、第1次世界大戦にいたる時期の帝国議会選挙における、ドイツ社会民主党の得票と議席の推移は次のとおりです」

 「1893年 178万6700票 得票率 23・3%  44議席」

 「1898年 210万7100票 得票率 27・1%  56議席」

 「1903年 301万0800票 得票率 31・7%  81議席」

 「1907年 325万9000票 得票率 28・9%  43議席」

 「1912年 425万0400票 得票率 34・8% 110議席」

 「このように、有権者の3分の1以上の支持を得る帝国議会でもっとも強大な政党となったものの、社会主義政党として、その中身が空洞化していたというのが、1914年に第1次世界大戦を迎えたときのドイツ社会民主党の実態でした。 この党を中核としていた第2インターナショナルの崩壊は、まさに起こるべくして起こったものだったのです」

 「それにつづいたのが、1918年、ドイツ革命が勃発したときの、ドイツ社会民主党の裏切りでした。 1918年11月、打ち続く敗戦のなかで、ドイツに革命が勃発しました。 革命の火蓋をきったのは、11月3日、キール軍港における水兵の反乱でした。 この反乱は、キールに誕生した労働者・兵士評議会の組織とともに数日でドイツ全土に波及し、11月7日には、首都ベルリンでも労働者・兵士が決起し、彼らが組織した評議会を基礎に、8日、共和制の宣言、9日、2つの社会委主義政党による政府の結成と、事態は革命の全国的勝利へと急進展しました」

 「エンゲルが予見した『軍国主義の崩壊の弁証法』がその予言どおりに発動したのです。 ところが、共和制宣言が発せられた11月8日夜、翌日、革命政府の首相に就任することが予定されていた社会民主党の党首エーべルトは、ドイツ軍最高司令部の責任者であるグレーナー参謀次長と秘密の電話回線を通じて連絡を取り合い、社会民主党政府とドイツ軍部のあいだで、革命鎮圧のための同盟を結んだのです」

 「これは、大戦勃発のさいの帝国主義戦争支持の決定に続く決定的な裏切りでした」

 

 

 

 


 「ドイツ帝国議会の選挙戦」不破氏著「マルクス、エンゲルス革命論研究」(下巻)より

2016年04月07日 | 綱領関連

 「革命論研究」(下巻)103頁には、次のような記述があります。

 「フランスに勝利したプロイセンは、1871年1月、ドイツの諸国家を統合してドイツ帝国をつくあげ、北ドイツ議会は、『ドイツ帝国議会』に発展しました。 北ドイツ議会で選挙活動、議会活動の経験を積んだ労働者党は、いよいよ本番のドイツ国会での闘争に取り組むことになります。 活動の具体的な話に入る前に、ドイツの帝国議会の選挙での、ドイツの労働者党の得票と議席の実績を表にして紹介します」

 「19世紀の70~90年代の10回の総選挙の記録です。 この表をおおまかに見ると、1871年から98年までの決算は、得票は12万票から210万票へ、議席は2議席から56議席へという、実にめざましい躍進でした。 それは坦々とした一路前進の過程ではなく、そのかげには、激しい弾圧・迫害に抗し、幾多の苦難の時期をのりこえた苦闘がありました」

 「この時期のドイツの党の選挙戦への援助は、マルクスの生存中にも、エンゲルスがそのかなりの部分を引き受けていたようです」

 【ドイツの党の総選挙での得票・議席の推移】(同書104頁)=議席総数 397議席(同書 104頁、218頁より)

 1871年3月 得票数 12万4000票(2つの党の合計) 議席数 2 (2つの党の計、アイゼナハ派2議席確保、ラ     サール派全員落選)

 1874年1月 得票数 35万1700票(2つの党の合計) 議席数 9 (2つの党の合計)

 1875年  〔2つの党の合同大会〕

 1877年1月 得票数 49万3400票             議席数 12

 1878年7月 得票数 43万7200票             議席数 9

  〔社会主義者取締法制定〕=1878年10月19日成立、同年10月21日発効

  「党は解散、機関紙は発行禁止、社会主義にかかわる集会も厳禁、党の幹部や活動家は大量に逮捕・追放があいいつぎ、国会開会中の国会議員団の活動以外は、党の組織的な活動はいっさい認めない、という事態です」(同書111頁)

 1881年10月 得票数 31万2000票            議席数 12

 1884年10月 得票数 55万0000票            議席数 24

 1887年2月  得票数 76万3100票            議席数 11(提案権失う)

 1890年2月  得票数 142万7300票           議席数 35

  〇得票率19・7%、得票で第1党に。

 〔社会主義者取締法廃止〕

 「選挙戦での社会民主党の大勝を受けて、ビスマルクは、エンゲルスが懸念した挑発的策動をくわだてる余裕もなく、1カ月後の3月18日、皇帝に辞表を出して退陣しました。 そして、9月には、社会主義者取締法も期限を迎えて消滅しました。 ビスマルクの時代も、13年にわたる非合法化の時代も、労働者党の勝利的な前進のなかで終わったのです」(同書127~128頁)

 1893年6月  得票数 178万6700票           議席数 44  得票率 23・3%

 1898年     得票数 210万7100票           議席数 56  得票率 27・1%

 同書、130~131頁で、不破氏は次のように述べています。

 「90年代のドイツ帝国では、対外膨張政策とそれを推進する軍備拡大が、国政上の大争点でした。 そしてそれまでは、ブルジョア諸党のなかでも左派的な部分は、軍備拡大には反対の態度をとり、軍事費の問題は、いつも政府と議会のあいだの鋭い対決点となってきました。 93年選挙も議会が政府のだした軍事法案を否決したために、国会の解散によっておこなわれたものでした」

 「しかし、この選挙はこの点で政治地図が変わる転機となりました。 ブルジョア的反対派は崩壊し、ブルジョア諸党が連合して軍事予算を支持する態勢がつくられ、選挙後の帝国議会は軍事法案を可決しました」

 「一方では、労働者党のひきつづく躍進、他方では、ブルジョア諸党の帝国主義的膨張と軍備拡大の政策への連合した支持態勢、国政のこうした様相が明確になるなかで、ドイツは20世紀の帝国主義時代に向かっていったのです」


エンゲルスの多数者革命の結論ー「多数者自身が目的を理解してこそ社会変革の道が』開かれる」

2016年04月05日 | 綱領関連

 引き続き、不破氏のエンゲルスの多数者革命論について、考えてみたいと思います。

 同氏の、「古典教室」第3巻「エンゲルス 『フランスにおける階級闘争』(マルクス)への序文」(2013年11月10日 初版)には次のようなエンゲルスの文章が掲載され、また、同氏の解説が記述されています。(同書80~81頁)

 エンゲルスの言葉「国民間の戦争の条件も変化したが、それに劣らず階級闘争の諸条件も変化した。 奇襲の時代、無自覚な大衆の先頭にたった自覚した少数者が遂行した革命の時代は過ぎ去った」

 「社会組織の完全は改造ということになれば、大衆自身がそれに参加し、彼ら自身が、なにが問題になっているか、なんのために彼らは(肉体と生命をささげて)行動するのかを、すでに理解していなければならない。 このことをこそ、最近50年の歴史がわれわれにお教えてくれたのだ」

 「大衆がなにをなすべきかを理解するためーーそのためには、長いあいだの根気強い仕事が必要である。 そして、この仕事をこそまさにいまわれわれがおこなっており、しかも敵を絶望におとしいれるところの成功をおさめつつあるのだ」

 不破氏は次ぎのように、解説しています。

 「少数者の革命の時代は終わり、多数者の革命の時代を迎えた。 多数者がほんとうに自覚して、革命の目標を自分のものとして理解してこそ、革命の勝利はある。 それをいかにして準備するかということが革命家の仕事なんだ。 革命家の仕事だということは、これは党の仕事だということです」

 「ここに、マルクスとエンゲルスが1848年の革命の時代から60年代、70年代の経済と政治の大変化の時代、そしてインターナショナルやドイツの労働者党の経験を経て、最後に到達し総括した革命論の結論があります」


科学的社会主義の多数者革命論―不破氏の「革命論研究」(下)より

2016年04月04日 | 綱領関連

 不破氏は「マルクス、エンゲルス 革命論研究」上(2010年1月)・下(2010年2月)刊行しています。 

 同書下巻173頁には、「2 議会の多数を得ての革命ー1878年のマルクスの定式」が記載されています。

 「民主主義の政治体制を実現したところで、人民の多数者を結集したら、労働者階級が選挙での多数を得て政権をにぎることができるーーこれは、マルクス、エンゲルスが、共産主義の革命家として活動を始めた最初の時期から追及しつづけた路線でした。 当時は、そういう政治体制をもった国はヨーロッパには存在せず、将来形で語ることができただけでしたが、70~80年代(1800年代)には、各国の情勢もかなりの変化をとげてきました

 「イギリスでは、立憲君主制のもとで、議会はかなり大きな権限をもつようになっていましたが、議会への選挙権がきびしく制限され、地主貴族の寡頭政治が続いてきました。 しかし、1867年の第2次選挙法改正で、都市の労働者階級の大部分が選挙権を得、84年の第3次改正では選挙権が農村の労働者の大部分に広がるなど、選挙制度の改革が一歩一歩進みました」

 「ドイツは、すでに詳しくみたように、67年に北ドイツ連邦に普通選挙権が採用され、労働者党の議員が活躍するヨーロッパで最初の議会を生みだし、71年のドイツ帝国成立でそれが全ドイツに広がりました。 こうして、ドイツは、労働者階級が普通選挙権を『解放の道具』として、活用した最初の国となり、国際的な社会主義運動のなかで文字通り開拓者的な役割を果たしましたが、その議会は、きわめて小さい権限しか与えられていない君主制の付属物で、政治体制としたは最も遅れた状態にとどまりました」

 「こうして、70年代以降のヨーロッパは、40年代とは違って、政治体制の性格の違いが、革命運動の前途を考える上で、特別の意義を持つ段階を迎えていたのです」

 ―中略ー

 「マルクスはここで、『議会の多数を得ての革命』という展望のある国として、イギリスと合衆国をあげています。 イギリスは共和制ではなく立憲君主制の国であり、まだ普通選挙権が実現されていない国です。 アメリカは世界で最初に民主共和制を実現した国でしたが、それを活用する労働者党はまだ存在していない政治状況の国でした」

 「しかし、マルクスは、この2つの国を、労働者が議会で多数を占めれば、社会変革を合法的な道で実行できる可能性のある典型的な国としてあげたのです。 それぞれの国の政治体制および運動の将来的発展を考慮にいれてのことだったと思います」


「国会を通じて、社会の進歩と変革を進めるという道すじが、制度面で準備されることになった」を考える

2016年04月02日 | 綱領関連

 日本共産党綱領(第23回党大会 2004年1月17日採択)は、第2章「現在の日本社会の特質」で、「(4)第2次世界大戦後の日本社会ではいくつかの大きな変化が起こった」として、次ぎの3点を指摘しています。

 「第1は、日本が、独立国としての地位を失い、アメリカへの事実上の従属国の立場になったことである」(詳細は略)

 「第2は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である。 この変化を代表したのは、1947年に施行された日本国憲法である。 この憲法は、主権在民、戦争の放棄、国民の基本的人権、国権の最高機関としての国会の地位、地方自治など、民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。 形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」

 「この変化によって、日本の政治史上はじめて、国民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会の進歩と変革を進めるという道すじが、制度面で準備されることになった」(第2項は全文)

 「第3は、戦前、天皇制の専制政治とともに、日本社会の半封建的な性格の根深い根源となっていた半封建的な地主制度が、農地改革によって、基本的に解体されたことである」(詳細は略)

 ”国民多数の意思を国会を通じて、社会進歩と変革を進める道すじが、「憲法上の制度」として「準備」された”という認識は大変刺激的であり、おおいに探究が求められ分野であると感じています。 そして、憲法上のこの「制度」を制限したり、破壊するいかなる企ても許さない、国民的たたかいが求められていると思います。

 戦前の日本共産党の活動は、こうした民主主義の政治体制ー「制度をつくる」たたかいであったと言っていいと思います。

 同綱領は、第1章、「戦前の日本社会と日本共産党」の最後の部分で、「日本政府はポツダム宣言を受諾した。 反ファシズム連合国によるこの宣言は、軍国主義の除去と民主主義の確立を基本的な内容としたもので、日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそあることを示した」

 「これは、党が不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかったことを証明したものであった」

 

 


日本の未来社会ー社会主義社会への道は中国などと異なる道をすすむ

2015年11月20日 | 綱領関連

 昨日の「読売」紙は、日本共産党が提唱している「国民連合政府」構想について、志位委員長へのインタビュー記事を掲載しています。 その中で、天皇制や、国旗・国歌などへの質問があります。

 「--天皇制や国旗・国歌にはどう対応するか」

 「天皇制をどうするか決めるのは、将来のことだと考えている。 国民連合政府は暫定的な政権だから天皇制に一切手をつけることはしない。 国旗国歌法には反対したが、それが法律になった事実がある。 国民連合政府では、国会での国旗の常時掲揚などの変更を求めるつもりはない」

 また、次のような質問もあります。

 「--社会主義・共産主義を目指す綱領や共産党の名前を変える可能性はないか」

 「それはない。 貧困と格差の問題など、あらゆる点で資本主義の限界が指摘されている。 党名を変えるとか理想を捨てることはない」

 日本共産党は、現在の中国などの現状を「社会主義に到達した国」とは見ていないことは、紹介したとおりです。

 それでは、日本のお未来社会ー社会主義への道をどう考えているのでしょう。 「国民連合政府」の提唱への関心が広がると同時に、こうした課題への関心も高まっています。

 日本共産党第26回大会「決議」はこうした課題について、次のように明らかにしています。

 【①未来社会への移行の過程の条件ーー経済力の水準について】

 「日本における未来社会を展望した場合には、未来社会への移行の過程の条件は、異なったものとなる。 日本が当面する資本主義の枠内での民主主義革命の課題をやりとげて、社会主義への道にすすむ場合には、発達した資本主義のもとでつくられた巨大な経済力の水準を引き継ぐことになる。 その場合には、現在の中国社会で進行しているような経済の急成長、それにともなう社会的諸矛盾の拡大という現象は、決しておこらないだろう」

 「日本経済は、現在の水準でも、日本国憲法にいう『健康で文化的な最低限度の生活』を国民すべてに十分に保障できるだけの経済力をもっている。 社会の現実がそうなっていないのは、財界・大企業の横暴な支配のもとで社会的格差が拡大しているという問題にくわえて、今日の資本主義がきわだった『浪費型の経済』--繰り返される恐慌、大量生産・大量消費・大量廃棄、金融経済の異常な肥大化などーーになっているためである」(以下、略)

 【②未来社会への移行の過程の条件ーー自由と民主主義、政治体制について】

 「自由と民主主義、政治体制という点でも、日本での社会主義の道は、中国などとは異なる道をすすむことになる。 中国、ベトナム、キューバでは、政治体制の面で、事実上の一党制をとり、それぞれの憲法で『共産党の指導性』が明記されている。 これは、それぞれの国で社会主義をめざす勢力が、革命戦争という議会的でない道を通って政権についたことと関連がある。 もちろん、議会的てない道を通って政権についた場合でも、レーニンがロシア革命の初期に実践したように、反対政党の禁止は一般的な革命の原則とはいえない」

 「同時に、議会も民主主義の経験も存在しないという条件から革命が出発したことが、現在のこれらの国ぐにの政治体制のあり方と結びついていいることを、見ておかなければならない」

 「日本では、このようなことは決して起こりえないことである。 日本共産党は当面する民主主義革命でも、将来の社会主義的変革においても、その一歩一歩を、選挙による国民の審判を受け、議会で多数を獲得することによって進むことを、綱領で宣言している。 綱領には、つぎのように明記されている」

 「『社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる』」

 「『さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される』」

 「『社会主義』の名のもとに、特定の政党に『指導』政党としての特権を与えたり、特定の世界観を『国定の哲学』と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる」

 「これは綱領が国民に約束している社会主義日本の展望であるが、これはたんに綱領上の公約というだけにとどまらない。 日本のように憲法で国民主権、基本的人権がうたわれ、議会制民主主義が存在する社会を土台にするならば、未来社会において、それらが全面的に継承され、豊かに花開くことは、歴史の必然である」

 

 

 

 

 


中国、ベトナム、キュ―バの現在をどうみるかー ”社会主義に到達した国ぐに”ではない ②

2015年11月18日 | 綱領関連

 ② いやおうなしに資本主義国との対比が試される

 「第2の角度は、”社会主義をめざす国ぐに”が、社会の発展段階ではなお途上国に属しながらも、世界の政治と経済に占める比重は、年々大きくなるもとで、いやおうなしに資本主義国との対比が試されるようになるということである」

 「『人民が主人公』という精神が現実の社会生活、政治生活にどれだけ生きているか。 経済政策の上で人民の生活の向上がどれだけ優先的な課題になっているか」

 「人権と自由の拡大にむけて、自身が認めた国際規範にそくした努力がなされているか」

 「国際活動で覇権主義を許さない世界秩序の確立にどれだけ真剣に取り組んでいるか」

 「核兵器廃絶、地球温暖化などの人類的課題の解決にどれだけ積極的役割をはたしているか」

 「覇権主義という点でいえば、レーニンが、勝利したソビエト・ロシアが周辺国との関係で大国主義的な態度に陥ることを、どれなにきびしく戒めたかかも、想起されなければならない重要な問題である」

 「私たちは、これらの問題について、中国やベトナム、キューバが、資本主義国との対比において、『社会主義をめざす新しい探究が開始』された国ならではの先駆性を発揮することを心から願うものである」

 そして、次のように指摘しています。

 「中国、ベトナム、キューバが抱える『政治上、経済上の未解決の問題』は、根本的には、これらの国の革命が、経済的・社会的・政治的に発達の遅れた状態から出発したことと不可分に結びついている」

 「中国やベトナムはそれに加えて、外国帝国主義による侵略戦争で国土が荒廃させられたところからの出発という問題があったし、キューバには長年にわたる米国による無法な経済封鎖という問題がある」

 キューバに対する米国の経済封鎖の解除を求める今年の国連総会での決議は、賛成191カ国、反対は米国とイスラエルの2カ国のみでした。

 


中国、ベトナム、キューバの現在をどうみるかー”社会主義に到達した国ぐに”ではない ①

2015年11月17日 | 綱領関連

 【パリ同時多発テロ】について

 日本共産党の志位和夫委員長は14日、次の談話を発表しました。

 「いかなる理由があろうと絶対に許されない卑劣な犯罪行為を強い怒りを込めて糾弾すします。 犠牲者とそのご家族に心からの哀悼を表します。 テロを世界から根絶するために、国際社会の一致結束した取り組みが急務です」

 中国やベトナム、キューバの現在と今後をどう見るか、特に中国をどう見るかは、経済、環境、民主主義、安保・外交等多角的に問われるている課題です。

 日本共産党は、2014念1月に開いた第26回党大会でこうした課題について、以下、紹介するような「決議」を採択しています。 この「決議」は2年近く経った現在、改めてその意義を感じさせる内容になっているように思います。

 1、”社会主義に到達した国ぐに”ではない

 「第1の角度は、これらの国ぐには、”社会主義に到達した国ぐに”ではなく、”社会主義をめざす国ぐに”--『社会主義をめざす新しい探究が開始』(綱領)された国ぐにだということである。 たとえば、中国は、経済規模では日本を抜いて、世界第2の経済大国になり、世界経済のなかでの比重を年を追うごとに高めていいる。 同時に、国民1人あたりの国内総生産で測ると、なを発達した資本主義国の8分の1という水準にとどまっていることも事実である。 「そのことは中国政府自身が、中国の現状を『大量の貧困人口を抱える発展途上国』と規定していることにも示されている」

 【注】「10月末に開かれた中国共産党第5回中央委員会総会で採択した2016年~20年の『第13次5カ年計画』でも、現在7000万人の貧困人口をお5年後にゼロにすることなどが掲げられています」

 「こうした中国の場合、社会主義という以前に、社会主義の経済的土台である発達した経済そのものを建設することに負われているのが現状である。 そして、そうした経済的土台をつくる過程で、中国では市場経済を導入している。 この道が合理性をもっていることは、『改革・開放』 以来の中国の経済的発展が証明しているが、同時に、この道を選択すれば、国内外の資本主義が流入してくるし、そこから汚職・腐敗、社会的格差、環境破壊など、さまざまな社会的問題も広がってくる」

 「中国の将来を展望する場合に、この国が、今後もかなり長期にわたって、貧困とのたたかい、所得格差を縮小するたたかい、発展のなかで環境を保全していくたたかい、政治体制と民主主義の問題など、さまざまな問題と格闘を続けていかなければならないーーそういう国として見ていく必要がある」 

 「そこには、模索もあれば、失敗や試行錯誤もありうるだろう。 覇権主義や大国主義が再現される危険もありうるだろう。 そうした大きな誤りを犯すなら、社会主義への道から決定的に踏む外す危険すらあるだろう。 私たちは”社会主義をめざす国ぐに”が旧ソ連のような致命的な誤りを絶対に再現させないことを願っている」

 「わが党はこうした国ぐにが抱えている『政治上・経済上の未解決の問題』について、内政不干渉という原則を守りながら、いうべきことは率直に伝えてきた。 中国共産党指導部に対しても、中国の政治体制の将来という問題、『反日デモ』や『チベット問題』、尖閣諸島問題、『防空識別圏』問題などについて、節々で率直にわが党の見解を直接に伝えてきた」(つづく)

 


日本共産党志位委員長が、26年ぶりに「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」実現を”よびかけ”

2015年09月20日 | 綱領関連

 日本共産党は昨日第4回中央委員会総会で確認し、志位委員長が同日記者会見で、「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」実現をよびかけました。

 この「よびかけ」は、今日の新聞各紙、NHK「日曜討論」でも小池晃副委員長・参議院議員が紹介しました。 私もこの「よびかけ」を志位委員長の記者会見を視聴しました。 今日付の「しんぶん赤旗」1面に全文が掲載されました。 読者はもちろん、読者以外の方々にも是非、日本共産党のホームページで視聴していただきたいと思います。

 4中総の報告で志位委員長は、「さしあたって一致できる政府の提起は26年ぶりですが、これまでの政権構想と比べて、情勢の成熟でも、国民運動の発展でも、政党間の協力でも現実性をもった提起」と力説しました。

 そして、「結語」では、①この提案の実現には強い覚悟と決意がいること、②この方針を現実のものとする最大のカギは国民の世論と運動にあること、③日本社会のあらゆる発展段階を統一戦線できりひらくことを綱領で掲げている党として、日本共産党の役割がきわめて重要であること」を強調しました。

 「よびかけ」が述べている「戦争法(安保法制)は、政府・与党の『数の暴力』で成立させられたからといって、それを許したままにしておくことは絶対にできないものです」

 「日本の平和と国民の命を危険にさらすこのような法律を、一刻たりとも放置するわけにはいきません」

 私は、このような現状認識をあらためて、心にに刻みました。

 その上で、

 1、「私たちは、心から呼びかけます。 ”戦争法廃止、立憲主義を取り戻す”ーーこの1点で一致するすべての政党・団体・個人が共同して、『戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府』を樹立しようではありませんか。 この旗印を高く掲げて、安倍政権を追い詰め、すみやかな解散・総選挙を勝ち取ろうではありませんか」

 2、「この連合政府の任務は、集団的自衛権行使容認の『閣議決定』を撤回し、戦争法を廃止し、日本の政治に立憲主義と民主主義を取りもどすことにあります」

 3、この「国民連合政府」を樹立するためには、「野党間の選挙協力が不可欠です」と述べ、、昨年の総選挙での沖縄1~4区の小選挙区選挙の勝利の例を上げ、”国民的な大義”が明瞭な場合には、政策的な違いがあってもそれを横に置いて、柔軟に対応することを実行してきたことを紹介し、「今私たちが直面している、戦争法を廃止し、日本の政治に立憲主義と民主主義をとりもどすという課題は、文字通りの”国民的大義”もった課題です」と訴えています。

 これからのたたかいは、「安倍政権VS主権者国民」とのたたかいの構図となるでしょう。 そのたたかいで、統一戦線政策を不動の路線として堅持している日本共産党の歴史的役割の発揮が強く求められていることをヒシヒシと感じています。


日本共産党綱領と日本国憲法=「綱領は憲法的裏づけをもっている」

2015年07月08日 | 綱領関連

 戦後最悪の憲法違反の戦争法案が審議されるなかで、、「憲法の世界史的意義」が国民的確信となって広がっているように感じています。 「全国革新懇ニュース」2015.6月号(6月10日発行)に憲法学者の小林 節さんが登場して次のように語っています。

 「日本国憲法は国民に受け入れられ、9条のもとで、日本は70年も戦争せずに、殺し殺されもぜずにきました。 大国で、こんな国は他にはない。 中東でも、手が血で染められていない。 価値のあることです」

 「日本がなすべきことは、この平和大国の立場だからこそできる”留め男”になることです。 戦争というものはかならず終結する。 そのとき、できるだけ早くしっかりと戦争を終結させるために、”留め男”が必要になります。 この役割をこそ海外で戦争をしない日本は担えるし、担わなければなりません」

 先進国のなかで、戦後70年海外で一度も戦争をしなかった日本の歴史は、世界史のなかで新しい誇りある歴史を築いてきたことでもあるのではないでしょうか。

 日本共産党の綱領は、「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」と明記しています。

 志位和夫委員長は、「綱領教室」のなかで、この意義を次のように述べています。

 「『全条項をまもる』とうことは、新しい綱領(2004年1月開催の第23回大会で決定)で初めて明確に書き込んだことです」

 「『あれが足りない』、『これが足りない』、『古くなった』という議論にたいして、日本国憲法が9条以外の諸条項でも世界的に見て先駆的内容をもっていることを明らかにしていくが大切です。 憲法の諸条項に照らしてみると、日本の政治は憲法にはるかに追いついていないーー古くなったのは憲法ではなく、自民党型政治こそ古くなっている、憲法を生かした政治の改革こそ求められているということを、大いに明らかにしていくことが重要です」

 そして、次のように語っています。

 「日本国憲法と党の綱領との関係をまとめて考えると、民主主義革命が憲法にかかわって取り組む改革が、『現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的条項の完全実施をめざす』といことは、私たちがめざしている民主主義革命が、資本主義の枠内で可能な民主的革命であるとともに、現憲法の枠内で可能な民主的改革だということです」

 「言い替えますと、それは、憲法を生かした民主的改革であるともいえます。 日本国憲法の本来の精神にそくした国づくりは、私たちの綱領がめざす新しい日本と重なりあってくるわけです。 そこまでの力を日本国憲法はもっているし、同時に、私たちの綱領は憲法的裏づけをもっているーーここに確信をもって、日本国憲法を守り、生かすたたかいに取り組もうではありませんか」

 


「日本国憲法第9条のもつ世界史的意義について」

2015年07月06日 | 綱領関連

 安倍政権のもとで、「世界史的意義をもつ憲法9条」が根底から破壊されようとしています。 日本共産党の志位和夫委員長が、党員向けに行った「綱領教室」の講義で次のように語っています。(2012年1月10日)「綱領教室第3巻」

 その一節を紹介します。

 「私は、なぜ日本だけがこのような憲法をもちえたのかといことを、以前からいろいろと考えておりました。 もちろんその土台には、日本軍国主義が、侵略戦争と植民地支配によって、アジアと日本国民に甚大な損害をあたえたことへの反省があったということがいえると思います」

 「日本国憲法と国連憲章とを比べてみましょう。 そうしますと、1945年6月に調印(発効は同年10月)された国連憲章には、2度にわたる世界大戦の惨禍を踏まえて、『武力による威嚇又は武力の行使』が厳しく禁止されています(第2条第4項)」 

 「ここまでは日本国憲法と同じです。 しかし、この翌年の1946年11月公布された日本国憲法(施行47年5月)では、その9条で、第1項では、国連憲章を踏まえて、『武力による威嚇又は武力の行使』を放棄するとともに、第2項では、さらにすすんで、『いっさいの戦力保持と国の交戦権を禁止しています。 これは国連憲章にはないもので、国連憲章に比べても、日本国憲法は、前に向かっての飛躍があるわけです」

 「この飛躍はどうして生まれたのか。 国連憲章がつくられた1945年6月と、日本国憲法がつくられた46年11月との間に、人類はある重大な出来事を体験しているのです。 すなわち、国連憲章が決められた45年6月の時点では、人類はまだ原子爆弾を知りませんでした。 そのひと月後の7月に、アメリカで人類初の核実験がおこなわれました。 そして8月に広島、長崎に核兵器が投下され、20数万人の無辜の人びとが命を奪われ、(同年末までの人数)、2つの美しい都市が一瞬にして廃墟と化し、言語に絶する犠牲をこうむりました」 

 「このようなこの世の地獄を、世界のどこでも2度と繰り返してはならないという強い思いが、憲法9条という宝を生み出した、一つの重大な歴史的契機となったのではないかと思います」

 志位さんは、1946年11月に当時の内閣が発行した「新憲法の解説」から、憲法第2章「戦争の放棄」の意義についてのべた部分を紹介しています。

 「第2章 戦争の放棄」

 「本章は新憲法の一大特色であり、再建日本の平和に対する熱望を、大胆率直に表明した理想主義の旗ともいうべきものである。・・・・ 」

 「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまふ。 原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、又は逆に戦争の原因を終息させしめるかの重大な段階に達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺するであろうと真剣に憂へてゐるのである。 ここに於て本章(日本国憲法第2章)の有する重大な積極的意義を知るのである」(内閣発行「新憲法の解説」26~27ページ、1946年11月)

 志位さんは、次ぎのように述べています。

 「原子爆弾の出現によって、もはや文明と戦争は両立できなくなった。 文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺してしまう。 それならば文明の力で戦争を抹殺しよう。 戦争を放棄し、陸海空軍いっさいの戦力を放棄しよう。 それを世界に先駆けて実行しよう。 ここから、私たちが誇る、世界に誇る日本国憲法9条が生まれたのです」

 「ですから憲法9条には、戦争を2度と引き起こしてはならないという決意とともに、この地球上のどこでも核戦争を絶対に引き起してはならないいという決意が込められているということを強調したいと思います。 ここにも、この条項もつ大きな世界史的な意義があると、私は考えています」

  

 


「スターリン秘史の執筆を終わって』を読む。 研究と努力に心から感謝

2015年06月14日 | 綱領関連

 まず、不破さんをはじめ研究会グループのみなさんに心から感謝を申し上げたいと思います。 2年半の長期間にわたった連載、「前衛」誌の「スターリン秘史ー巨悪の成立と展開」は、「前衛7月号」で完結しました。

 不破さんは、「『スターリン秘史』の執筆を終わって」のなかで、この執筆に取り組んだ「動機、決意」について、次のように述べています。

 「私は、『スターリン時代の中世的な影を一掃』する理論的な課題のなかで、スターリン覇権主義の『巨悪』の全体像を歴史の事実に照らして解明する仕事がまだ残されていることを、強く感じていました。 私たちがいま取り組んでいる科学的社会主義の『ルネサンス』も、スターリンが世界の共産主義運動に支配的な影響力をおよばした中世的な暗黒の時代そのものに科学のメスを入れて、その実態を解明し、その否定的な現実に全面的な光をあてることを抜きにしては、不完全なものになる、という思いからです」

 「そして、その仕事は、若い時代の十数年の期間ではあったが、スターリン時代の空気を吸い、スターリンの理論の研究に打ち込んだ経験をもつ世代に属する人間がはたすべき課題であり、またその経験がなければはたせない任務であることも、私が痛感していたことでした」(「前衛」7月号229頁)

 「2009年5月、私が出会ったのが、『ディミトロフ日記』でした。 出会いのいきさつについては、本稿の序論的な部分で紹介しましたが、まず、英語版(2003年、米エール大学出版部、抄訳版)を手に入れて読んでみると、スターリン覇権主義の隠された歴史に光をあてる新事実と探究のヒントがそこに膨大に記録されていることを知って、大きな衝撃を受けたのです」(「同誌230頁)

 不破さんは、執筆の苦闘にふれた後、次のように述べています。(以下、「同誌」231頁)

 「編みあがってみると、そこに現出したスターリン覇権主義の全体像は、私自身の予想をはるかに超えるものとなりました。 先の報告会では、『日記』の全体を読み通したうえで、そこから読み取った重要な新事実はもれなく報告したつもりでしたが、どの章をとっても、そこで解明されたスターリン覇権主義の歴史の邪悪さは、桁違いに深刻なものでした。 現れたのは、社会主義の精神も革命の大義も完全に投げ捨てて、ひたすら覇権と専制支配の拡大強化を追求する『巨悪』そのもでした」

 「スターリンの言動の根底にあるものを、そこまで突き詰めてとらえないと、どの時期のどの分野の問題でも、スターリンの真意は理解できないし、この本質を正確に把握すれば、スターリンの言動が矛盾に満ちているように見える場合でも、その本当の脈洛をきちんと理解することができるーーここに、本稿を執筆しながら私が得たスターリン研究の核心がありました」

 不破さんは、最後に、「この研究が、科学的社会主義の『ルネサンス』の日本における、また世界における発展に役立つことを願って、結びの言葉にしたいと思います」と述べています。 

 私も、「前衛」誌の連載を待ちわびながら、読み続けました。 不破さんが、「大きくいえば、世界の現代史について、認識を新たにさせられた点も少なくありません」とも述べていますが、「大きな共感を覚える言葉」です。 


「スターリン秘史」 第30章=最終章 「朝鮮戦争終結。アジア『第二戦線』戦略の総決算」

2015年06月13日 | 綱領関連

 「スターリン秘史」が完結しました。 まず、「朝鮮戦争終結。アジア『第二戦線』戦略の総決算」について、不破さんの分析・見解を紹介したいと思います。

 不破さんは、 「スターリンがアジア『第二戦線』戦略にもとづいて起こした朝鮮戦争は、1953年7月に終結しました。 スターリンのこの戦略は、いったい、世界、とくにアジアに何をもたらしたのか、いくつかの角度から、その総決算を試みたいと思います」と述べ、次のように指摘しています。

 「(1) ヨーロッパでの西側陣営との軍事的な正面対決を避けるために、アメリカの軍事的、政治的対決の焦点をヨーロッパからアジアに移そうとしたスターリンの思惑は、その限りでは、確かに一定の成功を収めました。 1950以後、戦争と冷戦の重点は明らかにアジアに移りました」

 「(2) しかし、この戦争によって、アジアが受けた被害はきわめて大きいものがありました。 アメリカが主導する軍事同盟は、朝鮮戦争以前には、北大西洋条約機構(NATO)だけでした。 アジアでは、新中国成立後の1950年1月、アメリカのトルーマン政権は、台湾、朝鮮半島をアメリカの防衛ラインの外におくという政府宣言を発表し、中国が台湾解放作戦を企てても軍事介入しないという事実上の意思表示をおこないました。 これは、将来の米中関係の確立を視野に入れた政策声明だという見方も生れ、アジアの平和的発展の展望も開かれつつあるかに見えました」

 「その情勢を一変させたのが、朝鮮戦争でした。 朝鮮半島が、熱い戦争の戦場になっただけでなく、アメリカ政府は、1月の声明を取り消して、台湾問題でも中国と対決する立場を明らかにし、さらに、日米安保条約(1951年)、アンザス(ANZUS 1951年)、東南アジア条約機構(SEATO 1954年)、中央条約機構(CENTO 1955年)と軍事同盟の網の目でこの地域をおおう戦略をとりはまじめました。 まさにアジア・太平洋地域は、アメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策が集中する地球上最も危険な地域となったのでした」

 「(3) 朝鮮半島が受けた被害に、きわめて大きいものがあったことは、言うまでもありません。 朝鮮半島の全域が戦場となった上、戦線が38度線から南へ、南から北へ、さらに北から南へと、繰り返し移動したため、多くの地域が何度も戦火にさらされました。 しかも、民族を分断しての戦争だっただけに、民族的悲願である南北統一への道を決定的に困難なものとしたことは、この戦争がもたらした最大の悲劇だというべきでしょう」

 「(4) 朝鮮戦争の直接の当事者となった中国が受けた被害は、絶大なものがありました。 すでに実施段階に入りつつあった台湾解放は無期延期とされたうえ、内戦の直後に最新鋭の武器と装備をもつアメリカ軍との大戦争に取り組んで、40万人もの犠牲者をだし、経済的にも国民経済建設の最初の段階で戦争の重荷を負わされたのです。 もし、ソ連が朝鮮戦争を企てなかったら、さまざまな複雑な要因があったとしても、新中国の前途にはまったくちがった展望が開かれたであろうことは、想像に難くありません」

 「(5) 最後に日本です。 朝鮮戦争は、アメリカが日本の全土を極東における戦争と侵略の基地とし、警察予備隊(-保安隊ー自衛隊)の名で日本の再軍備に道を開く上で、絶好の情勢をつくりだしました。 そして、スターリンの干渉による日本共産党の徳田・野坂分派への軍事方針の押しつけは、日本共産党に深刻な政治的打撃を加えただけでなく、講和を前にした重大な時期に、アメリカ占領軍に日本を事実上の戒厳状態におく口実を与え、民主・平和運動を無力化させることを容易にさせました。 事実、講和条約と日米安保条約が締結された1951年には、首都東京では『平和』と名のつく集会は”盆踊り”さえ禁止するという戦時さながらの禁圧体制が敷かれました」

 「こうして、アメリカは、日本の反動支配勢力の協力のもと、自分が勝手に描いた設計図どおりの講和条約と日米安保条約を、国民的規模の反対運動に直面する恐れなしに、強行することができたのでした」

 そして、不破さんは、「このように、スターリンのアジア『第二戦線』構想とその発動は、世界とアジアにはかりしれない損害をひきおこしたのです。 しかし、この構想の一環として強行された日本共産党への干渉攻撃が、日本の運動のなかに、スターリンの覇権主義、専制主義に対する徹底した批判者を生む転機となったことは、歴史の弁証法というべきでしょう」と述べています。(以上「前衛」7月号、215~217頁)

 


「スターリン秘史 第29章 1950年(下)」 ”朝鮮戦争は誰が、なんの目的で行なわれたのか”

2015年06月01日 | 綱領関連

 「第29章 1950年(下)」には、「58年後に発見されたスターリン書簡」が紹介されています。 (「前衛6月号」209~211頁)

 不破さんは、この書簡について、次ぎのように分析しています。

 「発見されたスターリン書簡は、発表された2008年当時、日本のメディアでも報道されましたが、本格的には研究されないまま、一時的なニュースとして忘れられていったと思います。 その内容が、朝鮮戦争の歴史的経過についての通説とあまりにもかけ離れており、歴史のどこにどうはめ込むべきかの理解がつかなかったからかも知れません」

 「しかし、その時期のスターリンの国際活動の経過をヨーロッパとアジアの両方面を視野に入れて追跡してきたわれわれの目から見ると、この書簡は、朝鮮戦争をめぐる多くの謎を解き明かす力をもった、スターリン自身のきわめて重大な発言であることがわかります」

 「最初に指摘しておく必要があるのは、これは、米軍の仁川上陸で北朝鮮軍が危機に陥った時期に、スターリンが言いわけ的に語ったものではない、ということ、『南進』作戦がほぼ成功して韓・米両軍を洛東江の一角に追い込み、意気盛んだった時期の書簡だということです。 (書簡の日付の8月27日は、スターリンが『南進』作戦の成功をたたえる金日成あてのメッセージを書いた前日でした)」

 「この書簡で、第1に重要なことは、スターリンがアメリカを朝鮮戦争にひきだすことが安保理欠席の目的であることを、はっきり認めているということです。 『4つ目は、米国政府にフリーハンドを与え、安保理での多数を利用してさらなる愚行をおこなう機会を提供し、世論が米国政府の真の顔を目にできるようにすることだ。 ・・・・ われわれが安保理を退席したあと、米国は朝鮮での軍事介入を開始し、そこで軍事的威信と道徳的権威を失いつつある、いまや、米国が朝鮮における弾圧者、侵略者であり、軍事面では自ら吹聴するほど強いわけではないことを、正直者であれば疑うことはできないだろう』。 彼は4つ目の目的をあげていますが、中国の代表権問題などあとの3つは、一時的な意思表示をすれば済むことで、いつまでもボイコットを続ける根拠にはなり得ないものでした。 現にソ連は、それらの問題は何一つ解決していないのに、50年8月、この手紙を書いた時点では、すでに安保理に復帰していたのですから。」

 「スターリンは、この書簡で、米国政府に『さらなる愚行』、すなわち朝鮮への出兵をおこなわせること、そのことを目的にして、安保理が米国提案の2つの決議を無事に成立させるように、50年1月に開始したボイコットを6月~7月まで続けていたのだと、まったくあからさまな言葉で説明したのです」

 「第2は、スターリンにとって、米国政府に朝鮮出兵という『愚行』を犯させることが、なぜ必要だったのか、についての説明です。 スターリンは、先の文章に続けてこう語ります。 『さらに、米国が現在ヨーロッパから極東にそらされていることは明らかである。 国際的なパワーバランスからいって、これはわれわれに利益を与えているだろうか。 もちろん与えている」

 「重大なことは、スターリンがここで、安保理欠席の理由だけでなく、なぜ朝鮮戦争を起こしたかの理由まで説明していることです。 スターリンは、朝鮮戦争によって、アメリカの関心と軍事戦略の重点をヨーロッパから極東にそらすことが目的だった、それが『われわれ』に利益を与えていることは明らかだと、何一つ言葉を飾ることなく実に率直に語っています。 ここで『われわれ』という時、それはソ連と東ヨーロッパ諸国のことで、(チェコスロバキアは東ヨーロッパ諸国の代表として扱われている)、アメリカの脅威がヨーロッパからよそへ移りさえすれば、それが移った先の国々がどうなろうと、それは自分たちの利益の外の出来事でしかないのです。 これが、スターリン流の『国際的なパワーバランス』の論理なのでした」

 そして、不破さんは、「朝鮮戦争こそは、アメリカ帝国主義との対決の主戦場をヨーロッパから極東に移す『第2戦線』構想の具体化として引き起こされたものだ、そのことを、スターリン自身があかさまに証言しているのですから」と指摘しています。

 日本共産党の「50年問題」を考える上でも新たな視点を提示するものです。

 

 

 「