
風が冷たい、関東近辺が寒かったと感じて先週帰還したが、やはり北国、風の冷たさは話にならない、こんなくらいで寒いとは言っていられないが、しかし、紅葉だ、晩秋だ、と思ってる間に佇まいは冬、そして間もなく師走である。
「はえもんだなっすっ」

さて、遠野郷八幡宮例大祭、遠野祭りでの駒木しし踊りの勇姿も記憶にまだ新しいところではありますが、今年は市合併記念と称して各地域の郷土芸能による競演会が27日、市民センターで開催されます。
駒木しし踊りは、出場団体の一番最後の登場、今年の踊り収め的なことでもありますが、終った後は、関係者によりご苦労さん会が予定されております。
今年後半は、遠野郷しし踊りでの駒木踊りの由来等を少し詳しく調べてウエブサイトにご紹介と目論んでいたが、なかなか手が回らず来年以降の懸案事項となりそうな感じでもあります。
まあ・・それでもなんとか来年辺りはご紹介できるよう準備をしたいと思いますし、ご期待いただきたいと思います。
タイトルの角助・・・・
駒木村海上の角助、遠野郷しし踊りの創始者という位置付けの人物である。
「遠野古事記」には駒木村の「覚助」が京都の帰りに京都近くで習い覚えてきたことが記されている。
また「上閉伊郡志」には駒木村の角助が京都の帰り、遠州掛川(静岡県)において習い覚えてきたと記されている。
その共通点は、「かくすけ」という人物が記されていることで、「かくすけ」なる人物が遠野郷しし踊りに何かしら多大な影響を与える人物であったことが伺えることでもありますが、いずれ駒木の海上で「覚助」という字の「かくすけ」さんは各家の系図、寺の過去帳では見当たらないといわれている。
しかし「角助」という名、字を使う人物は海上に実在しており、駒木しし踊りの語られる由来でも「角助」と伝えられている。
さらに角助の墓が存在しますが、この墓所はかつて角助屋敷といわれた場所で、角助のご子孫が住まいしていた住家があった場所とされております。
明治の初年まで家は存在していたそうですが、火災により焼失、今はその墓所のみが当時の面影を偲ばせております。
「はえもんだなっすっ」

さて、遠野郷八幡宮例大祭、遠野祭りでの駒木しし踊りの勇姿も記憶にまだ新しいところではありますが、今年は市合併記念と称して各地域の郷土芸能による競演会が27日、市民センターで開催されます。
駒木しし踊りは、出場団体の一番最後の登場、今年の踊り収め的なことでもありますが、終った後は、関係者によりご苦労さん会が予定されております。
今年後半は、遠野郷しし踊りでの駒木踊りの由来等を少し詳しく調べてウエブサイトにご紹介と目論んでいたが、なかなか手が回らず来年以降の懸案事項となりそうな感じでもあります。
まあ・・それでもなんとか来年辺りはご紹介できるよう準備をしたいと思いますし、ご期待いただきたいと思います。
タイトルの角助・・・・
駒木村海上の角助、遠野郷しし踊りの創始者という位置付けの人物である。
「遠野古事記」には駒木村の「覚助」が京都の帰りに京都近くで習い覚えてきたことが記されている。
また「上閉伊郡志」には駒木村の角助が京都の帰り、遠州掛川(静岡県)において習い覚えてきたと記されている。
その共通点は、「かくすけ」という人物が記されていることで、「かくすけ」なる人物が遠野郷しし踊りに何かしら多大な影響を与える人物であったことが伺えることでもありますが、いずれ駒木の海上で「覚助」という字の「かくすけ」さんは各家の系図、寺の過去帳では見当たらないといわれている。
しかし「角助」という名、字を使う人物は海上に実在しており、駒木しし踊りの語られる由来でも「角助」と伝えられている。
さらに角助の墓が存在しますが、この墓所はかつて角助屋敷といわれた場所で、角助のご子孫が住まいしていた住家があった場所とされております。
明治の初年まで家は存在していたそうですが、火災により焼失、今はその墓所のみが当時の面影を偲ばせております。
角助の魂が、私の中にありまして・・・
(妙な事、書いて申し訳ないです)
変やー!!と思ったら、放っておいてください。
チャネリングで角助なる人物が現れたのですが、本人は死んでいるという自覚が無く、生きている感覚なのです。
本人に死んだという事を自覚してもらう為、色々調べています。
エロ将軍「角助」という人物も出てきました。(実在するか、どうかが知りたいです。)
何処にも家系図も無く・・・
これはもう、霊視で探すしかない!と思いまして。
そうであれば、色々感じるので・・・
突然、申し訳ないです・・・
こうして、書き込みをしていると、体が死んだ様に冷たいので・・・
もしかしたら、遠野の角助なのかも!?
他にも、織田 信長に関係する角助も居たみたいで・・・
浮かんでくるキーワードや感覚で探すしかないみたいです。
踊り…これも共通点かもしれません。
それから、最近、静岡の事がものすごく気になります。静岡、来てます・・・。
更に、掘り下げてみると阿波の忌部族にも繋がったりと・・・
点と点が見えて来たところです。
まだまだ、線では繋がりませんが。
死んだことを自覚させ、今までしてきたことの罪を償い清め行くべき所へ行って貰う。
というのが、今の私の務めのようです。
ほんとに、突然、訳のわからんコメントでごめんなさい。
・・・至って真剣に書いてますので。
それではまた・・・!
はじめまして、またかれこれ半年以上前の記事にコメントをいただきまして、ありがとうございます。
角助話題ということで・・・いたってマジメとのことですから私もマジメにコメントさせていただきます。
その角助さんが、もし遠野縁の方ならば、遠野郷しし踊りは何処で習い覚えたのか、伝えられるように遠野での創始者なのか・・・もしお聞きできるのであえば聞いてくれませんか・・・また何かこのことを書き記した資料等が何処かに隠されているのでしたら、こちらもお願いします。
遠野郷しし踊り・・・どこが元祖なのかは今現在どうでもよいことで、このことによる実害はないものと思いますが、もしその創始に関わる資料等でも出てくれば遠野郷土史界、民俗学界の大発見でもありますから・・・・。
書き込みでは昇天させるといったことでもあるようですから、是非にそうさせてあげてください。
では失礼いたします。
薄皮を剥いでいく様に解ってくるかと思いますので…
気長くお待ちくださいね!
よろしくお願いします。
苗字が解りました。
浅野 角助だそうです。
矢で死んだ事、牛久城を譲り受けた事などが、わかっています。
踊りと関係あるかどうか、今度、聞いてもらおうと思っています。
具体的な事柄がわかりかけているようですね、牛久といえば茨城、また矢をうけ城を譲りうける・・・これは戦国時代とか中世の人物のようですね。
当地の角助は江戸中期の人物とされ、一応に苗字はないものの、中野という村落に住まいしていたので中野角助と名乗っていた可能性もございます。
おそらく、くま★きちさんの角助とは違う人物という線が強まっていると思います。
お知らせ感謝です。