「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

松虫・鈴虫伝説

2010-01-14 18:45:11 | 福泉寺・伝承等

松虫・鈴虫物語

 鎌倉時代初期、法然上人の弟子で住蓮房と安楽房の二僧は、京都鹿ヶ谷にて庵をむすび広く人々に念仏を広めていた。
  後鳥羽上皇が寵愛していた官女、松虫・鈴虫両姫が上皇が熊野参詣の留守の折、出家してしまう事件がおこる。
  激怒した上皇は法然上人一派の弾圧に乗り出し(建永二年・1207年)法然上人は土佐へ親鸞聖人は越後へ流罪、住蓮と安楽は斬刑に処せられる。
  松虫・鈴虫両姫は悲しみのあまり自害して果ててしまう・・・。

 以上が松虫・鈴虫物語の概要である。
 

 松虫・鈴虫物語では、両姫は自害という結末ですが、両姫は出家後、紀伊の粉河寺に身を隠していたが住蓮・安楽のことが気になり乞食姿で京を訪れる、その日は二僧が処刑された翌日で、処刑されたのは上皇の許しなく出家したことが原因と思い、二僧を慕って一日も早く二僧の元へ行きお詫びしたい一念で鹿ヶ谷で自害したいうことです。
 ところが、もうひとつの説では、両姫は出家後、安住の地を探していたといい、法然上人の弟子で後白河法皇の姫、如念尼公(親子内親王)に相談し瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明坊(現広島県)を選び、光明坊で余生を過ごしたと伝えられている。
 松虫姫・・・元仁元年(1224)11月18日 36歳にて往生
 鈴虫姫・・・嘉貞元年(1235)4月29日  45歳にて往生

 

我家の伝説

 我家に伝えられている伝説は、その昔、松虫・鈴虫(我家では鈴虫・松虫)といわれる尼様が古に住まいしていたというのみで、詳細は伝えられていない、また古文書、史跡の類もなく、口伝えによるものです。

 我先祖がその昔、家を建て住まいした場所は宮中に関わった女性、すなわち尼様のお二人が住まいしたところといわれ、宮洞と地域では呼ばれていた場所で、このことで我家の屋号は「宮洞(みやほら)」となったと伝えられている

 

福泉寺 愛宕大権現

 

 


画像は昨年冬撮影

松虫・鈴虫物語の成立と史実

 一般的に広く知られ語られている松虫・鈴虫物語は、江戸末期発行の「安楽寺略縁起」・明治32年刊行されたという「住蓮山安楽寺鹿ヶ谷因縁談」等がある。
 上記の内容には物語でのヒロインとして松虫・鈴虫が登場しているが、史実としての建永の法難を紹介する文献には松虫・鈴虫の名は何処にもないとのこと。
 史実としての建永の法難という大事件の直接的な原因とされる官女の出家にもかかわらず、二人の女性について記述がどの文献にも書かれていないのは何故か?
 京都左京区鹿ヶ谷・松虫・鈴虫ゆかりの寺・「住蓮山安楽寺」伊藤住職様の研究論文によると両姫が登場する最古の文献は大分県浄土真宗西本願寺派専想寺に所蔵されている談義本「松虫鈴虫物語」で室町時代末期の写本との見解がされてる。
 建永の法難といわれる歴史的事件に関し、後鳥羽上皇に仕える官女等が法然上人一派による「六時礼讃」に魅了され御所を抜け出す女人もいたといわれる事実、実際に出家に及んだ官女もあったと記述する文献も存在しており、後鳥羽上皇に仕える官女の出家が引金となり建永の法難が勃発したのは間違いないとの見解であり、松虫・鈴虫のモデルとなった女性が実際に存在し、室町期、浄土真宗で説く女人往生にふさわしい出来事であり、さらに松虫・鈴虫という美しい響きの名として物語に命を吹き込んだものではないか・・・・とある。

 

住蓮山安楽寺(京都市)

 

 京都での松虫・鈴虫物語と遠野との関わりは、何処にあったのか?

 我家以外に遠野には似たような話が残されている雰囲気は皆無で、伝説といいながらも、ただ二人の宮中に関係した尼様が住んでいたというのみで、つかみどころがない。

 この調べもひとつの懸案事項として取り組んではみたものの、雲をつかむような内容で、原点を求めて京都安楽寺も直接訪ねましたが、全く以て手の付けようがないのが現状となっている。

コメント (6)
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