「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

古文献?と遠野の館

2008-05-21 15:54:06 | 歴史・民俗
 遠野郷内の城館跡探訪の際に大きな力となる資料「遠野市における城館屋敷跡調査報告書」昭和59年調査・昭和62年報告・・・の完全版のコピーを入手したことにより、場所の特定が格段としやすくなったこと、要図も掲載、さらに不明な点は不明としながらも、館に関連する人物名も少ないですが網羅されている点で、城館跡探訪ではかなり重宝しております。

 またその報告書の内容での考察も参考になる部分があるのですが、数年前に報告書の一部と館跡一覧表のコピーを先行入手、これを見た際にちょっと気になること、違和感を覚えることがありましたし、昨年資料全てを手にしたことにより、この気になることに拍車がかかっておりました。


 遠野市内140弱の城館屋敷跡を調査されたお二人の先人郷土史家の先生方には頭が下がる思いですし、私のような後年にこれらを調べる人間にとってはありがたい資料であり、あらためまして敬意を表したいと思います。


 さて、此処からが本題となりますが・・・・・

○東日流外三郡誌と遠野の館

 遠野の城館跡に関する報告書での考察に「東日流外三郡誌」から引用、参考とした旨が記されている。
 中世期の遠野を考察するには史料等が皆無に近く、これらの時代の見解を記するということは甚だ難しいことでもありますが、なるほど・・・と納得する場面があったり、しかも安倍時代と考察される館跡に関しては、少ないながらも具体的な人物名が記されており、何故にその関連人物が判明しているのか?実は感心したり疑問もあったりしていたんです。



東日流外三郡誌・・・とくれば歴史に携わる方々、興味がある方々にはお判りだと思いますが、その存在に賛否両論があって、どちらかといえば、というより限りなく黒、はっきりいえば偽物・・・こちらの見解が強い内容となっていると思いますが、東日流外三郡誌の虜になった東北在の郷土史家の方々が多数発生したということがあり、遠野に於いても少なからず城館跡に関る考察に影響があったということは否定できないことでもあると思われます。


 ※検索サイトにて「東日流外三郡誌」を検索すれば、その内容や論争やら顛末が分ると思います。


 東日流外三郡誌を実は読んだことはなかったのですが、このことが少し気になりだした辺りからネットで調べたり、図書館にて実際に刊行された書を手にしたりしておりました。
 但し、実際は城館跡資料に記載の部分が果してあるのか、ないのか、これを確かめることでもありましたが、遠野関連での内容を確認できずにおります。
 本日も図書館にて確認作業として拝読しましたが、やはり見つけられず・・・。

 私が持っているコピーの中に東日流外三郡誌の掲載として・・・「閉伊武鑑抄」に遠野郷内の館主等が掲載されている。
 
 お2人の郷土史家が城館跡の報告書をまとめた昭和59年~62年は、おそらく東日流外三郡誌の是非をめぐって論争等が沸き起こっている頃で、その内容は理解されていたものと思いますが、それでもどこまで情報をもっていたものなのか?いずれ驚愕したただろう雰囲気はなんとなく感じられます。


 此処で東日流外三郡誌が正か偽か・・・を論ずることは避けますが、発見者自らの筆により近年に書かれた内容だとする偽物だとして、かなり遠野をはじめ各地の地勢なり歴史を知っている内容でもあり、この点ではよく調査されたのか、それとも別な資料等を熟読されたことになると思います。
 特に面白いことに、遠野の城館跡調査報告書をみますと、東日流外三郡誌に記述される地名が実際に遠野にあったという点、単に津軽も遠野も同じ北奥羽の内だから同様の地名があってもおかしくない、そういった発想では済ませられない内容も実はあるのではないのか?、なんとも不思議な思いでもあります。


 ということで安倍時代、それ以前といわれる内容を主に見解が示されているものですが、私としては資料は資料として館跡探訪に関しては活用はいたしますが、あくまでも見た目を大切に・・・実際に史跡(館跡)は自身の目で確かめてから・・・・これでいきたいと思います。


 安倍氏関連ということで・・・



堀跡を利用か?







 安倍屋敷跡とくれば隣接の観光地・・・・かっぱ淵

 平日ということもあり観光客はまばらでしたが、それでもチラホラと訪れているようです。



  
コメント (16)
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