文治5年(1189)、源頼朝による奥州平泉の藤原氏征討により、黄金文化に彩られた奥州藤原氏の栄華は幕が降ろされる。
鎌倉方の武将として奥州の戦陣にあって、その戦功により下野国(栃木県)の住人、阿曽沼広綱に遠野保が恩賞として与えられ、地頭職に補せられたことにより遠野は阿曽沼氏の統治することになったと伝えられている。
遠野に隣接する地域や奥州各地も和賀氏、葛西氏等・・・鎌倉御家人に分け与えられたことになっている。
源頼朝により遠野が阿曽沼氏に与えられたという史料による確証は見当たらないが、伝承として長らく語られていただろうと推測される点、慶長年間までの俗にいう遠野阿曾沼時代といわれる長き時代に於いて、領主、或いはそれに近い存在で阿曽沼を名乗る武家が代々語られる点、また建武元年北畠顕家から北奥羽権断職であった南部師行宛の国宣(遠野南部家文書)に「阿曽沼下野権守朝綱代、朝兼申。遠野保事・・・・」とあるように遠野と阿曽沼氏の関係が極めて深いことが伺われる。
阿曽沼館跡・・・松崎町駒木(下駒木)
阿曽沼広綱は同族で重臣であった宇夫方広房を代官として遠野へ派遣、下野本国からの遠隔統治をしていただろうという考察がなされている。
宇夫方広房が遠野へ下り、その第一歩として落着いた先が松崎町駒木の地であったと伝承されている。
下駒木・・・阿曽沼館跡のあった一部
集落を流れる東~南は大沢川を天然の堀となし、西は猿ヶ石側を、北は大沢川から分かれた小川や段差を利用する工作をしたものと推察されますが、大沢川の片岸が当時を偲ばせる雰囲気が若干残されているのみである。
何故、阿曽沼氏代官とはいえ、阿曽沼館と伝え語られているのだろう・・・宇夫方館でもよさそうなものですし、伝承では横田城が築かれた建保年間までの20数年のみ在館と語られている。
かなりの推測も含まれますが、大方現下駒木の下村~上駒木バス停上方付近までが範囲と推測しております。
さて、ここからが妄想なのですが、宇夫方氏や阿曽沼氏の本格下向での考察は次回以降となりますが、宇夫方氏が当初駒木に築いた阿曽沼館、この後に宇夫方氏は綾織の谷地館を築いて松崎の地から移動、駒木には阿曽沼の名を持つ主家に連なる一族か庶流が下向したものではないのか、宇夫方氏が領内の政治、軍事全般を司り、駒木にいた阿曽沼氏は形ばかりの代官職だった可能性があるのではないのか、このことが後の時代、建武年間での国宣で知られる事件へ繋がる何かがあるような・・・・駒木の阿曽沼館、かなり後の時代に阿曽沼館と名付けられた雰囲気がひしひしと伝わりますが、当地には館に関連する姓名、屋号も現存し、割と長い間、館として機能していたものと思われます。
南方面の大沢川
川はコンクリートで固められ、その流れも結構変わってしまいましたが、それでも幼き頃の記憶を紐解けば、随所に館跡としてみた場合の遺構なんかもあったような思いもあります。
今はただ妄想、想像といった分野にて一人その時代を偲ぶのみかもしれません。
鎌倉方の武将として奥州の戦陣にあって、その戦功により下野国(栃木県)の住人、阿曽沼広綱に遠野保が恩賞として与えられ、地頭職に補せられたことにより遠野は阿曽沼氏の統治することになったと伝えられている。
遠野に隣接する地域や奥州各地も和賀氏、葛西氏等・・・鎌倉御家人に分け与えられたことになっている。
源頼朝により遠野が阿曽沼氏に与えられたという史料による確証は見当たらないが、伝承として長らく語られていただろうと推測される点、慶長年間までの俗にいう遠野阿曾沼時代といわれる長き時代に於いて、領主、或いはそれに近い存在で阿曽沼を名乗る武家が代々語られる点、また建武元年北畠顕家から北奥羽権断職であった南部師行宛の国宣(遠野南部家文書)に「阿曽沼下野権守朝綱代、朝兼申。遠野保事・・・・」とあるように遠野と阿曽沼氏の関係が極めて深いことが伺われる。
阿曽沼館跡・・・松崎町駒木(下駒木)
阿曽沼広綱は同族で重臣であった宇夫方広房を代官として遠野へ派遣、下野本国からの遠隔統治をしていただろうという考察がなされている。
宇夫方広房が遠野へ下り、その第一歩として落着いた先が松崎町駒木の地であったと伝承されている。
下駒木・・・阿曽沼館跡のあった一部
集落を流れる東~南は大沢川を天然の堀となし、西は猿ヶ石側を、北は大沢川から分かれた小川や段差を利用する工作をしたものと推察されますが、大沢川の片岸が当時を偲ばせる雰囲気が若干残されているのみである。
何故、阿曽沼氏代官とはいえ、阿曽沼館と伝え語られているのだろう・・・宇夫方館でもよさそうなものですし、伝承では横田城が築かれた建保年間までの20数年のみ在館と語られている。
かなりの推測も含まれますが、大方現下駒木の下村~上駒木バス停上方付近までが範囲と推測しております。
さて、ここからが妄想なのですが、宇夫方氏や阿曽沼氏の本格下向での考察は次回以降となりますが、宇夫方氏が当初駒木に築いた阿曽沼館、この後に宇夫方氏は綾織の谷地館を築いて松崎の地から移動、駒木には阿曽沼の名を持つ主家に連なる一族か庶流が下向したものではないのか、宇夫方氏が領内の政治、軍事全般を司り、駒木にいた阿曽沼氏は形ばかりの代官職だった可能性があるのではないのか、このことが後の時代、建武年間での国宣で知られる事件へ繋がる何かがあるような・・・・駒木の阿曽沼館、かなり後の時代に阿曽沼館と名付けられた雰囲気がひしひしと伝わりますが、当地には館に関連する姓名、屋号も現存し、割と長い間、館として機能していたものと思われます。
南方面の大沢川
川はコンクリートで固められ、その流れも結構変わってしまいましたが、それでも幼き頃の記憶を紐解けば、随所に館跡としてみた場合の遺構なんかもあったような思いもあります。
今はただ妄想、想像といった分野にて一人その時代を偲ぶのみかもしれません。