どんよりとした天気、気温は高めながら、スカッとした青空が望めない日々、そんな中、だいぶ雪も融けたということで、未踏の館跡のひとつでもと思い立ち、上郷方面へ・・・・・。
途中気が変わり、愛車「白濁酒特区スッケ号」は来内方面へ進路変更、遠野町分かと思われますが、〆田集落を過ぎて館前と地元で呼ばれる場所にあるという長洞館を探訪いたしました。
当初、遠野町方面から上郷町来内へ向かって左手の山野が怪しいと睨んでいたが、来内在住の同僚から来内川の反対側、すなわち南側の山野であると教えられておりましたので、川向こうの山野を気にしながら車を走らせる。
急勾配の山肌に竪堀らしき溝が見える、さらに山頂部に土塁らしき人工的に盛られたような不自然な形状を確認、長洞橋付近に車を停めて、川向こうの廃屋脇から山野へ突入・・・・。
山頂から〆田方面を望む
館跡の山野背部(南)は、山林の伐採作業が行なわれたようで、丸裸、しかも至る所に木出しのためと思われる林道が敷設され、頂部付近は結構破壊されている状況であった。
主郭だったと思われる山頂
まっ、館が機能していた頃は、木々が無かったと思われますが、それでも少しだけ気が重いのも確かでもあります。
気を取り直して来内川寄りの山野へ入ると、判別可能の空堀跡が出現、二重堀確認、さらにこれらは竪堀となって来内川方向へ下っているのが確認できる。
先人の見解では、ご他聞にもれず安倍時代築と推測されておりますが、この長洞館、確かに取り巻く空掘は遠野に多い規格に近いながらも、帯郭が2段しか確認できない、さらに竪堀の左右の斜面には数段の帯郭が配置されているのが多いのですが、皆無・・・・・時代的には戦国といった雰囲気から少しだけ遠ざかる思いがいたしました。
空掘跡
館主・不詳 築年代、使用年代、推測としながらも安倍時代・・・。
このルートは気仙への交通の要衝であり、直線距離で南東へ1キロ付近には来内館、さらに遠野へ向かっての北方面2キロに袖高屋館が配置されている。
この長洞館は、生産量のある集落を抱えていたのだろうか、現代的な感覚ながらも、来内川沿いの極めて狭い土地柄、農地や集落を抱えていたとすれば来内集落と考えてしまいますが、それでも農業生産を多くは望めない土地との印象でもある。
長洞館を廃して来内館へ館主一族は移動したものか、或いはその逆か、はたまた軍事、交通の要衝に配置された砦的な要素が強いものなのか、それとも金とか鉱物資源を抱えたがために造られた館なのか、軍事・交通の要衝といったこと意外は謎の館跡かもしれません。
少し残念なことは山頂の背部半分が林道敷設等でだいぶ破壊されていること、背面を取り囲んでいただろう空堀がそのまま削られて林道となっている雰囲気もありますが、木々が伐採されて少し当時の面影を偲ぶこともできるといったなんとも複雑な心境がした館跡でもありました。
いずれ本編サイトで私的考察を含めましてご紹介したいと思います。
途中気が変わり、愛車「白濁酒特区スッケ号」は来内方面へ進路変更、遠野町分かと思われますが、〆田集落を過ぎて館前と地元で呼ばれる場所にあるという長洞館を探訪いたしました。
当初、遠野町方面から上郷町来内へ向かって左手の山野が怪しいと睨んでいたが、来内在住の同僚から来内川の反対側、すなわち南側の山野であると教えられておりましたので、川向こうの山野を気にしながら車を走らせる。
急勾配の山肌に竪堀らしき溝が見える、さらに山頂部に土塁らしき人工的に盛られたような不自然な形状を確認、長洞橋付近に車を停めて、川向こうの廃屋脇から山野へ突入・・・・。
山頂から〆田方面を望む
館跡の山野背部(南)は、山林の伐採作業が行なわれたようで、丸裸、しかも至る所に木出しのためと思われる林道が敷設され、頂部付近は結構破壊されている状況であった。
主郭だったと思われる山頂
まっ、館が機能していた頃は、木々が無かったと思われますが、それでも少しだけ気が重いのも確かでもあります。
気を取り直して来内川寄りの山野へ入ると、判別可能の空堀跡が出現、二重堀確認、さらにこれらは竪堀となって来内川方向へ下っているのが確認できる。
先人の見解では、ご他聞にもれず安倍時代築と推測されておりますが、この長洞館、確かに取り巻く空掘は遠野に多い規格に近いながらも、帯郭が2段しか確認できない、さらに竪堀の左右の斜面には数段の帯郭が配置されているのが多いのですが、皆無・・・・・時代的には戦国といった雰囲気から少しだけ遠ざかる思いがいたしました。
空掘跡
館主・不詳 築年代、使用年代、推測としながらも安倍時代・・・。
このルートは気仙への交通の要衝であり、直線距離で南東へ1キロ付近には来内館、さらに遠野へ向かっての北方面2キロに袖高屋館が配置されている。
この長洞館は、生産量のある集落を抱えていたのだろうか、現代的な感覚ながらも、来内川沿いの極めて狭い土地柄、農地や集落を抱えていたとすれば来内集落と考えてしまいますが、それでも農業生産を多くは望めない土地との印象でもある。
長洞館を廃して来内館へ館主一族は移動したものか、或いはその逆か、はたまた軍事、交通の要衝に配置された砦的な要素が強いものなのか、それとも金とか鉱物資源を抱えたがために造られた館なのか、軍事・交通の要衝といったこと意外は謎の館跡かもしれません。
少し残念なことは山頂の背部半分が林道敷設等でだいぶ破壊されていること、背面を取り囲んでいただろう空堀がそのまま削られて林道となっている雰囲気もありますが、木々が伐採されて少し当時の面影を偲ぶこともできるといったなんとも複雑な心境がした館跡でもありました。
いずれ本編サイトで私的考察を含めましてご紹介したいと思います。