「シルマシ」とは「知らせ」とある・・・遠野物語
私が小学3年生の初夏の頃かと記憶している。当時はこの時季、駒木小、附馬牛小、東禅寺小の3校で市内小学校野球大会の地区予選を行っていました。この予選を勝ち抜くと決勝大会に進出できるのですが(途中からソフトボール大会に変更)この予選会を勝ち抜くために先輩達は放課後練習に明け暮れておりました。
私は3年生でしたので、野球には「かでで」(加えて)もらえず、年上の幼馴染達の練習をみたり、年下の子供たちと校庭の端っこでテニスボールで野球の真似事などを毎日しておりました。
練習期間中の放課後、ほぼ毎日、一端家に帰ると直ぐに自転車でまた学校へ来る、それは野球の練習に加わっている同じの上級生達が居て、彼らとはいわば幼馴染、練習が終わった後、彼らと遊びたいがための行動でもありました。
練習は午後5時半にはいつも終わり、この時季は陽が長いこともあって、夕方7時頃まではいつも遊んでいました。この日も7時近くまで遊んでましたが、晴れているのに日暮れが早いのか、少しいつもより暗くなるのが早いと感じておりました。暗くなりだしますと、誰ともいわず「今日は、けえっぺ」「んだな」ということで家路を急ぎました。
自転車は小屋に入れておくのですが、自転車で小屋に入ってきた時には、かなり暗くなりだしており、小屋の中には耕運機とトレーラーが置いてあるのですが、耕運機のタイヤは中央のホイールが真っ白で多少暗くても白く浮かび上がって見えてました。
自転車を押して小屋に入ると、誰かに見られている、そんな感覚でもありましたが、何故かなかなか自転車のスタンドが立てれない、そのうちに少し恐怖心みたいなものも湧き上がってきて、このまま自転車を倒して家に入ろうと考えはじめた矢先、耕運機のタイヤ、白く見えるはずが、人がうずくまって顔だけこちらを見ている姿に見えたのです。しばらくは動けませんでした・・というより時間的な感覚はわかりません、とにかく自転車はそのまま放り投げた形で、走って家の中に入りました。
台所には母親が夕飯の支度をしておりましたが「小屋さ誰がいだっ~」母「誰いだってよ」私「誰がしゃがんでら」母「どりゃ」・・こんな会話の後、母親の後を付いて小屋に行ってみましたが誰もいません、耕運機のホイールは白く浮かび上がっているだけでした。
私「ほんとにいだった、おっかねがった」母「なんだったべな」・・・・
翌日、いつものように学校に登校しましたが、お昼近く、職員室に母親から電話がありました。すぐ私は先生から綾織のおばあさんが亡くなったそうですから、すぐ家に帰ってくださいと言われ、帰宅しました。
家に帰ると母親が着替え等を準備してましたが、開口一番、「おめ小屋でみだもの、ばっちゃんだったんだ、知らせに来たんだ・・・」母方の祖母は長らく病床にあったのですが、私に会いに来たものかはわかりませんが、小屋で体験した翌日、午前中に帰らぬ人となりました。最後に私が見舞ったといいますか、会ったときは身体が半分になったのではないかと思うくらい小さくなっていた記憶があります。それでも私に漢字などを教えてくれたのでした。
53歳という若さでした。
私が小学3年生の初夏の頃かと記憶している。当時はこの時季、駒木小、附馬牛小、東禅寺小の3校で市内小学校野球大会の地区予選を行っていました。この予選を勝ち抜くと決勝大会に進出できるのですが(途中からソフトボール大会に変更)この予選会を勝ち抜くために先輩達は放課後練習に明け暮れておりました。
私は3年生でしたので、野球には「かでで」(加えて)もらえず、年上の幼馴染達の練習をみたり、年下の子供たちと校庭の端っこでテニスボールで野球の真似事などを毎日しておりました。
練習期間中の放課後、ほぼ毎日、一端家に帰ると直ぐに自転車でまた学校へ来る、それは野球の練習に加わっている同じの上級生達が居て、彼らとはいわば幼馴染、練習が終わった後、彼らと遊びたいがための行動でもありました。
練習は午後5時半にはいつも終わり、この時季は陽が長いこともあって、夕方7時頃まではいつも遊んでいました。この日も7時近くまで遊んでましたが、晴れているのに日暮れが早いのか、少しいつもより暗くなるのが早いと感じておりました。暗くなりだしますと、誰ともいわず「今日は、けえっぺ」「んだな」ということで家路を急ぎました。
自転車は小屋に入れておくのですが、自転車で小屋に入ってきた時には、かなり暗くなりだしており、小屋の中には耕運機とトレーラーが置いてあるのですが、耕運機のタイヤは中央のホイールが真っ白で多少暗くても白く浮かび上がって見えてました。
自転車を押して小屋に入ると、誰かに見られている、そんな感覚でもありましたが、何故かなかなか自転車のスタンドが立てれない、そのうちに少し恐怖心みたいなものも湧き上がってきて、このまま自転車を倒して家に入ろうと考えはじめた矢先、耕運機のタイヤ、白く見えるはずが、人がうずくまって顔だけこちらを見ている姿に見えたのです。しばらくは動けませんでした・・というより時間的な感覚はわかりません、とにかく自転車はそのまま放り投げた形で、走って家の中に入りました。
台所には母親が夕飯の支度をしておりましたが「小屋さ誰がいだっ~」母「誰いだってよ」私「誰がしゃがんでら」母「どりゃ」・・こんな会話の後、母親の後を付いて小屋に行ってみましたが誰もいません、耕運機のホイールは白く浮かび上がっているだけでした。
私「ほんとにいだった、おっかねがった」母「なんだったべな」・・・・
翌日、いつものように学校に登校しましたが、お昼近く、職員室に母親から電話がありました。すぐ私は先生から綾織のおばあさんが亡くなったそうですから、すぐ家に帰ってくださいと言われ、帰宅しました。
家に帰ると母親が着替え等を準備してましたが、開口一番、「おめ小屋でみだもの、ばっちゃんだったんだ、知らせに来たんだ・・・」母方の祖母は長らく病床にあったのですが、私に会いに来たものかはわかりませんが、小屋で体験した翌日、午前中に帰らぬ人となりました。最後に私が見舞ったといいますか、会ったときは身体が半分になったのではないかと思うくらい小さくなっていた記憶があります。それでも私に漢字などを教えてくれたのでした。
53歳という若さでした。