遠野郷の偉人、縁の人物・第二弾・・・東北民謡の父、武田忠一郎先生
武田忠一郎先生(1892~1970)
明治25(1892)年5月、遠野に生まれ、父祖二代が教育者という厳格な家庭に育った。県立遠野中学校(現在の遠野高等学校)に進み、明治43(1910)年に岩手師範学校(現在の岩手大学教育学部)を卒業後、釜石高等小学校を振り出しに県下各地で教員生活を送るが、大正5(1916)年、少年時代から興味をもっていた民謡とわらべ唄の本格的な研究のために東洋音楽学校(現在の東洋音楽大学)に通い、同7(1918)年に卒業。岩手に帰り、大槌女子職業学校をはじめ方々の女学校で教鞭をとるかたわら、東北各地を訪ねて採譜の仕事を続けた。
この間に同僚の教員・石垣きんと結婚し四人の子に恵まれるが、昭和8(1933)年に妻・きんが死去。のちに弟子の大西玉子(民謡歌手)と昭和14(1939)年に再婚。
昭和16(1941)年にNHK仙台中央放送局に嘱託として迎えられ、"民謡採譜編集業務"を担当し、戦時下の物資不足の中で昭和17(1942)年から『東北の民謡第一篇~岩手県の巻』の発刊を開始し、昭和37(1962)年までに『東北民謡集全8巻』を完成させた。また昭和30(1955)年には仙台市に我が国初の「東北民謡学校」を開設し、校長に就任した。
作曲家としても知られ、母校・遠野中学校の校歌をはじめ、展勝地小唄や松尾鉱山小唄など県内外の民謡を作曲、「外山節」を編曲してヒットさせた。また昭和30年作曲の「県南バスの歌」は、本県初のコマーシャルソングとして多くの人々に親しまれた。また「南部牛追唄」など岩手の民謡を合唱曲に編曲したり、民謡にオーケストラの伴奏をつけたりするなど民謡界に新風を吹き込み、高く評価された。
昭和45(1970)年12月、仙台にて82歳で生涯を終えた。
また武田忠一郎先生はヴァイオリンの名手としても高名である。
・・・一部岩手日報記事より抜粋引用・・・
ということで、知る人ぞ知る武田先生、近年の東北民謡の父と呼ばれ、東北の民謡の多くを全国へ紹介した人物であるが、実は私はホームページを開設するまでは知りませんでした。まだまだ勉強不足であります。
画像は・・武田忠一郎先生の碑・・・裁判所前
武田忠一郎先生(1892~1970)
明治25(1892)年5月、遠野に生まれ、父祖二代が教育者という厳格な家庭に育った。県立遠野中学校(現在の遠野高等学校)に進み、明治43(1910)年に岩手師範学校(現在の岩手大学教育学部)を卒業後、釜石高等小学校を振り出しに県下各地で教員生活を送るが、大正5(1916)年、少年時代から興味をもっていた民謡とわらべ唄の本格的な研究のために東洋音楽学校(現在の東洋音楽大学)に通い、同7(1918)年に卒業。岩手に帰り、大槌女子職業学校をはじめ方々の女学校で教鞭をとるかたわら、東北各地を訪ねて採譜の仕事を続けた。
この間に同僚の教員・石垣きんと結婚し四人の子に恵まれるが、昭和8(1933)年に妻・きんが死去。のちに弟子の大西玉子(民謡歌手)と昭和14(1939)年に再婚。
昭和16(1941)年にNHK仙台中央放送局に嘱託として迎えられ、"民謡採譜編集業務"を担当し、戦時下の物資不足の中で昭和17(1942)年から『東北の民謡第一篇~岩手県の巻』の発刊を開始し、昭和37(1962)年までに『東北民謡集全8巻』を完成させた。また昭和30(1955)年には仙台市に我が国初の「東北民謡学校」を開設し、校長に就任した。
作曲家としても知られ、母校・遠野中学校の校歌をはじめ、展勝地小唄や松尾鉱山小唄など県内外の民謡を作曲、「外山節」を編曲してヒットさせた。また昭和30年作曲の「県南バスの歌」は、本県初のコマーシャルソングとして多くの人々に親しまれた。また「南部牛追唄」など岩手の民謡を合唱曲に編曲したり、民謡にオーケストラの伴奏をつけたりするなど民謡界に新風を吹き込み、高く評価された。
昭和45(1970)年12月、仙台にて82歳で生涯を終えた。
また武田忠一郎先生はヴァイオリンの名手としても高名である。
・・・一部岩手日報記事より抜粋引用・・・
ということで、知る人ぞ知る武田先生、近年の東北民謡の父と呼ばれ、東北の民謡の多くを全国へ紹介した人物であるが、実は私はホームページを開設するまでは知りませんでした。まだまだ勉強不足であります。
画像は・・武田忠一郎先生の碑・・・裁判所前