「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

和賀岩崎の陣・参

2010-03-02 15:14:06 | 歴史・民俗

 慶長5年9月、和賀主馬忠親に率いられた和賀一揆勢による南部方、鳥谷崎(花巻)城攻めが失敗に終わり、和賀一揆勢は二子城(北上市)へ撤退、程なくして和賀岩崎城へ一揆勢は移動して岩崎城に篭城するに及んだ。

 

岩崎城跡

〇伊達政宗の思惑

 

 天下人、豊臣秀吉が没すると、近世への転換は急を告げ、諸大名の中の実力者、徳川家康と家康の独断を許すべからずと唱える石田三成との対立は避けられない雲行きが漂い始める。

 会津120万石の大大名、上杉景勝は石田派としての態度であったので、徳川家康の討伐対象となり、会津上杉討伐軍が東国へ進軍、この出来事が関ヶ原の目に見える直接的な要因でもあろう・・・・。

 そんな中、伊達政宗は徳川家康と結びつくことによって上杉家に対抗し、虎視眈々と南奥の盟主、いや奥羽全体の盟主の座を欲することを目論んでいたともいわれる。

 その思惑のひとつ、北で境を接する南部領侵食、支配権拡大の野心が見え隠れし、まずは和賀郡へその矛先を向け和賀郡旧主、亡き和賀義忠の子で和賀又四郎(後に主馬忠親)を利用しての政治的思惑が語られている。

  慶長5年(1600)、慶長3年ともいわれますが、伊達政宗は境目巡回と称して南部領和賀郡にほど近い、胆沢の地に足を運び同地の大林(平林)に和賀又四郎を呼び寄せ、かつて又四郎の父、和賀義忠が領していた和賀郡を南部利直から奪還の策を授けたと語られる。

 かくして和賀旧臣を以っての蜂起を促し、一揆成功の暁には伊達家旗下への取立てで和賀家再興を図るといった双方の利害が一致したことにより和賀岩崎一揆は勃発したと大方はみられている。

 伊達政宗による物理的援助の他に、伊達家家臣の白石宗直に命じ母帯越中、上郡山外記等をその後詰にあたらせたことによって和賀勢は大きな力を得、勝利を確信したものと思われる。

 伊達政宗による作戦ともいわれるが、南部領南の拠点は和賀郡と北で接する稗貫郡の鳥谷崎城(花巻)であり、花巻を抑えることでその後の戦況は有利となるとの目算で、まずは鳥谷崎城の攻略が発動される。

 

 和賀主馬に蜂起を促した伊達政宗であるが、徳川対石田の対決構図の中にあっても、天下の形成はどちらに転がるのか、多くの諸大名にあっては、様子見的な立場であった者も少なくない。

 南部利直もその一人でもあったと推測されますが、徳川家康の要請に応じて徳川方、山形の最上義光に加勢の軍勢を自ら率いて参陣はしているが、一方では上杉景勝に書状「秀頼様御奉公」を送っていることが明らかであり、その動揺がみてとれる。

 伊達政宗はこのような態度不鮮明であった南部利直を見透かし、上杉、石田側へ擦り寄る可能性を秘めた南部氏に対して和賀郡侵攻の策謀をめぐらせたともいわれ、あわよくば和賀、稗貫の各郡のみならず、南部領の大半を徳川家康と結ぶことによって支配圏拡大の野望があったものと推測できますし、万が一徳川方が石田方に敗れるようなことがあれば、この機に乗じて切り取れるところは切り取って少しでも勢力拡大の意図があったものかもしれない。

 いずれそのターゲットとされた南部利直の心中は察するに余りあるが、家康も政宗からの報告も受けていたと思われるも、同年9月、和賀一揆が勃発すると南部利直は、徳川家康の許しを得て同年10月初めに和賀勢鎮圧を口実に軍を最上から退いている。

 徳川家康は、伊達政宗の思惑を把握しながらも南部利直に南部領内の兵乱鎮撫の許しを与えたことになり、伊達政宗の策謀の上手を行く策士であると考えずにはいらない。

 既に関ヶ原での勝敗は決した直後ではあったが、伊達政宗は和賀主馬忠親による一揆をそのまま後援しつつ、後に遠野での騒乱では旧主、阿曽沼広長を庇護して遠野奪還の援助、さらに釜石狐崎館には領内の浪人を集めて侵攻させるなど1年以上にわたって南部領への策略を実行している。

 

 

おまけ

 

ネネ

 

 

いつものネネに戻っております・・・笑

 

ただ、薬が効いているのか、以前よりは少し大人目でもあります。

 

 

朝晩2回、10日分・・・

この薬が無くなる頃、本調子となってくれればと願っております。

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和賀岩崎の陣・弐

2010-02-22 18:26:06 | 歴史・民俗

 慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いの余波は奥州(東北地方)にも波及し、特に南部領となった和賀郡、稗貫郡(北上市・花巻市)では、豊臣秀吉による奥州仕置きで没落した和賀一族やその旧臣達が武装蜂起して旧領回復の戦いが繰り広げられたのであった。

和賀岩崎城跡(北上市)

2010年2月初旬撮影

 

前哨戦

 時は豊臣政権下の時代、天下人であった豊臣秀吉が没すると、五大老のひとり、徳川家康が実質的な権力者となりつつあった。

 家康と同じく五大老のひとり、会津の上杉景勝は豊臣家に対して謀反の嫌疑をかけられ、家康の呼び出しに応じなかったために、討伐対象とされ、徳川家康率いる討伐軍が奥州会津へ向かって進軍する。

 一方、豊臣内部では、石田三成が徳川家康に反抗する諸侯等を結集して、家康打倒の軍を起こし、まさに一触即発の様相を呈していた。

 奥州諸大名にも上杉討伐の激が家康よりもたらされていたが、奥羽諸侯の大半は徳川方となって山形の最上義光への加勢に最上山形へ軍勢を派遣、南部太守、南部利直は4千名余の軍勢を率いて最上山形へ参陣する。

 遠野の阿曽沼広長も、南部利直勢の一員として、自ら150名前後の兵を率いて最上へ参陣したという。(諸説色々とありますが、先人郷土史家の考察によれば100~200名だったのではないのかとされている。)

 また、南部勢4千余は、奥羽から最上に加勢した軍勢では一番の大兵であり、南部軍のほぼ総数に等しい数ではなかったのかと推察される。

 かくして、徳川勢は北関東に到着し会津を窺い、北は最上山形に奥羽の軍勢、東側では伊達政宗が一応睨みを利かせ会津の上杉を取り囲んでいる状況であった。

 ところが、同年9月、上方で石田三成が大軍を擁して本格的に動きだすと徳川家康は関東からとって返して両軍は関ヶ原で激突、歴史上有名な関ヶ原の戦いである。

 この戦いで徳川家康が勝利し、徳川幕府樹立への道を確立した戦いであるが、この間髪を縫って、慶長5年9月、和賀郡旧主であった和賀義忠の子、和賀主馬忠親(又四郎)は、南部領となっていた和賀郡内で和賀旧臣等を集めて武装蜂起、稗貫旧臣も加わり、まずは和賀氏のかつての居城であった二子城(飛勢城)を占拠、その勢いのまま、稗貫旧臣達も加えて、鳥谷崎城(花巻城)を攻撃する。(慶長5年9月17日とも20日とも語られる)

 一方、別働隊は田瀬方面(花巻市東和町)、安俵方面(花巻市東和町)へ進撃して攻撃を加え、さらに稗貫旧臣で大迫城主であった大迫右近の子、又三郎、又右衛門兄弟が南部方、田中藤四郎が守る大迫城を攻撃、攻撃側は200~300の軍勢だったいわれ、稗貫大迫旧臣の他に伊達政宗配下の猪倉伯耆の鉄砲隊の支援もあったといわれ激戦の末、大迫城を落した。

 

大迫城跡(花巻市大迫)

 

 和賀一揆勢の狙いは鳥谷崎城(花巻城)の奪取で、田瀬、安俵方面への進撃は陽動作戦だったとも語られ、鳥谷崎城の守将、南部家重臣の北信愛は、この方面へ城兵の大半を援兵として送っていたため、城兵は僅か10数名だったと伝えられている。

 和賀勢の先鋒、稗貫旧臣の根子内蔵助は和賀主馬率いる本隊の到着を待たずに城攻を敢行、鳥谷崎城は、三の丸、二の丸と落ちるも本丸では劣性な守兵ながらも、婦女子や老人も防御にあたり、攻撃をなんとか食い止め落城だけは免れていた。

 和賀主馬の本隊が攻城軍と合流するや否や、安俵方面へ出撃していた城方の軍勢がとって返して来たので、和賀勢は城攻を諦めて二子城へと退却したといわれる。

 

※参考図書、資料は最終章に記載いたします。

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岩崎の陣・南部対伊達

2010-02-04 17:42:58 | 歴史・民俗

岩崎城跡

岩手県北上市岩崎

 模擬天守閣がありますが、城が機能していた時代にこのような姿の城が建っていたわけではありません。(天守閣を模した建物は岩崎公民館(公民館閉鎖))

 

☆実録、岩崎の陣・・・南部、伊達、直接対決

○奥州仕置

 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めに参陣しなかった和賀氏惣領、和賀義忠は奥州仕置によって改易となった。

 今の北上地方を主に、西和賀、現花巻の東和町をも含む広大な地域を領有する和賀一族は没落、また近隣地域でも現花巻市を治めていた稗貫氏、岩手県南から宮城県北に威勢を奮っていた葛西氏も没落し、現岩手県の北上川流域地域の勢力地図が塗り替えられた瞬間でもあった。

 旧和賀、稗貫の各郡は浅野長政(豊臣秀吉の義兄弟)の管理下に置かれ、南部信直に新領地として与えられた。

 同年8月、奥州仕置軍が上方へ帰陣となると、旧大崎、葛西領(宮城県北~岩手県南)で大崎、葛西旧臣による一揆が勃発する。

 新領主の木村氏は窮地に陥り、後に没収・・・裏で伊達政宗の一揆扇動という内容も囁かれますが、この一揆は和賀、稗貫にも飛び火し、和賀旧領主、和賀義忠等、和賀、稗貫旧臣が蜂起して、二子城を奪還、花巻の鳥谷崎城も稗貫勢に攻められるも、南部信直が軍勢を率いて救援に赴いてなんとか稗貫勢を撃退するも、鳥谷崎城は後に稗貫勢に奪われ、和賀、稗貫は旧勢力が奪還という場面となった。

 翌天正19年2月、九戸政実(二戸)が南部信直に対して一揆を企てると、南部勢は劣性となり、南部信直は豊臣秀吉に援軍を要請、豊臣秀次(秀吉の甥)率いる中央の大軍が奥州に下って来たのである。

 先の大崎、葛西一揆は会津の蒲生氏郷や米沢の伊達政宗が鎮圧、和賀、稗貫一揆は浅野長政等の中央軍が鎮圧、和賀義忠は二子城から逃れた後に非業の最期を遂げたともいわれ、ここに北上川流域の争乱は沈静化する。

 また九戸の乱も中央軍によって鎮められ、豊臣時代が本格的に始まった時代でもあった。

※一揆という表現ですが、単なる農民等の蜂起とは異なり、かつては武士であった者たちが蜂起と内容で、まさに武装蜂起であり戦(いくさ)でもある。

 

 さて、本題の岩崎の陣、岩崎の戦いは、またの機会に記したいと思います・・・汗

 実はまだ詳細に把握した内容ではなく、また語れるほど勉強しているものでもないもので・・・・汗

 

 陽が沈む光景ですが、また陽が昇る時がやってくるという意味合いで気長にお待ちください・・・笑

 

 伊達といえば、伊達者といわれるように煌びやかで、何処かカッコいいというイメージがあると思います。

 南部は、百姓一揆が多発し、飢饉に度々襲われ、貧しいというイメージが一般的かもしれません。

 さらに人が良く、鈍くさいというイメージも少なからずあるかもしれません。

 

 皆さんも何処かで聞いたことがあるかもしれませんが・・・・

 伊達の殿様と南部の殿様が国境を決めるということで、お互い、日の出と共に城を出て、出会った所を境界にしようと・・・ということだったらしい。

 伊達の殿様は午(馬)に乗ってとの条件を出したそうですが、南部の殿様は、午(馬)を牛に読み間違えしまって、牛にのって出発、お互いは今の北上市の相去というところで出会ったということで、此処を境と定めて、互いに相去ったという由来だともいわれます・・・笑

 馬に乗った伊達の殿様は仙台から遠く離れた北上まで・・・一方、南部の殿様は盛岡から北上まで・・・・南部の人達は、伊達の人達のずる賢さに憤慨して、伊達者は油断するな・・・が教訓となったとのこと。

 

 まっ・・・笑い話的な内容でもありますが、実際は伊達、南部の境は天正末期、上で記した大崎、葛西そして和賀、稗貫一揆の後、伊達政宗が和賀郡や遠野と境を接する旧葛西領を豊臣秀吉から拝領した時からはじまりますが江戸時代になると藩境争いが深刻となり、藩境塚が各地設けられたようでもあります。

 

 かつては南奥州の覇者といわれた伊達氏、一方、南部氏は三日月が丸くなるまで南部領といわれるほど、広大な地域、北奥羽に君臨していたことが窺われ、南部氏の南下、伊達氏の中奥からの北進といったこともありますが、戦国時代に両者による直接的な戦い等は皆無でもあった。

 豊臣秀吉が死去し、関ヶ原の戦いの余波による慶長6年、7年に遂に岩崎の戦いで両雄が鉾を交えることになる。

 

 

 ということで、本日は嫁さんが奥州市水沢に用向きがあるということで、アッシー君となって行っておりました。

 夕方近くまで、用向きは終わらないということで、小生は何処かの温泉にでも浸かって時間潰しを目論んでのことでもあります・・・汗

 近辺では「さくらの湯」「薬師堂温泉」・・・と候補はありましたが、時間があるということで北上まで移動、かなり久しぶりの「逢坂温泉、宝珠の湯」に行って参りました。

 

 

ちょうど良い湯加減で、またまた表向きだけは、サッパリ・・・笑

 

 夏油方面に来たということで、岩崎城が目に止り、写真を数枚、こういったところから岩崎の陣となった次第です。

 城域はかなり広大といった雰囲気で、遠くからも斜面に階段状の平場が確認できましたが積雪が結構あって、探訪はもう少し先になりそうです。

 

 そして昼は・・・・大汗

 

今年2度目の盛岡冷麺・・・。

ミニビビンバと共にいただく・・・。

 

やはり美味かった・・・笑

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米ヶ崎城探訪

2010-01-27 18:16:24 | 歴史・民俗

 遠野市内をはじめ隣接市町村の山城等の城館跡探訪はオフシーズンですが、積雪がほとんどない県南地区や三陸沿岸地区の城館跡はベストシーズン、遠野でのオフに合せて少しでも他地域の城館跡を見てみたいということで、予てから気になっていた陸前高田の米ヶ崎城を訪ねて参りました。

 

米ヶ崎城

広田湾に若干突き出た半島に築かれた海の要害

葛西領気仙郡旗頭である千葉氏(浜田氏)の主城

 

空堀跡

県道38号広田~高田間の県道沿い近くに残されているかつての空堀跡の形状

 

 海側突端より現八幡社、本丸、二の郭、三の郭・・・さらに県道沿い、県道、JR大船渡線を越えての山野も城域といわれ、広大な城であったと思われます。

 

本丸から米ヶ崎八幡が鎮座する平場方面

 

本丸付近の空堀

幅25m~30mに及ぶ大きな空堀

 

突端部分、八幡社側の帯郭

 

米ヶ崎八幡神社

 

八幡社下の郭

 

本丸

 

 勢力と城館の大きさは、必ずしも比例しないともいわれるが、米ヶ崎城に関しては気仙郡千葉一族の旗頭に相応しい規模を誇ると正直思いました。

 しかし、実際にじっくり見れたのは海側の突端部分、米ヶ崎八幡とその周囲の郭、そして半島部分の最高点と思われる本丸跡付近が主でもありました。

 山野の中央付近は住宅地、畑等の農地で、かつての形跡を若干確認することはできますが、道路や宅地となったり、藪と畑といった組み合わせで探訪には少し難儀したのも事実でもありました。

 しかしながら、遠野では絶対見られない海に面した城跡、三方を海に面し、斜面には3段程度の帯郭が配置されていますが、最下部は海面も至近ということで小船等を寄せれば城に入ることも可能ということで、とにかく珍しいものを見たという思いが強いものとなっております。

 

八幡神社から広田湾(太平洋)

 

千葉氏(浜田氏)

 鎌倉時代初頭、葛西氏領に千葉一族が何家が入部したと伝えられるもその詳細は不明とされる。

 気仙郡の千葉氏は、最初本吉郡南部に入部した千葉氏が兄弟の一人を気仙郡へ分立させたことが始まりと伝えられ現在の陸前高田矢作辺りといわれる。

 これが矢作千葉氏であり、矢作氏は高田、広田方面に勢力を広げ、さらに後に浜田・高田・長部となる兄弟を各地に分立させ、気仙郡内の一大勢力へと成長していく。

 南北朝争乱が終焉して間もなく、浜田氏、長部氏に亀裂が生じ、一族間の争いとなり、浜田氏が長部氏を破ってその勢力下へ置くと高田氏の後継問題に付け入り浜田氏が養子を送り込んで実質的に高田氏も把握する。

 永正元年(1504)、時の浜田氏当主、浜田基継は磐井郡大原山吹城の大原信明と気仙矢作で戦っている。

 この戦いでは、浜田氏の宗家矢作氏は、大原方となった模様で浜田氏が敗れ、浜田氏は一時成りを潜めた時代が続くことになったと思われる。

 

浜田広綱の乱

 戦国末期、浜田氏当主、浜田安房守広綱時代に気仙郡千葉一族の旗頭としての地位を確固たるものとしたと推測されますが、永禄3年(1560)、浜田広綱は惣領葛西氏に背命して騒擾し、熊谷直賢らと交戦したが、熊谷勢の必死の反撃で降伏。

 この頃、高田城から米ケ崎城へと拠点を移し、軍拡を進め、浜田氏の軍事力は最大となり、天正15年、本吉重継と不和となり、本吉郡に侵攻したが、葛西太守の仲裁で撤兵する。

 しかし、翌天正16年春、再度本吉郡へ侵攻、浜田勢は防衛の主力である気仙沼熊谷勢と篠峯山麓で激戦を繰り広げるも、熊谷勢の奮戦の前に終始劣勢となり徐々に戦線か本吉郡から後退、ついに8月に浜田広綱は降伏した。

 この一連の合戦を「浜田広綱の乱」と称される。

 

 千葉安房守広綱(浜田安房守広綱)は、熊谷氏との戦いで敗れ惣領葛西晴信により浜田領が熊谷氏をはじめ浜田氏との合戦で功のあった諸将に分け与えられ、没落する。

 広綱は文禄年中に病没と伝えられる。

 

千葉安房守の墓



 

 米ヶ崎城本丸跡、北東端に千葉安房守(浜田)の墓所がある。

安房守、安房守夫人、家臣の大和田掃部、それともう一基

家臣の苗?姓・・・読めなかった・・・汗

 

 なお、米ヶ崎八幡神社関連で記名されるものには大和田姓が書かれていた。

 また、陸前高田市内には大和田姓が確認できる。

 別説では大和田掃部は安房守配下の広田城主で、豊臣政権時代初頭、深谷で討死或いは佐沼城で討死ともいわれる。

 子息の右馬亟は難を逃れ遠野に流浪、潜伏していたともいわれる。

 

 浜田広綱の弟とされる浜田喜六(気仙上有住城主)の存在、また遠野阿曽沼氏に仕え、八戸から八戸直義が遠野へ入部前に南部利直より500石を給されていた浜田彦兵衛の存在等、かなり気になる内容なのですが、浜田を名乗ること自体、今回探訪した米ヶ崎城の浜田氏に何かしら無関係ではないと思われてならない・・・。

 

 気仙千葉一族の高田氏の居城、高田城(東館)、後に浜田氏が米ヶ崎城へ移るまで居城としていたともいわれ、高田城跡も探訪しなければと考えているところです。

 

ソテツ

 岩手県では一番温暖な地である陸前高田、遠野ではほとんどみられない木々が至るところで見られる。

 住田の世田米辺りまでは日陰等に積雪がみられましたが、陸前高田市に入ると高い山以外は雪が皆無、たまたま本日は南寄りの風が吹いて少し気温が上がったせいもあるかもしれませんが、高田の風は柔らかく、春先のような気候・・・

 

 こちらも無論、屋外の遠野ではほとんどみられない・・・というより見たことがない。

椿

終わりかけてました。

 

 

本丸の番犬

・・・

・・・

 

吠えない番犬でした・・・爆

 

 

そして心地良い汗をかいた後は・・・・

・・・

・・・

 

温泉

 

 

かなり久しぶりの五葉温泉

しゃくなげの湯

 

 

いい湯っこでした・・・。

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板沢館・遠野三大城館跡

2009-12-10 15:59:24 | 歴史・民俗

画像は2009年12月8日の内容です。

 

板沢館跡が残される山野

 

上郷町で設置の標柱

 

 今回で三度目の探訪となる板沢館跡・・・。

 館跡探訪を始めた頃、詳しい資料もなく、ただ感に頼ったり、地域で場所を聴取したりと随分と館跡探しにはそれなりに苦労もいたしました。

 板沢館に関しては○区セ○○ーにメールをして、その場所を聞こうとしたのですが、帰ってきた返信は・・・「場所について知りたければ地区センターに来い・・・」という、なんともそっけないと言いますか後から怒りが込み上げてくる内容だったことを思い出す・・・。

 今なら一般市民にこの内容では、ただでは済まないと思いますが、小生を同じ出処から給金いただく人間としてみたものなのか?いずれ絶対今後一切あんた達からは聴かないぞ・・・と思ったことは事実でした。

 幸い、麓の曹源寺ご住職に会うことができ、詳しく館跡の位置や遺構、そして若干の由来等もお聞きすることができて初探訪したことを思い出します。

 

主郭背面(北西の段差)

 

中央部分(南東側)の帯郭(上部)

 

中腹部分

 

 

 残存度良好の遺構群、気仙郡から遠野城下への最短ルート、浜峠口付近に配置された上郷地区最大の一大拠点といった位置付けの館、館主は平清水一族の菊池又市郎、そして本姓菊池の板沢氏歴代と伝えられている。

 

○板沢館(城) 南部領内48城破却の事

南部大膳大夫分国諸城破脚共書上之事

 天正20年(1592)南部太守、南部信直は豊臣秀吉に対し、領内主要な城館48箇所について36城は破却、12城に関しては存続という内容を報告したとされる。

 その中で、遠野については・・・

 閉伊郡 横田  山城破脚 信直抱 代官九戸左馬助 

 同郡  板沢 山城破脚  淺沼藤次郎持分

 同郡  増沢 山城    淺沼忠次郎持分

 遠野では上記3つの城が挙げられるが、増沢(鱒沢)城は存続されたという12箇所に入っている。

 城という位置付け、拠点という考え方では3城が遠野を代表する城館ということに成り得ますが、板沢館はそのひとつということで、重要視されていたことが伺われます。

 しかし、遠野以外の城に関しても言えることですが、一応に伝えられる城主の名が一方で伝えられる人物でない場面も多々みられ、特に遠野に関しては鱒沢城の浅沼忠次郎以外は初耳であること。

 横田城に関しては天正20年当時は南部信直傘下とはいえ阿曽沼広郷あるいは広長であるし、板沢城の浅沼藤次郎とは何者であったのか、また横田代官九戸左馬介とは・・・?

 無論、南部領内の城館は48に留まらないはずですし、別資料には横田城には九戸左馬介と唐之者供・・・という語句が付いているものもあり、「唐之者供」に関しては以前ブログで掲載した際に、コメントをいただく皆様から秀吉の朝鮮出兵に関った者達の意とご教授いただいており、少なくても朝鮮出兵以降(文禄、慶長)に書かれたものということになります。

 いずれ江戸期に入ってから書かれた内容との指摘もあり、その内容の信憑性も含み、どのような意図があったのか、という点も興味が尽きないところでもある。

 

 ただ、板沢館は遠野を代表する気仙方面からの侵入を防ぐ、第一級の軍事、交通の要衝の城館であることは、間違いないものと思います。

 

 麓の標柱設置という地元の方々には史跡を後世に伝えようとする意図に関して敬意を表するところでもありますし、出来れば館の概要図や説明を加えた説明板があれば、よい一層広く知れ渡ると思います。

 

 滴水山 曹源寺(曹洞宗)

上郷町板沢



 天正2年(1574)の開基と伝えられる。

 土淵町の常堅寺の末寺といわれ、板沢館の板沢氏の庇護を受けていたという。

 檀那と思われる人物に板沢泰之進、菊池左門とある。

 手持ち資料では見つけ出せなかったが何かで見た記憶があって、その内容に小友平清水の西来院との由来も伝えられるとか?

 平清水といえば小友平清水一族(本姓菊池)、板沢館主、菊池又市郎と新谷菊池系図に記され、平清水平右衛門景頼の兄とされる。

 又市郎かその嫡子は板沢平蔵とされるが、「平」の字を使うところをみますと何かしら強い関連性があると見て良いのでは・・・・・・。

 

 ちなみに曹源寺画像の右寄り中央にお堂が見えますが、「狢堂」である。

 

 遠野物語拾遺187話に登場の狢伝説で有名なお寺さんが曹源寺である。

 その昔、寺が無住で荒れ果てていた頃、歴代住職を喰い殺した狢を旅の僧が退治したという内容である。

 

 

 おまけ

 

 本日は青笹町の臼館探訪を行いましたが、その途中、土淵町飯豊近くで低く飛ぶ猛禽類を発見。

 結構小さくて、胸羽毛が完全に白い、上手く近くの電柱に止まったので、即連射・・・ただしサブ機のE500で、しかも18-180のレンズ・・・でもトリミングすると、まずまずの写りということで・・・・。

 さてトンビではない雰囲気ですが、いかがでしょう・・・・ノスリのような気もしますが・・・?

 

 


 

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中館跡と鳥越屋堡

2009-12-08 18:53:00 | 歴史・民俗

中館跡(青笹町糠前赤羽根)

二の郭

 

 以前に中下菊池家系図の書籍を参考に遠野の菊池姓の概略を記述した経緯がありましたが、その中で出てくる「鳥越屋堡」(鳥小屋(とりこやとりで))とは何処を指すのか?青笹町内の鳥小屋近在にその堡(とりで)跡は残されているのか?

 そんな思いがあって、鳥小屋~赤羽根地区の山野を見ながら車で流しておりました。

 昨年、2008年師走、赤羽根地区の山野に空堀らしき遺構を発見、丘陵部への道があって車を乗り入れますと、こんもりとした土盛と自然石の墓石と思われる複数の墓所を見(中館一族の墓)、その背後の斜面に紛れもない館跡特有の空堀跡をみて、館跡であると内心小躍りしたことを思いだす。

 平城ながらも空堀は良好に残され、しかも東は八坂神社の辺りから西端の山野までのかなり広範囲な館域であると確認しておりますが手持ちの資料では南部藩政時代初期の頃、八戸から遠野へ入部した八戸直義(遠野南部氏)の重臣、中館勘兵衛の屋敷跡と判明しております。(寛永4年入部)

 この度、約一年ぶりに再訪しまして画像取材を主に行いましたが、中下菊池家系図に記された鳥越屋堡の事が思い出されましたので、あれこれ記したいと思います。

中館の空堀跡

 

 

 中館氏の屋敷跡ということで、江戸期~・・・が主な使用年代といえます。

 しかし、中館氏がこの地に移ってから本格的に土木工事をしたものなのか、遠野八戸家の家老職(400石)とはいえ、これほど広範囲な館域が必要だったのか、甚だ疑問ではあります。

 城館屋敷跡の資料には、かつての住居跡等があった場所に屋敷を構えたと推測してますが、おそらく住居跡というよりも中世城館跡に屋敷を建てたのだろうと思います。

 中館氏が来た際に若干の防御上必要な遺構の改修等は施されたと想像はしますが、現在見える遺構等が大幅に変わるような大規模な工事は実施していないと思ってます。

 

 中世城館跡とは何を指すのか?・・・脳裏に浮かぶのは鳥越屋堡ということになりますね。

 

かつての水堀跡

 

 中下菊池氏(系図)と伝承

 中下菊池氏第2代、菊池九郎三郎睦成は、建治元年(1275)に鎌倉より奥州に来住して気仙郡前野(住田)に住し、阿曽沼氏に臣従し、4代二郎重隆の時に遠野青笹に来住、以来15代球磨太郎長元の代、約百数十年間、臼館(青笹町)に住していたとされ、青笹菊池一族惣領とされる。

 一族の菊池兵庫介成景やその末裔、菊池成武と総帥権をめぐる戦いがあり、15代長元以降に臼館を放棄して鳥越屋堡に居を移したという・・・。

 

 この系図に記されていることの信憑性はわからないが、地域で語られる伝承にも少なからず一致する内容もあり、そのひとつ遠野物語拾遺イクサバ伝承や同じ青笹の花館と臼館の戦い等・・・菊池一族同士の争いを伝えている。

 ただし、花館は中館の東方、直線距離で約1.5キロに残されている大型城館跡である。

 鳥越屋堡とは花館のことなのか?それとも地名や位置から中館が残されている山野の事なのか・・・伝承と史跡の狭間を未だに彷徨っている雰囲気です。

 7月に遠野菊池の会総会で講演をいただいた郷土史家のH合先生の講演内容も中下菊池氏についてでしたが、中下菊池氏のご末裔はその後、附馬牛へ移って健在であったと述べられていたことを思い出す・・・。

 

 

 画像のように光明を指すことはあるのか?

 

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小八戸氏(八戸内記家)

2009-12-02 19:32:47 | 歴史・民俗

 城館跡探訪シーズン中ということで、天気が良ければ山野に出かけておりますが、本日は附馬牛町方面の未踏の館跡を候補にいれるも、どうも乗り気ではない。

 それでも一応、その方面に車を走らせましたが、途中で心変わり・・・汗

 今回は平地の屋敷跡ということで、附馬牛小学校にかつてあったといわれる小八戸氏の武家屋敷跡を訪ねることにしました。

 ただし、小学校敷地となって当時を偲ぶ遺構等は皆無です。

 

 薬師岳

 

小学校グランドに屋敷はあっという

 

 

 

宇迦神社

 小八戸氏とどのような関連があるかは、調べてませんので不明です。

 ただ、当時を偲ばせる雰囲気ということで画像取材しました。

 後は机上であれこれ・・・と記述ということになります・・・汗

 

小八戸氏

 八戸弥六郎直義(遠野南部氏)の二男八戸頼母義也を祖と伝える。

 義也は兄八戸弥六郎義長が父の遺言により実施した遠野検地打出高三千余石のうち二千石で分家、高知家格となった。

 当初は、附馬牛村、東禅寺村・・・以上遠野市、平館村(八幡平市)が知行地であった。

 高知(たかち)家格とは・・・ 盛岡南部家(南部藩)家臣で100石以上の家録の武士で、いわば上級家臣の家柄。

 八戸氏(大八戸・遠野南部氏)は、1万2千7百石ということで、盛岡南部家中では、ずば抜けた大身であり、他に南部家臣では1万石を越える家臣はいない。

 小八戸氏は遠野南部氏の分家であるが、遠野南部氏の家臣ではなく、盛岡南部家の家臣、すなわち南部藩士である。

 遠野南部家の重臣、新田家や中舘家、沢里家、福田家・・・等は遠野南部家の家臣であり陪臣となります。(家臣の家来)

 

 

 小八戸氏歴代は、盛岡藩の加判役(家老)を勤め、藩政の中心にいた人物が多く、中でも八戸上総(八戸篤義)は、南部家を救った忠義人と語られる逸材と称賛されている・・・どうやら作り話といった類のようですが、それでも逸話の題材となり得る逸材だった雰囲気がします。過去ログに八戸上総について記しております。こちら

 2代竹之助は僅か2歳で家督となるも翌年3歳で早世、3代八戸義謀は本家八戸義長室の弟で北宣継の二男と伝えられる。

 北氏により八戸氏分家が乗っ取られたと当時の遠野武士達は憤慨と伝えられますが、2千石の内、1千石は本家預かりとなって小八戸氏は家録1千石となる。

 後に八戸義涛の時に金方で2百石加増(文政4年)さらに文政10年に3百石加増されて1千5百石となった。

 知行地は附馬牛村、東禅寺村、紫波佐比内村、川目村・安庭村(盛岡市)の地方1千5百石となっている。

 

 

明治初年、小八戸氏武家屋敷の配置とされる。

 

 分家当時は家老に中館氏(覚右衛門)をはじめ、中津山氏、小笠原氏、野沢氏、及川氏、類家氏、坂本氏、松橋氏、大黒氏、佐郷屋氏、四戸氏、松崎氏、大橋氏、水越氏の諸氏が家臣団であったと伝えられる。

 ちなみに盛岡屋敷は本家八戸氏と同じ内丸にあったようです。

 武家屋敷には末崎氏、中舘氏、野沢氏、小笠原氏、長岡氏、十日市氏の諸氏であったことがわかりますが、附馬牛町で作成した小八戸氏の簡略な資料があったのですが、何処へファイルしたか探し出せなくて・・・大汗・・・確か家臣団の屋敷配置図も掲載してあったような?・・・こんな時、図書館の郷土資料室が便利なんですが、閉館中なので致し方なしです。

 いずれ小八戸氏に関しては南部藩諸家参考系図に詳しく掲載されておりますので、機会がありましたらさらに詳しく掲載したいと思います。

 

 片岸方面

 

上柳

 

 

おまけ

 

ネネ

 

何みてんの・・・?

 

美味そうな鳥っこだニャー・・・笑

 

雀が屋根に止ってました。

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奥友館再訪

2009-11-29 12:38:29 | 歴史・民俗

探訪による画像は11月27日のものです。

 

奥友館全景(小友町)

 

 

 今回で2回目の探訪、やはり前回探訪での画像を縮小してしまい原画像が無いということで、画像取材含めて探訪いたしました。

 前回と同じく保育園の南側斜面から進入、前回より笹竹が生い茂り、細かな木々も増え、僅か30メートル足らずの斜面であるが登り難い場面も・・・

 

及川館跡

 斜面を登り切ると3段程度の平場の一番広い場所に行きつく。

 奥友館跡の麓部分は、かつて遠野南部家臣の及川氏の屋敷があった場所と言われている。

 保育園、小中学校の南側部分の山麓一帯がその敷地であったそうですが、学校等公共施設建設の際に平場は削られ、法面となったとか。

 僅かに屋敷跡の名残として、稲荷社が鎮座する画像付近が残されるのみといわれている。

 葛西氏遺臣の及川善右衛門恒吉が遠野に流浪し、後に八戸弥六郎直義(遠野南部家)に仕えたのがはじまりといわれる。

 小友の金山開発に関係した一族とも考察されている。

 

 

 さて、前回の探訪では、及川館跡の平場から上部の山野目指して斜面を直登して、もの凄く辛い思いをしただけに、本音はできれば来たくなかった・・・汗

 しかし、画像取材も上郷の板沢館と青笹町の丑館(臼館)、そしてこの奥友館を残すのみでしたので、まずは辛いと思われるところから早目に片付けようということで、意を決して再訪したわけです。

 ところが、現地でよくよく斜面を見渡すと、細い道風の跡が斜面にビッシリ張り付いた階段状の平場を結ぶようにジクザグに付いているようにみえる。

 この跡を辿って登ってみることに・・・・これが案外楽で、あっという間に山頂近く南東側の帯郭に行きついたのでした。

 そしてその場所には、きちんと一段上の館内では一番広い平場への道跡がさらに残されている。

 おそらくこの部分が大手口だろうと思われる。

 その平場に行きつけば、この館跡は攻め落としたも同じこと、館跡探訪のコツばかりではなく、身体も山登りに慣れたのか、今回は汗こそ搔きましたが、楽勝といっても過言ではありませんでした・・・。

 

 二の郭(館跡内では一番広い平場)

 

二の郭北側の土塁

 

東側斜面の平場(帯郭)

 

 

 奥友館跡は南北に長い館で、北側からの尾根を3本の堀切で山野を断ち切り、主郭(本丸)は内側から1本目と2本目の堀切跡の間の平場であると思われる。

 それぞれの郭には土塁が施され、東側は急な斜面であるが6段の平場が整然と配置されている。

 西側は空堀二重が下り、下部付近には小さめの階段状の平場がみられる。

 小友町内の館跡としては造りも吟味され、まさに山城としては当地方でも大型城館に属する館跡でもある。

 最近、北側部分から西側斜面の木々が伐採され、奥部の尾根付近が禿山となって、遺構等が見やすくなっております。

 

主郭

 

北側尾根から堀切(館内)

 

外側の堀切跡

 

伐採された斜面

 

 館主を本姓菊池氏の奥友喜左衛門(小友喜左衛門)と伝えられる。

 館主及び館の概要は別家ブログ「遠野郷中世城館録」で取り上げる予定です。

 

 

巌龍神社

鷹鳥屋川を挟む位置に鎮座する

 

かつての宿場町の色合いを残す通り

 

宿場町小友

 応永24年(1417)創建と伝えられる巌龍神社から小友川沿いに東に宿場町が形成されている。

 小友地区は古くから金山地帯であり産金が盛んな地域でもあった。

 戦国末期頃から江戸初期にかけてゴールドラッシュに沸いたとも語られ、この時に宿場町としての基礎が作られたとも考察されている。

 また気仙郡への交通の要所でもあり、残される町並をみると、かつての隆盛を彷彿させる雰囲気が十分に感じられる処でもあります。

 

 

おまけ

 

小友町方面の館跡や史跡めぐりでの昼食や休憩は・・・・

 

産直ともちゃん

 

中華そばセット

 

 数年前までは、隠しメニューであった中華そば・・・知らないものですから、いつもは天ぷらそばセットをいただいておりました。

 いつしか表に登場、あっさり系の美味しいラーメンでした。

 セットに付く味噌おにぎりとの相性はgoo・・・・。

 

 

 それと小友町の某工場で開発された「カッパン」

 

一人用のジンギスカン鍋セット

 

遠野らしいデザイン・・・

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大梵天館跡・川井村小国

2009-11-25 18:00:45 | 歴史・民俗

 いつもよりは暖かい朝を迎えましたが、未明には雨が降った模様・・・。

 午前中も早くから曇り空が一転、青空に変わり小春日和な雰囲気でしたので、以前からいつかは探訪したいと考えていた下閉伊郡川井村の小国館跡(大梵天館)を探訪して参りました。

 国道340号線立丸峠は積雪となると、やっかいな峠道と化し、春先でも凍結路となったりとかなり怖い峠道でもありますので、本格的な雪のシーズン前でなければ安心して小国にも行けないと考えておりました。

 本日はいいお天気で気温も高め・・・一応、絶好の館跡探訪日和でもありました。

 

 しかし・・・・流石、天下の難所、立丸峠

 

川井村側

 

 さほどの積雪ではないですし、道路も融けているのですが、それでも川井村側は一部シャーベット状の圧雪箇所もあったりと、なかなか気を抜けない場面も・・・・。

 

 それと、恩徳の心霊スポットの空家は、解体されて古材が積まれているだけとなっておりました。

 

 

 ということで、小国館、別名・大梵天館

下閉伊郡川井村小国

 

 

帯郭(西側)

 

山頂平場・・・本丸

 

堀切跡

 

 標高が約400m・比高約100m

 南北に長い館跡で、北側尾根に砦風の小さな郭、本丸までの尾根にふたつの堀切を配し、本丸下の西斜面には5段程度の帯郭、南部分の尾根の山頂には見張場的な二の郭があり、本丸と二の郭との間は、大きめの堀切で区切られている。

 

 砦的な小規模な城館跡という内容を見聞していたが、遠野の館跡の標準クラス並みの規模で、帯郭的な平場は広めで、しっかりと斜面が切岸されて完成度といいますか、残存度はかなり良好でした。

 また二の郭とを隔てる堀切は深さ、幅とも十分で遠野地方であれば大型に属する造りで、少し驚いております。

 東、西斜面は断崖といっても良いくらい急な斜面で、北側の尾根は幅1メートルにも満たない小道風で、立ちくらみでも起して、「くらっと」とでもなれば断崖を転げ落ちそうな恐怖がありました。

 もちろん、つまずいたとか、足を滑らしたとかでも同様ですがね・・・汗

 ですから北側方面は、ほどほどの探訪にして本丸跡へ・・・こちらは東西25m程、南北約80m程の比較的広い平場となっておりました。

 

 2008年に麓と本丸に説明板が設置されたようで、簡単な縄張図と館の歴史が記述されております。

 またその際に、かつての大手口に通じる小道が少し拡張され、遊歩道として整備されたようで、本丸への道があります。

 ただ、かつての道を表しただけの小道で、遊歩道とはいえる内容ではありません・・・笑

 でも麓のお寺さん裏の斜面を直登するよりは、遥かに楽です・・・笑

 

本丸北側の尾根にある秋葉、愛宕権現の石碑

 

 館を築いたのは武田彦十郎忠直といわれる。

 当初は小国川を挟んだ向かいの末角集落後方の末角館に居たと伝承されている。

 武田氏の出目に関しては不明であるが、閉伊郡は閉伊氏が広く浸透していた地域で、その中でも惣領は宮古地方にいた田鎖氏とされている。

 武田氏は閉伊氏の影響下であったかは、こちらも不明ですが、小国館は文亀2年(1502)に築館されたと伝聞されている。

 その後、小国館の武田氏は、同地域の江繋氏の攻撃で館は陥落、武田氏は滅んだともいわれますが、麓の説明板には、三戸南部第22代、南部政康の家臣であったと記載されている。

 遠野へ通じる街道沿い交通、軍事の要衝との位置付けで、極めて重要な地域の要であったともいわれますが、当時の遠野は阿曽沼氏の治世、険阻な北上山地で遠野と小国は阻まれていたとはいえ、歴史的な伝えは遠野と閉伊地方との攻防等は語られていない。

 遠野では気仙郡や江刺郡との争いは度々あったと伝えられのに対して、この方面は平穏であったこと、これも少し不思議な思いでもある。

 武田氏第3代、武田彦右衛門重直の時に豊臣秀吉の天下となり武田氏は下北半島の田名部へ移封したといわれる。

 小国館すなわち大梵天館は廃城となったと伝えられる。

 なお、説明板には、武田一族が建てた石碑があったと伝えられるも、南部氏の命で土中に埋められたと伝えられ、その後、地域で何度も発掘を試みたが未だ発見に至らずとしている。

 武田氏の家臣の一部は岩泉小本に流浪した人々もいて、後に中里姓となったともいわれ、さらに武田姓が多い地域ともいわれる。

 

 大梵天館跡は別家ブログ「遠野郷中世城館録」で詳しく掲載予定です。

 

 

 鶏頭山大円寺(曹洞宗)

 

 開基は応永元年(1394)江刺郡黒石の正法寺二世月泉良印の開基と伝えられる古刹とされる。

 その後、無住寺となり荒廃したが初代武田彦十郎忠直によって再興と伝えられる。

 

 

古い狛犬

 

対の狛犬、よくみると、どちらも顔だけ欠損といいますか、無くなっている?

地震とかで落ちたとか?

歴史的何かではないですよね・・・?

 

 

かつてのメインストリート

 

歌声喫茶?

 

 遠野と川井村小国地区は、人々の往来が結構あって、遠野の土淵辺りでは小国から嫁いで来たという方々も案外多いようにも思えますし、土淵ばかりではなく松崎や遠野の街中でも結構いるのではないでしょうか。

 今や遠野を代表する郷土芸能で、遠野まつり等では、カメラ親父達が群がる大人気の土淵町「山口さんさ」は、大正時代に小国村尻石から山口の厚楽家に婿養子と入った尻石磯吉が生家の兄嫁を連れて来て、さんさを伝えたといわれる。

 

山口さんさ・・・遠野まつりより(2009.9.19)

 

 小国の尻石とくれば、我菩提寺、福泉寺の先代住職、宥燃和尚と現住職正全和尚は小国の尻石地区のご出身である。

 尻石姓でもありますし、何を隠そう・・・我祖父は小国関根の中野家が実家で、祖母に婿として入った人でもあります。

 なんの因果かわかりませんが、従妹が祖父の生家に嫁いでいるというおまけ付きで、完全なる親戚状態が継続中でもあります・・・笑

 

 車社会となる以前、昭和30年代までは、鉄道の沿線以外、人々の移動手段は徒歩で、小国の祖父の実家へ行く際は早朝に自宅を出発して、到着はお昼もだいぶ過ぎてのことだと聞いたことがあります。

 昭和の初め頃まで、駒木妻の神奥の大沢不動宵宮では遠く小国からも峠道をいくつも越えて参拝した人達もあったといわれ、祖父、祖母もこの妻の神から土淵西内へ出るルートで立丸峠を越えて小国へ行った時代もあったそうです。

 

 現代でも、婚姻等で交流がみられる小国地区、青年層の各種団体なんかも、わざわざ夜の遠野へ来て飲会をする方々もいたり、スーパーに買物に来たりする人々も沢山おられるようです。

 難所である立丸峠にトンネルを・・・・早期実現してほしいところでもありますね・・・。

 

小国川対岸の地域

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松崎遺産、松崎館

2009-11-24 17:27:44 | 歴史・民俗

 今朝の勤務地宮守はプラス1度、少しビリっとしましたが、辺り一面濃霧の中・・・・。 今朝は久し振りに遠野盆地は雲海の中かな?と思いながら帰宅となったが、なかなか霧が晴れない・・・。 

ようやく10時過ぎに・・・・

市街地方面

 

天ヶ森、高清水

 

霧が晴れ渡るとすばらしい青空が広がっている。

薬師岳・早池峰山

 

 久々の雲海日和だったと思いますが、高清水山頂は積雪もありそうな・・・?

 雲海ハンター達は、おそらくオフシーズンとなっているものと思いながらも、それでも積雪が10センチも20センチも積っているわけでもなく、冬タイヤ装着なら、まだまだ行けそうな雰囲気も・・・・。

 平日ですし、そんな強者はいないと思いますがね・・・・とりあえずドアップ画像をどうぞ・・・笑

 

誰かいたらびっくりです・・・笑

 

 

 とうことで、お昼過ぎ、本日の館跡探訪は何処にしようかと悩んでおりましたが、久し振りに地元の館跡でもと思い、松崎館跡を見ることに・・・もう少し詳しい図面でも描こうということで出かけて来ました。

 

 

 実は松崎館跡は今回で記憶が正しければ9回目なはず・・・。

 遠野市内外の城館跡探訪では一番訪ねている場所、訪れる度に好感度が増しているような・・・今回も先日探訪した大迫の大迫館と比べながらの探訪となりましたが、ひとつひとつの遺構はそれほど大きいものではないが、中腹部の帯郭は、かなり広くて大きい・・・大迫館の大きい帯郭よりは広くて立派だと感じる。

 そんなことを考えながら見ていたら図面もなかなか面倒になって最後は描くことを放棄してしまった。

 

帯郭跡

 

 館跡の規模はさほどでもないが、隣接山野にも二の郭と思しき大きめの館跡があり、これと合わせれば、当地方ではかなり大きな館跡となり得ます。

 今回は隣接山野の探訪はしませんでしたが、それでも本来の松崎館跡を見るだけで十分な遺構の数々・・・かなり素晴らしい館跡だと思います。

 さらに山頂の主郭の平場・・・杉木の間引きなのかかなり伐採されており、かなり明るくなっており、いつにも増して平場が広く見える。

 しかも堀切跡の東側斜面の杉小立もかなり伐採されており、今まで見れなかった部分がよく見え、それらをみてさらに感動する。

 堀と堀の間は大きめの土塁が施されていた・・・・また空堀が駆け下る様も見事でありました。

 

 山野を断ち切る堀切跡

 

 鱒沢館の堀切の堀底の幅には敵わないが、それでも高さも十分、何よりも5重の堀切が残されており、遠野でも珍しい部類の館跡です。

 これが松崎館の最大の見せ場で、いつみても素晴らしいと感嘆の声しか出ない。

 

 

西側へ下る堀跡

 

今回見ることができた東側堀跡の土塁

 

 阿曽沼家臣、松崎氏の居館、松崎館

 その昔、どの程度の戸数の村を抱えていたかは不明ですが、松崎村50~100戸近くか?人口も500名いたかどうか?

 石高でも300石前後と思われますが、これだけの大がかりな土木工事を行い、しかもよく吟味された館、このようなすばらしい館跡が地元松崎に・・・いやっ遠野に残されていること、素晴らしいと思います。

 是非に地元で遠野遺産に申請いただき認定をいただくようお願いしたいですね。

 遠野でも残される遺構も規模もトップクラスの館跡、地元の財産、宝だと思います。

 

 探訪を希望される方々がおられましたら、ご案内いたします。

 

 麓に鎮座する山の神社

山主は地元M浦氏一族

 

松崎館本館跡

 

サブ機のE-500で撮影

やはりオリンパスブルーがでるという最後の機種、いい色合いの青だと自己満足。

無論、補正等はしていない。

 

 

 

おまけ・・・

 

タイトル「あっかんべぇ~」・・・・笑

 

たまたま某お宅の前を通りかかると・・・・

一匹の猫が道路を横切る・・・。

 

庭側でこちらを見ていたので、まずは一枚記念撮影・・・笑

 

 

 

 

 

可愛い猫っこだ・・・。

でも少し警戒している雰囲気・・・・。

 

怪しいものではありません、猫好きのとらねこさんですよ・・・。

 

 

あんたなんか知らないニャー・・・・汗

 

べぇ~~っだっ!

 

 

 

 

 

あちゃ~・・・・笑

 

このぉ・・・ねごきしぇっ・・・笑

 

ぶれんど某女史の飼い猫なはず・・・笑

 

 

 

久々、懐かしの歌・・・・

中学の頃、一番思い出深き歌

 

http://www.youtube.com/watch?v=LsvLuXnebTI

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