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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

地獄山探訪(妻の神編)

2010-11-19 18:50:42 | 歴史・民俗

 雲海シーズンもラストに近づいてますが、濃霧の朝を勤務地で迎え、帰宅の際は盆地が濃霧にスッポリ覆われる光景の中を帰って来る・・・。

 完全雲海出現の朝だったのだろうと少しばかり悔しい・・・汗

 

 雲海ポイントには標高が低すぎますが、夜景撮りはよさそうな雰囲気・・・でも八幡山が立ちはだかり、街の灯りは少ないかも・・・?

林道・海上~西内線より・・・

 

 

本日も良いお天気・・・・・

そんな中・・・

 

 遠野ぶれんど仲間で歴史民俗班メンバーであるaboutさんが夏頃から土淵町栃内の「地獄山」探しに取り組んでいるという情報を入手、なんでも「山崎の金勢様」背後の山を越えた松崎町駒木、妻の神にかかる辺りか?とのことで、小生も地元、駒木妻の神の地獄山探訪は予てから懸案事項のひとつでしたので、この探訪に便乗させていただくことになり、この度、久しぶりに中年探検隊を結成して、地獄山探しを敢行いたしました。

 

 松崎町海上と土淵町西内を結ぶ林道に入って、土淵町栃内、山崎の金勢様が山下に位置すると思われる箇所で、aboutさんが何度か現地調査され、なんとか侵入路を見つけ出したとされる場所より山野侵入となりました。

 

かつての林業関連の道跡が鹿等の獣道と化した雰囲気・・・。

それとaboutさんが刈り払い鎌で以前にある程度の障害を排除していたらしい・・・謝

 

aboutさん

 

最初の沢から北側に直線距離約8百メートルで次の沢に到達できるらしいが、最初に見えたピークに上るも、既に自分達の位置がどうも掴めない・・・大汗

 

尾根伝いに国土調査等で近年に歩いたと思われる道があったので、その道の通りに尾根伝いに北東側と思われる方向にしばらく進む・・・。

 

かなり進んで来た雰囲気、何本かの尾根を息を切らして上ると、向かいの至近に耳切山がみえる。

耳切牧道沿いの大沢不動より荒川高原側へ少し進んだ場所で、私は其処で眼下の駒木~遠野市街地の写真を撮る場所辺りと思われる。

 

そうしますと、現在地は妻の神の奥地で、土淵町西内へ至る西内峠近辺にいることになる・・・。

 

地獄山発見の期待が大いに高まる雰囲気・・・。

 

[妻の神地獄山]

 地獄山というと何処かおどろおどろしい響きですが、まさしくその通り、遠野でいう地獄山は、賽ノ河原や塚をもった不思議な光景で、霊的雰囲気を漂わす場所でもある。

 

地元民俗郷土史冊子には・・・

「駒木の地域では、この地を地獄山という。共同採草の時代、昭和12年~30年代は一帯が草山で毎年火入れが行われ、この場所だけは大切に保存されていたので遠くからでも松の大木がハッキリと確認でき、場所を印していたものだった。

 駒木の妻の神から土淵西内に通じる峠を西内峠というが峠より峰を南に30m程のところに小石の盛地、賽ノ河原が小高く積まれ、所々に石碑が立っている・・・・中世の頃、阿曽沼時代から大槌等の海岸へ通じる道でもあったという・・・略」・・・・参考 「まつざき歴史がたり」

 

 また・・・

「駒木の奥、土淵西内に越える小路より東南に走る峰の上にある。

十余本生えていた松の木の根元に直径3.6メートル、短径1.8メートルの楕円形の塚があって、その前方には石を積み重ね一字一石がその間を埋めて、塚内にも堆積している。愛児を失った人々は、その冥福を祈るため、塔婆と草履をあげて拝むのであった。

松の木に耳を寄せると小児の声が聞こえると言う伝説も語られる場所でもある・・・」・・・・参考 20世紀までの歩み「駒木」

 

 地獄山と称される場所は遠野市内に複数存在している。

 幼くして亡くなった子供の冥福を祈るため、小石を積み重ねて賽ノ河原がつくられ、古道近くに形成される場合が多い。(早池峰山や六角牛山の高山にある場合もある)

 さらに古道を通る人々が賽銭代わりに小石を積み上げて行くこともあったと語られる。

 

 私の少年時代、妻の神の耳切牧道が作られる以前、集落奥の最後のお宅から約数百メートルの場所に数本の松の古木が存在していた。

 その松木が古の西内峠へ通じる古道であったはずで、古老達の話では昭和30年代までは、当時の川井小国村(現宮古市)や大槌へ行く際の主要な道だったといわれている。

 その後、牧道整備の際に松木は切り倒され、原野だった周囲も植林等がされ、雑木や杉の林となって、古道を通る人も無くなり、その存在を語れるのは私の親父の年代以上の方々となってしまい、その記憶もハッキリとした場所を示す程ではない。

 昭和50年代、地獄山近くで杉木の伐採作業に従事した地元の方が何十年ぶりに地獄山の賽ノ河原をみたと言っていたが、それでも既に30年近くは経過している。

 いずれ、今は林の中となってその場所も判らないと云われている。

 

 

 さて、中年探検隊は、位置的に妻の神の最深部、至近に耳切山、直前に越えた尾根は地元で「太郎沢(たらじゃ)」と呼ばれる山で、福泉寺がある山の続きで耳切山と太郎沢山の間の峰に私はいることになる。

 しかし、かつての妻の神の古道跡がわからない・・・?

 

ただし、山仕事等の木出しの為の道跡があるので、駒木側から続いている雰囲気で否応なく期待感は高まる・・・。

 

 

 途中でaboutさんとはぐれてしまうが、結局、耳切牧道の牧野に出たという

 

途中にあった標柱跡?

 

そして・・・

 

 

最近のモノではないですが・・・汗

 

 

耳切山、太郎沢~高楢山は遠野市内屈指の熊生息地帯ですが、熊は御免ですが日本鹿、野鳥にいたる生き物達と一度も遭遇しない探訪でもありました。

 

やはり、地獄山と称される何かあるのだろうか?

aboutさんと携帯電話で連絡を取り合いながら合流、松の木の林は数多くみましたが、今回は残念ながら地獄山は発見に至らずというところでした。

 かなり残念でしたが、事前の情報力不足や収集不足、古地図なんかも駆使しての下調べも不十分というところでした。

 しかし、再挑戦のつもりですし、次は西内側からアタックした方が入り易いものか?それとも駒木側の古道跡を探して辿る探訪か?とにかく期待が高まる地獄山探しとなりそうです。

 

 貞任高原の地獄山(賽ノ河原)

 

そして本来は、こんな感じのイメージが・・・

福泉寺の賽ノ河原

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遠野南部ばやし2010

2010-09-25 18:50:05 | 歴史・民俗

 本日の夕日

 

 「遠野まつり」も終わって早一週間、田んぼでは稲刈りが盛んかと思えば、雨降り等が続いて、あまり進捗具合は芳しくないようでもある。

 また、祭りが終わった途端に一気に気温が下がって、つい2週間前までの真夏日が嘘のような思いがするのですが、既に我家ではFF式ファンヒーターを稼働させております・・・汗

 いずれ秋も一気に深まりという遠野となっております。

 

 さて、遠野町方の郷土芸能といえば「南部ばやし」・・・遠野まつりでの華といっても過言ではないと私は思っております。

 当然、カメラ撮りでは絶対に外せない被写体でもあって、今年も数多くの南部ばやしを短時間に撮っております。

 

画像は一日市南部ばやし

 

 一番前のお二人の綺麗な女性は、「金棒引き」・・・ですよね?

 ここ一日市と穀町に金棒引きのお嬢さん方がおられますが、記憶が確かなら杖のような棒を持って先頭にいたような・・・?(数年前までは確かに棒を持っていた)

 南部ばやしに関わっておりませんし、詳しくも調べておりませんので、なんともいえませんがね・・・。

それにしても一日市は美人さんを前面に出してきますねぇ・・・。

(他団体が美人さんではないとは言ってません・・・謝)

 

続いて舞い子・・・一日市

 

上組町

 

仲町

 

 舞い子は女の子の役どころ、聴くところによると中学を卒業すると舞い子も卒業となるとか?

 

 男性は小鼓(掌で鼓を打つ)、大鼓(皮で鼓を打つ)で主に成人男性とされる。

上組町

 

 他に笛、三味線となるが三味線は女性、笛は主に男性だったようですが近年は性別は関係ないようです。

仲町

 

 正規ということではないと思いますが、資料(遠野市史4巻)には・・・

 金棒引き・舞い子・三味線、笛、太鼓・小鼓、太鼓の多勢とある。

 (近年は金棒引きは省略の団体も有)

 

 遠野南部初代、八戸直義(直栄)公が、寛文初年(寛文元年は1661)に松崎の宮代から現在地に八幡宮を遷した際に遠野郷八幡宮に奉納する為に遊芸師に命じて京都の祇園囃子を模し、遠野風にアレンジを加えて作りだされた芸能と伝えられる。

 おそらく江戸時代から踊られてはいたと思われますが、遠野古事記、旧事記(宝暦年間著1751-1762)の古書には、「南部ばやし・遠野ばやし」と呼称される芸能の事は記されてはいないが、「児踊り」として笠、扇子、花を持って小唄、笛、小鼓、大鼓を囃子ながら踊ることが流行っていたとのこと。

 いずれ遠野のみならず盛岡でも囃子が流行っていたようで、その後廃れるも南部太守、南部利雄公の時(盛岡南部第8代・宝暦2年家督)に囃子等が再び流行るようになったともいわれる。

 この辺りに遠野の南部ばやしの原点がありそうな雰囲気ですが、さらなる調べが必要となりそうですね。

 

 明治維新後の明治、大正期に断絶しそうになりながらも、なんとか断続的に継続するも昭和に入るとほとんど休止状態となった。

 本格的に復活は昭和41年(1966)と記され以後絶えることなく継承されている。(仲町、一日市、上組町、穀町・・・)

 

 衣装は艶やかで優雅、平和で静かな山里の街を象徴するような歌舞音曲であると結ばれている・・・まさしくそのとおりだと思います。 

 

穀町の舞い子

 

画像は2010年9月19日(日)

日本のふるさと遠野まつり・・・にて撮影

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達曽部館

2010-04-23 15:52:58 | 歴史・民俗

 今回で5度目の探訪となる宮守町達曽部の達曽部館跡

国道396バイパスから遠景(4.21)

 

 

主郭平場(本丸)

 

 単郭の平山城で主郭の周囲を2~3段の帯郭が配置され、西側部(宿川・宿)は急傾斜地、北側はなだらかな傾斜で幾重にも階段状の平場が展開され、東側(八幡社側)は帯郭の他に二重の空掘、土塁が配され、南側(達曽部小)は数段の帯郭が斜面に配されている。

 館主は多田氏系とされる達曽部氏歴代と伝えられている。

 

 空堀跡(画像では確認できないが二重掘となっている)

 

帯郭(北側)

 

 

達曽部八幡神社

達曽部館と隣接の山野に鎮座する八幡神社

 隣接といっても館が機能していた時代は、神社側の山野も何かしら館としての機能が施されていた雰囲気が感じられる。

 八幡神社は地元民等による熱意等で遠野遺産に認定されている。

 後世に残すべき遺産、名勝地といったことではありますが、隣接の達曽部館も併せて遠野遺産とすべきだったのではないのか?神社と館は関連する事項もあるということで、共に地元で維持管理等をするといったことかもしれませんが?いずれどちらも大切に後世に残す、伝えるといった内容をよろしくお願いしたいと切に思います。

 

○達曽部氏

 ほんの概要というところで館主とされる達曽部氏について・・・

 遠野で主に語られる内容としては、画像の説明板参照のこと・・・・。鎌倉時代初頭、遠野郷を賜った阿曽沼氏、その代官として遠野へ入部した宇夫方氏による統治の障害のひとつ、現地勢力の存在が語られ、達曽部氏もそのひとつと伝えられる。

 説明板には主家、阿曽沼氏と共に入部した家臣と記してあるも出典等は不明。

 後に宇夫方氏との婚姻等によって同盟が成り、遠野郷の一部、遠野阿曽沼氏の家臣と語られますが、紫波郡の斯波氏関係の資料には、斯波氏の配下としての達曽部氏がみられ、戦国時代後半、天正の頃は遠野というよりも斯波氏の影響下に置かれていた雰囲気が強く感じられる。

 

 達曽部氏は多田氏系の一族とも語られ、遠野史においては、多田光俊の名が最初に登場している。(南北朝期の人)

 南部藩関係書籍には多田氏と記され、達曽部氏と改名は、南部利直公時代の慶長9年とされるも、達曽部氏が多田氏とされる系図には多田源氏の歴代が記され、その信憑性含め信じ難いと雰囲気もあるが、こちらも仔細は不明である。

 達曽部氏歴代が確認できるのは、天正の頃からと推測され、多田綱影→多田綱俊→多田綱保(斯波氏に属す)→多田忠綱(多田孫右衛門)南部信直公より天正16年8月斯波氏没落して帰降、旧領達曽部村を賜る。

→多田清綱(多田弥兵衛・達曽部孫右衛門)南部利直公の時、達曽部氏に改む。慶長9年8月28日付、利直公黒印 達曽部村400石。

→達曽部弥兵衛綱正・利直公の時、家督、元和2年3月、元和6年5月 黒印

 (慶長19年大坂冬の陣に南部勢として従軍した遠野勢に達曽部弥兵衛14人と記されている)

 南部藩士達曽部氏は6系を数え、その中では分家の宮手氏(100石)をはじめ、明治維新まで存続した家、或いは途中で断絶した分家もあった。

 

 

 

 達曽部  宿

 

 宿場町としての名残を残す宿地区・・・・。

 江戸藩政時代は大迫通りに属していた達曽部、盛岡南部藩の直轄地で代官支配であった。

 ちなみに達曽部と共に下宮守も藩直轄、上宮守と鱒沢は遠野南部家領であった。

 達曽部は一時期、寛永4年前後までは宮守主水が達曽部、下宮守の代官を勤めていたとされる。

 

 

 国道396号線、達曽部バイパスが出来て交通量が大激減、時代の流れといえますが、かつては大型観光バスや沿岸と盛岡を結ぶ定期バスも通った宿場町通り・・・

 小生が旧宮守村時代の最初の赴任の頃(1980代前半)、宮守町の宮守駅前や新町、そして此処達曽部宿に旅館が営業していたことを思いだす・・・四半世紀も昔となりましたが・・・・汗・・・それでも人通り等は寂しくはなりましたが、当時と建物や景色は、さほど変わってはおりません。

 いずれ、達曽部氏に関しては、然るべき時に大いに検証し、その見解等をご披露できればと思っております・・・・おそらく・・・汗

 

 

おまけ

 明番・・・仕事関連で少し帰宅が遅れたが、休みであった嫁さんと釜石に野暮用に出掛け、昼食は本日も麺類・・・・。

 

 ネットや各方面をみると釜石は、やはり釜石ラーメンとか、ラーメン関係に力を入れている雰囲気が感じられます。

 釜石ラーメンマップなる存在も確認できますが、先頃いただいた「昇華」のラーメンもそうですが、かなりレベルが高いと思われる。

 そんな中、口コミで一番人気と思われるラーメン店へ・・・・支店でしたが・・・。

 

小生は

 

これも美味い・・・・

極細ちぢれ麺かな・・・

 

嫁さんは店員さんの超お薦め・・・

坦々麺

 

これはかなり美味いとか・・・嫁さん絶賛・・・。

小生も味見程度に少しいただく・・・・

おっ・・・これは美味い・・・いい味でした・・・

 

 

 釜石ラーメン・・・当分目が離せないですよ・・・マップ制覇まではいかないと思いますが、少しでも多く色んなお店の自慢ラーメン食べてみたいです。

 

 釜石は寒かったですが、それでもようやく桜が咲いたようで3~5分咲きくらいかな?

 

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新堀城跡

2010-04-21 19:26:53 | 歴史・民俗

 鉄撮り、野暮用、野暮用ついでに石鳥谷(花巻)そして東和(花巻)と巡って参りました。

 遠野は風は強いものの朝から晴れておりましたが、花巻は曇り空で、途中から雨が・・・・桜は遠野同様まだ開花しておりませんでした。(間もなく開花でしょう・・・)

 

 さて、遠野つながりの歴史が深いというわけではありませんが、野暮用ついでに石鳥谷まで行きましたので、見やすいだろうという手頃な城館跡を探訪いたしました。

 

新堀城(にいぼりじょう)

 

花巻市石鳥谷町新堀

曹洞宗寺院、新仙寺裏手の山野

 

 目印の新仙寺の前の道を少し過ぎて行くと、かつての石鳥谷町で設置の説明板が目に飛び込んでくる。

 どうやら途中まで車で行けそうな雰囲気だったので、細い砂利道の林道を200mほど進むと、主郭(本丸)下の草地に辿り着いた。

 軽自動車或いは普通車でも小型車が望ましいですが、Uターンするに難儀しますよ。

 

主郭から東部分をみる

 

本丸(主郭) 

 中央奥に巨石がみえますが、「跡石」といって、かつての舘神(稲荷社)を祀っていたといわれる。

 

 空堀

 

 

 

 空堀は西側(新仙寺側)を除く方向に土塁、4~5段の帯郭的平場と共に残されている。

 

二の郭(二の丸)

 

主郭より5m程低い北側に比較的広い平場が形成されている。

北側、西側は空堀によって区切られている。

 

標高199m・比高89m

300m×250m 山城

 

 

 資料には比較的小規模とあるも、遠野の標準的な城館跡と規模的には、ほぼ同じと感じられた。

 しかし、残される個々の遺構は残存度も高く、大き目である。

 城主は、稗貫一族の新堀氏と語られている。

 稗貫領主であった稗貫広忠(花巻鳥谷崎城主)が奥州仕置き(天正18)で没落とすると新堀氏も共に没落ともいわれるが、新掘氏(新堀作兵衛義広)は後に南部氏に仕えたとある。

 新堀城は、稗貫郡、斯波(紫波)郡の境目に位置し、両郡を見渡せる絶好のロケーションであったと考察されますが、まさに軍事交通の要衝、要害といった位置付けであったものと推測されます。

 ただし、新掘氏に関しては、戦国時代は紫波高水寺城の斯波氏の影響下に置かれていた雰囲気が感じられ、奥南落穂集・稗貫家之次第には志和一味 仕信直公
とある。

 

 天正20年、新堀城は葛西氏旧臣で江刺岩谷堂城主であった江刺兵庫重恒が南部信直に仕え、2千石の城主として入った。

 後に子で二代目、彦四郎重隆(江刺兵庫重隆)、三代目江刺長作隆直と続き、長作隆直に時に和賀郡十二ヶ所村の土沢城(花巻市東和町)に1千5百石で移り、新堀城は廃城されたという。

 

 南部藩士、江刺氏は加判役(家老)を務めたり、藩の重職を担う歴代もいたが、やんごとなき事情で家録没収の憂き目となるも、100石で家名再興が成ったといわれている。

 

 ということで、遠野市内の城館跡も素晴らしく、また知られざる城館跡といった雰囲気抜群ながらも、遠野以外の城館跡も、さらにすばらく見応えのある城館跡が多い。

 遠野の城館跡をメインとしながらも、他との違い等も見極めることも大切であると痛感しているところであり、今後、遠野外の城館跡探訪も増えるものと思います。

 

 

 花巻方面に出発する前に、昨日撮れなかった釜石線臨時列車を狙う・・・。

こがね

 

 

本日の昼食は・・・・

また喰ってら・・・と言われそうですが・・・

 

 

 

 花巻方面ということで、やはり大門でしょう・・・・。

 冷麺ランチ・・・(盛岡冷麺普通盛り・ミニビビンパ・アイスかコーヒーかもうひとつ?忘れた・・・汗)   お手頃840円也

 

 3月から歓送迎会とか飲会が続き、さらに長男、二女の進学に遠出、車検に車の購入・・・何かと出費が嵩んで苦しかった・・・・。

 しかも、2月の事故関係は、とりあえず自己負担した内容もあって、なかなかこちらも還ってくる兆しがみえない・・・早く事務処理してくれ~・・・・。

 経済的に苦しい時は、何処にシワ寄せが来るかといえば・・・親父のお小遣いであーる・・・涙

 禁煙効果が少しあるので、その分で史跡めぐりでの昼食(ラーメン等)は賄うことはできましたが、それでも財布には野口先生一人だけが多かった・・・・汗

 ようやく、ここにきて一息つくことができた・・・・

 

 でっ・・・山野俳諧での汗をサッパリと流すのは・・・・

 

 

 

 今年、正月明けにリニューアルということてしたが、その後、行っておりませんでした。

 何処が変わったかというと・・・・サウナの模様替え、露天風呂の縮小・・・冷水機の設置?

 でも、4月中は特別料金、入浴料500円なそうです。

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大原 山吹城跡

2010-04-18 18:13:36 | 歴史・民俗

 遠野の歴史に関連する遠野市外の城館跡含む史跡探訪も視野に入れて、ここ数年少しずつ訪ねておりますが、今回は奥州千葉一族、葛西家中最大の重臣であった大原氏の居城、一ノ関市大東町(旧東磐井郡)大原の山吹城跡を探訪いたしました。

 

大原 山吹城跡の山野

 

主郭(本丸)方面

 

 正面からの攻城ではなく、何故か搦手側から・・・しかも本丸、二の丸それぞれに車で行きつける道が付いている。

 本来は徒歩でと考えていたが、此処で止ろうと何度も思うも結局は二の丸まで車で行ってしまった・・・汗

 

 案外城跡としての整備が整っているといった雰囲気で大原の町側の山野は全て木々が伐採され、木片のチップが敷き詰められた遊歩道が整備されている。

 

本丸跡

樹齢450年と云われる大銀杏

 

二の丸

 

町側の斜面

 

 葛西家中最大といわしめる重臣の大原氏に相応しい構えであり、ひとつひとつの段状の平場(郭)の大きさに感嘆する。

 

空堀跡(北東側)

 

 

 

 

 東西500m・南北300m  比高70m

 

 遠野と大原の関わりといえば「大原新右衛門こと大原弾正勝行」となりますが、過去ログはこちらから・・・、さらに続きはこちら

 

 大東町史にも大原一族とされる大原新右衛門の事が若干記されているが、遠野で伝えられる内容以上のことは記されていない。

 また、これも大原新右衛門つながりであるが遠野における曹洞宗触頭とされる常堅寺との関わり・・・・しかも葛西氏最大の重臣と関連ある内容が残されている現実から当時の遠野は葛西領であった?・・・少なくても土淵辺りは葛西氏の領域であった?と考察もできそうですが、しかしもう少し資料的な何かがほしいところ、さらに周囲の状況含め葛西氏というより千葉一族との関わり等もよく調べる必要があると思われるが、いつもながら逃腰ながらも、今後の課題ということで・・・・汗

 阿曽沼氏と葛西氏との関わり、千葉一族との関係は?こちらも徐々にと・・・。 

 それと八戸直義(遠野南部氏)が寛永4年に遠野に入部した前後に大原新右衛門の足跡が消えているが、その後は・・・・?

 笛吹童子氏指摘で松崎観音関連にて記されている大原勝三郎は?横澤氏は・・・?

 

 今回、横澤氏に関しては、当時、遠野で八戸直義に仕えた横澤久蔵と盛岡南部家に仕えた遠野出の横澤家が存在したことを見つけた。

 横澤氏は多田氏系となっているが、かつては葛西氏家臣で室根辺りに勢力を持っていたという内容も見聞きするも、おそらく奥州仕置後に他の葛西旧臣達同様、遠野へ移って来た一族がいたものだろう・・・・いずれこちらも徐々に・・・・。

 

 

 

 

 ちょっと前の東磐井郡に行くということは、ほとんど無かった。

 あったすれば東山町の猊鼻渓に一度、菅公夫人(菅原道真夫人)の墓所を訪ねたことくらいで大東町に関してはピンと来なかった。

 しかし、よく思い起してみると、小生が20代の若い頃、よく地元テレビのCMやら新聞広告で気になるお店があったことを思い出す・・・・・。

 小生も含め同級生や同年代の友人達の憧れ・・・・いつか行ってみようと話していたこともあったし、実際に行って買って来たという知人もいたような・・・。

 

 今回、大東町へ行ったことにより、かなり遅くなりましたが、その存在を実際に確かめることができました。

 

ピッ○イ○大○

 カッコ良くセンスあるタイヤやアルミホイールが安く売られている、CMなんかをみていると遠くてもいつか行って見てみたい、できれば買いたい・・・そんな事を友人達と話をしていたことを思い出す・・・。

 その後、カー用品販売の大型店舗が北上や盛岡、そして花巻に出来たこと、地元でも安価で買えるということもあって、いつしかこちらのお店の事は気にしなくなったけど、まだまだ地元で頑張っている雰囲気、懐かしく思いました。

 

 

おまけ

一年以上?・・・ご無沙汰していたラーメン

 

南部ラーメン

 小生が思う味噌ラーメンといえば、この南部ラーメン・・・。

 濃厚でもなく薄いでもなく・・・小生の味覚には丁度良い味噌ラーメン、たまに食べたくなるのですが、今回は1年以上ご無沙汰となってしまった。

 

 

 さらに・・・おまけ

 

ネネ

 

 傷口からの菌で化膿、左前足が腫れて歩行もままならなかったが、ある日、膿が破裂すると一気に快復に向かい、もとの元気な姿に戻りました。

 元気だと寝姿も安心といいますか、可愛く感じてしまう・・・汗

 

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遠閉伊は遠野か?

2010-04-16 18:31:17 | 歴史・民俗

 遠閉伊村に関しては「日本後紀」(承和7年・840)に記され、坂上田村麻呂が遣わせられ遠閉伊村を討つも頭目の多くは山谷に逃れたので文室綿麻呂を後に遣わしてとされる。

 後任となった文室綿麻呂は弘仁2年(811)、陸奥、出羽両国合せての大兵2万6千人余を以て爾薩体、幣伊(閉伊)の2村を襲ったが、閉伊村に関しては蝦夷の類はあまりにも多くて、国軍だけでは手に負えない状況に成りえるので、さらに俘囚軍(朝廷配下の蝦夷)を動員して討ったとされる。(夷を以て夷を制す)

 朝廷軍による最後の蝦夷平定戦は、閉伊村攻撃を以て一応終了といった内容が僅かに記されているが、その詳細は全く不明といってよい。

 爾薩体は、現在の岩手県二戸市とされ、昭和30年まで村としての仁左平といわれるが、広く旧二戸郡を指すのではないのかと考えられている。

 また閉伊村に関しては、現在の上下閉伊郡の内といった考え方であるも、識者の間では久慈市或いは九戸村辺りではないのか?とも論ぜられている。

 いずれ爾薩体と閉伊村はさほど離れた場所ではないという見解なのかもしれない。

 

 さて・・・遠野において田村麻呂伝説といいますか、関わりある場所として小生は一番にこの場所を思い起こしました。

 

羽黒岩

 

遠野市綾織町新里(寒風)

 

矢立の松伝説と関わりある大岩

 

 

 

 羽黒岩がある山野は羽黒窟といわれ蝦夷の族長、岩武丸の拠点であったという。

 

矢立の松

 和賀郡より攻めてきた坂上田村麻呂将軍は砥森山(宮守)の頂上から弓を射ったがその矢先は寒風の羽黒岩の松に突き刺さったと伝承されている。

 また、田村麻呂将軍と蝦夷族長、岩武丸との戦いを物語る内容として、矢立の松には当時の戦いでの鏃約80本が木の幹から出てきたといわれ、その鏃は同町内の光明寺に保管されているとか・・・。

 

 羽黒堂・・・出羽神社

 

 遠閉伊村・・・・いずれ坂上田村麻呂或いは文室綿麻呂による遠閉伊村攻撃、仮に坂上田村麻呂による平定戦があったとして、朝廷軍は北上川沿いを北上、そしてその支流たる猿ヶ石川沿いにさらに奥地へ侵攻といったことも大いに考えられるのではないのか?

 和賀、稗貫、志和といった郡が置かれて間もなくのこと、征夷軍は猿ヶ石川渓谷を奥地を進み、その先がすなわち遠野地方、遠閉伊だろうと「伊能 嘉矩」は述べているという。

 

遠野(とおの)という地名の語源は?

 大方の説としてはアイヌ語説が有力というか一般化しているような・・・?

 すなわち「トウヌップ」・・・湖沼のある野原・・・と意味付けがされているが、もうひとつ「遠閉伊」とおのへい、とおいへい・・・という内容も一応あるということも付け加えたい。

 こちらは閉伊という地域にあって、さらに遠い閉伊・・・閉伊の奥地という意味もありそうですが、遠い閉伊の野・・・から遠野となったという説も語られてはいる。

 遠野はその昔、蝦夷と呼ばれる人々が住む地域であったと思われ、当然ながら当時の人々による地名が語られていたものと推測されますが、それは和語地名ではなくアイヌ語にちなむものといったことが考えられる。

 蝦夷とアイヌはどう違うのか?そういった議論にもなりそうですがね・・・。

 当時の人々が語っていた地名やその意味を解釈してそのまま和語地名として使ったのではないのか?

 そうなると遠野は「トゥヌップ」からかな?

 いずれ阿曽沼時代初頭(鎌倉期)までは、河川の氾濫等で川の流れは色々と変わり、その名残の湖沼も多く点在していたのではないのか?とも考察されているし、地質等調査でもその痕跡は結構出ているともいわれている。

 う~・・・ん・・・もう少し検討してからまた挑戦したいと思います・・・汗

 

 

 

 おまけ

 

決してストーカーではありません。

 

 ちょっと内陸方面に行ったついでに、自分の地理的感を試してみようと以前某ブログでみた風景の画像の記憶を頼りに探してみました・・・汗

 

 たまたま間違って入った道の先に・・・・大汗・・・おそらく此処だっ・・・笑

 

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鳥海の柵

2010-04-15 19:05:01 | 歴史・民俗

 久しぶりに天気が回復したような気がするも、風が強くそして冷たい・・・4月も半ばを過ぎ、岩手県でも桜の開花話題があってもよさそうですが、まだ正式に咲いたという知らせは入っていない・・・・。

 気温が低めながらも、洗車する姿が多く見られた日でもありました。

 

スーパー遠野プロガーも洗車中・・・笑・・・お疲れさまです。

 

 

「鳥海柵」

 鳥海柵跡(とのみのさく)

 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字鳥の海

 

 

 

 前九年の役に関連する主要柵(城館)のひとつで安倍一族である安倍宗任(安倍頼良の三男と云われる)の居館と伝えられている。

 東北自動車道ルートであったため、大がかりな発掘調査が行われ、平安時代の柱脚跡や柵跡、鍛冶場跡、竪穴式住居跡及び土器類が出土、さらに空堀が発掘され鳥海柵跡と断定かと期待されたが、決定的な場面とは至らなかった。

 しかし、岩手県内に鳥海柵の比定地が5箇所ほどあるといわれるが、継続された発掘調査の結果、ほぼ金ヶ崎町の鳥海柵跡と伝えられる場所で間違いないだろうと決着したとのことである。

 胆沢城跡(鎮守府)にも近く、とにかく見晴らしが良い、位置関係やら雰囲気からしても此処で間違いないと小生も信じてやまない・・・。

 

空堀跡

 

 

 

 

 主要部分は田んぼ・・・西側は東北自動車道で寸断され、解説板が立つ場所近くは高速道を走る車がビュンビュン・・・駐車スペースは約2台程度か・・・高速道路脇の細い砂利道を進むと柵跡の主要部分となりますが駐車スペースで車のUターンもままならない・・・笑

 しかし、郭を区切る空堀跡は見事で見応えがあった。

 

 ところで遠野でも鳥海と伝えられる場所が残されている。

 安倍宗任と関係する具体的な謂れがあるのかは不明であるが、上郷町細越(佐野)の鳥海の存在・・・遠野では「とんのみ」と呼ばれてますが、安倍時代に関わる何かしらの関連は無いとは言えきれないだろう・・・・。

 とのみ・・・と言っているが遠野同様、金ヶ崎でも「とんのみ」と呼称していたりして・・・・?・・・南部と伊達の訛の違いはありそうですがね・・・笑

 

 安倍宗任は鳥海三郎ともいわれる。

 前九年合戦での安倍一族棟梁は宗任の兄である安倍貞任であるのは承知のことですが、とある講演会での資料の内容では、貞任は安倍家嫡子でなく宗任が嫡子であるかのような内容を思い出す。

 何故に宗任は厨川柵で安倍一族が壊滅した際に源 頼義に許され処刑されなかったのか?配流という処置であったが、これは宗任は安倍頼良の正室の子で、清原一族と関係する女が母親だった可能性を指摘した内容だった記憶が・・・・資料を探し出すことが出来なかったのでこれ以上は記することはできませんが、安倍時代関係を調べる際に頭の片隅にでも入れて置きたいと思ってます。

 

 

安倍宗任の逸話

 説明板にも記されていますが、宗任が敗軍の将として京都へ連行され、都人達は奥州の無教養な荒くれ、野蛮人として安倍宗任を見ていた。

 貴族の一人が田舎者は梅の花を見たことないだろう・・・ということで、からかう意味で梅の枝を折って宗任に「これはなんという名の花か」と訪ねる。

 

 鳥海柵跡に咲く梅

 宗任は・・・・「我国の梅の花とはみたけれども、大宮人は何と云ふらん」・・・と和歌で返したので、訪ねた都人は顔色を失い、奥州の田舎人とはいえ、その教養の高さに感嘆したとのことです。

 

 

 

 おまけ

 

 

 ブログでの温泉仲間さんのエントリーをみて、金ヶ崎町に行ったということで、「金ヶ崎温泉 駒子の湯」を目指す・・・・。

 けっこう遠い、山間に入ると遠野では貞任高原や荒川高原みたいな景色が広がり、酪農をされる家々が点在する中を道は続いている。

 ほんとに温泉に着くのか?不安であったが、老人介護施設?に隣接する温泉を発見、安心して駐車場に車を滑り込ませると・・・・ガピーン・・・大汗

 なんと定休日のようだっ・・・涙

 

 この界隈というよりもさらに奥とか近くにも別な温泉施設があるといった看板はみておりますが、ここは一度、里の方へ戻り、「みちのく城址温泉」に入ることに・・・・。

 天然温泉ということ、大好きなサウナもあって、一応満足いたしました。

 此処は「みどりの郷」と銘うってますが、かつての「サン○ア」ですよね。

 夏には遠野から遥々、子供達が小さい頃、プールに何度か遊びに来たことがありました。

 流れるプールとか、かつての遺物が残されている光景が少し寂しく感じられました。

 

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和賀岩崎一揆加勢の事

2010-03-09 16:04:37 | 歴史・民俗

 5回にわたり、概略的な和賀岩崎一揆について記して参りましたが、まだまだ参考とした資料や図書書籍もあったのですが、今回は北上市史をはじめ近辺の自治体史を主に活用という内容でもありました。

 和賀岩崎の陣・・・というように南部家側が一揆鎮圧に軍勢を差し向けたという内容で、南部家側からの資料が主であったこと、次に取り組む際は伊達家側からの視点といった内容も取り入れながら調べを進められたらと思っております。

 

 さて、慶長5年9月~翌6年4月(1600~1601)の和賀岩崎一揆、和賀氏旧臣や稗貫旧臣達が主ではありましたが、南部根元記(北上市史)、奥南落穂集(花巻市史)に和賀岩崎一揆に加勢した遠野武士の名が記載されている。

 このことについては、以前から気になっており、特に「奥南落穂集、遠野家之次第」の項に慶長6年時と思われる遠野阿曽沼家臣等が記されており、さらに別項の「和賀家之次第」に和賀岩崎一揆に加勢した遠野武士9名が記されている。

 

和賀岩崎一揆加勢

・阿曽沼四郎広縄

・駒木内膳

・平倉刑部

・宇夫方八郎右衛門

・白岩左衛門

・畠中五郎八

・金沢与五郎

・細越与三郎

・栃内善兵衛

 

 ・まずは阿曽沼四郎広縄

 遠野領主であった阿曽沼広郷の二男と記されているが、遠野の歴史においては、ほとんど語られることのない名でもあり、阿曽沼家系図においても、資料等をもとに書かれた内容に登場するにとどまっている。

 ・駒木内膳

 阿曽沼旧臣にして、南部利直に仕えた駒木氏が歴史上存在しているが、主な人物として駒木豊前広道、子の隼人広三、同じく六兵衛広安、他に駒木一族として寛永4年(1627)以降に遠野領主、八戸直義に仕えた駒木氏が散見されるが、内膳については不明である。

 ・平倉刑部

 上郷平倉に縁ある武士であることは想像でき、平倉刃金館の平倉新兵衛の近親者と思われる。始め新助・・・とある。

 ・宇夫方八郎右衛門

 綾織宇夫方氏の一族であるのは想像ができるも宇夫方掃部、宇夫方八郎右衛門
、宇夫方多兵衛の3名が記され、和賀岩崎一揆加勢は八郎右衛門となっている。

 所伝では宇夫方一族は、西風館氏が主流となるも後に両者共に没落という内容もあり、それでもその姓が記されていることに興味を覚える。

 

谷地館跡(綾織町二日町)

 かつては遠野西側の盟主として名を刻む名族であった宇夫方氏。

 江戸期は遠野南部家に仕え、代々文官としての才で多くの事績を後世に残している。

 

 ・白岩左衛門

 遠野旧事記には白岩嘉兵衛の名が記されているが、こちらとの関係は不明。

 

 ・畠中五郎八

 畑中氏は南部利直に仕え盛岡南部藩士となった家でもあり、その一族であろう・・・。遠野の城館跡関係資料には阿曽沼広郷時代、畑中館主のひとりに畑中五郎八の名がみえるが、どの資料から引用したものかは不明・・・。

 

 ・金沢与五郎・・・・勉強不足で不明

 ・細越与三郎

 細越氏は南部利直に仕えた盛岡南部藩士の家系であり、与三郎は色々と遠野関連資料をみると与三郎敏広となりそうですが、当時の細越氏当主であると思われる。何故に南部家に対抗する和賀勢へ加勢となったのか、こちらもさらなる調べが必要でもあろう。

 ・栃内善兵衛

 土淵栃内村の栃内氏、江刺氏支族ともいわれるが、善兵衛は伝承によれば盲目の兵法者で栃内地域の馬産振興に尽力した人物と語られており、何故に和賀一揆加勢なのか?いずれ栃内一族も南部利直に仕えているので、さらなる調べが必要と思われる。

 

早池峰山

 

六角牛山

画像は以前撮影したものです。

 

 遠野から和賀一揆勢に加勢、早池峰山も六角牛山も瞼に焼き付けて出陣していったものと推察されますが、遠野から加勢した9名の武士は、どの時点から一揆勢に加勢したのだろう?

 慶長5年9月であれば、横田城主、阿曽沼広長は軍勢を率いて南部勢として最上山形に参陣しており、一応、南部方としての態度であったはず、この前後に鱒沢広勝や上野広吉等による遠野制圧のクーデターが勃発したものと思われるが、この時にハッキリと内外に南部方としてその姿勢を示したことにもなりますが、これに反抗するグループが伊達家支援の和賀一揆勢に将来を託したものなのか?それとも、どちらに転んでも生き残りをかけて一族の一人を各々加勢させたものなのか?

 

 当初、資料の記述の和賀岩崎一揆加勢・・・を見た時、南部勢として加勢した遠野武士が居たと勘違いしたこともありました。

 

旧横田城跡(松崎町光興寺)

昨年初冬の頃の画像です。

 

 和賀岩崎一揆とは関係ありませんが奥南落穂集には、阿曽沼広縄の他に阿曽沼広重の名が記され、広長、広縄の兄弟であったと推察される内容ですが、伊達家家臣の気仙鮎貝氏関係の調べでは、鮎貝氏家臣の梅田氏は阿曽沼広重の末裔との情報も聞き及んでおり、記された内容の中には信憑性が極めて高い記述も盛り込まれている可能性があると思われる。

 

 今回は、記された内容と共にいつもながらお茶を濁した簡略的な記述となりましたが、もう少し踏み込んで、いつか調べてみたいと思っております。

 いずれ、一揆に加勢した人々の一族には敵方であった南部利直に仕えた方々もおり、このことも興味を覚えますので、いずれまた・・・ということで和賀岩崎一揆に関しては、ひとまず終わります。

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和賀岩崎の陣・五

2010-03-05 18:58:22 | 歴史・民俗

 花巻鳥谷崎城を落城寸前まで追い詰めながら、遂に奪還できなかった和賀忠親率いる和賀一揆勢は、二子城を経て、和賀岩崎城へ兵を移動させて籠城の構えをとる。

 和賀岩崎城は、和賀川と夏油川が合流する地点の南側に位置する丘陵に築かれた和賀郡内では二子城(飛勢城)に次ぐ規模の堅城でもあり、何よりも伊達境に近く、後詰の伊達勢の後援が受けやすい位置付けでもあった。

 続々と伊達家から城内に支援物資等が運び込まれたと想像ができ、城内は士気も旺盛だったと伝えられている。

 籠城する和賀勢は、和賀忠親を大将に和賀、稗貫の旧臣約480名、伊達政宗から派遣された大崎、葛西の浪人衆、さらに郡内の百姓等、総勢約1800名(1500ともいわれる)とされている。

 

 一方、和賀、稗貫領内での異変、一揆を知った南部利直は、参陣中の最上山形の最上義光を介して徳川家康に一揆鎮圧の嘆願して、直ちに少数の部隊を残しただけで、ほぼ全軍をあげて最上山形より南部領内へ軍勢を引き揚げさせている。

 慶長5年(1600)10月3日ともいわれるが、10月8日には南部利直は一旦、本拠地の三戸へ戻り、領内の諸将に岩崎一揆鎮圧の軍令を発して、10月13日には稗貫郡内に至って、和賀方の根子氏、八重畑氏を掃討して花巻近在に陣を敷いた後、数日を要して岩崎城に向けて南部勢約5千名が進軍し、10月18日には三月田(江釣子)に陣を構え、10月23日に岩崎城支城の兵庫館を攻めて占領、南側からの伊達勢による支援を遮断する意図の他に岩崎城攻撃の拠点とするべく、夏油川沿いの高台に位置する七折に前線基地たる陣を構築する。

 直ちに南部利直は岩崎城総攻撃を下知するも、一揆籠城軍の防備は固く、頑強な抵抗に遭い、その一角を崩すこともできず、降雪の季節を迎えてしまい、旧暦11月16日(新暦では12月21日?)やむなく雪解けを待ってからの再攻撃を下命して、浄法寺修理、南右馬之助を包囲軍の将に残して南部勢は一時撤退するに至る。

 

 余談ではあるが、2千名近い兵が冬季の岩崎城に籠ること、和賀郡内では屈指の規模を誇る城館であっても、将兵全員を収容できる建物が数多くあっただろうか?また雪深く厳寒な地、暖をとるには薪類が全てで、しかも四六時中、暖をとるための火は必要で、雪解けまでの約5ヵ月間、豊富な兵糧やら物資があっても、持たなかったのではないのか?といささか疑問でもあった。

 小原藤次氏 著「没落、奥州和賀一族」では、小生の疑問と同じような記述があり、全兵収容しての厳冬期の収容は不可能との見解が示され、南部勢の包囲もそれほど厳重ではなく、その目を盗んで一揆勢の中には、かつて見知った郡内の知人や遠戚を頼って城内より出ていたのではないのか・・・と考察されている。

 そして春先に決戦に備えて順次城へ入っていたのではないのか・・・と記されている。

 

 

 

 

 慶長6年(1601)3月、雪解けを待って南部利直は総勢4千7百といわれる南部勢を率いて、再度和賀郡岩崎城攻撃に進発する。

 3月17日、三方を囲んだ南部勢は総攻撃を開始する。

 

 一方、伊達勢は、岩崎城支援の後詰の拠点を水沢城(奥州市水沢区)に定めていた。

 伊達政宗の命令の下、水沢城主である白石宗直が指揮権を以てその後詰にあたっており、白石宗直は伊達家重臣中の重臣であり、後に最上位の一門第5席の家柄となり、登米伊達家2万石の祖である。

 

 さて、南部勢に包囲された岩崎城であるが、当初は南部勢の攻撃をよく凌いでいるも、数任せで連日攻撃を続ける南部勢の前に日に日に籠城の一揆勢も消耗が激しくなり、しかも兵糧等も乏しくなりはじめる。

 岩崎城救援のため、白石宗直率いる伊達勢が六原野及び相去(北上市)の谷地小屋地区に進出し、白石配下の鈴木将監、浜田三郎衛門が率いる伊達勢数百が4月4日、密かに岩崎城に物資搬入を試みるため夏油川を渡河して南部領に侵入したが、この動きは事前に南部利直の知るところで、迎撃部隊長に大光寺正親、副将に中野吉兵衛の精鋭部隊が伊達勢に攻撃を加えた。

 一連の和賀一揆での戦いで、南部方と伊達方の局地的な小さな戦いはあったが、この岩崎城近くの夏油川の戦いは、南部利直率いる南部正規軍と伊達家家臣とはいえ、伊達家重臣が率いた列記とした伊達勢が本格的に戦闘を行ったもので、伊達方の鈴木将監が討ち取られ、伊達支援隊は散々に敗れて壊滅し、憤りを隠せない白石宗直は母帯越中に7百の精兵を引率させて南部利直本陣に奇襲を敢行するも、これも事前にその動きを察しられ、逆に南部勢に包囲され、こちらも壊滅的な打撃を受けて敗退する。

 これにより伊達勢は岩崎城支援を諦め伊達領内に撤退となり、孤立無援となった岩崎城籠城の和賀一揆勢は、日増しに兵員が減り、遂に4月26日夜、火攻めによって岩崎城は落城する。

 和賀忠親と主な将は、岩崎城から脱出、伊達政宗を頼って伊達領に逃げのびるも、既に徳川家康からは南部家と伊達家の私闘という承認があったかどうかは不明であるが、いずれ後詰であっても明らかに和賀一揆勢への支援は事実であり、伊達政宗は和賀忠親を庇うことなく南部領での一揆首謀者として葬り去っている。(自刃説が一般的だが殺害された可能性が大と思われる)

 水沢城主の白石氏は間もなく登米に移封されたが、母帯越中は一揆の後援主謀の罪を一身に浴びて詰腹を切らされたものと思われる。

 

 

参考図書

北上市史2・3(南部根元記・・聞老遺事・奥南盛風記)、奥南旧指録(南部叢書)

没落奥州和賀一族(小原藤次 著)、東和町史、大迫町史、遠野市史1・・・他

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和賀岩崎の陣・四

2010-03-04 19:06:05 | 歴史・民俗

 慶長5年(1600)9月、旧和賀領主、和賀義忠の遺児、和賀忠親はかつての和賀氏旧臣等を以て挙兵、一連の和賀一揆の始まりである。

 まずはかつての和賀氏居城であった二子古城を占拠、またたく間に和賀郡の旧領のほとんどを南部氏から奪還し、稗貫郡の花巻鳥谷崎攻略を主たる目的として次の作戦が開始された。

 まずは、詳細は不明ながら9月13日とも20日ともいわれますが、田瀬、安俵(花巻市東和町)方面の攻撃が開始され、これは鳥谷崎城から繰り出す援兵を誘い出し、手薄となった鳥谷崎城を奪取する作戦だったといわれている。

 田瀬、安俵方面攻撃部隊は、伊達家臣の上郡山主水に率いられた浪人部隊約300余りが江刺郡(奥州市江刺区)人首(ひとかべ)から南部領境の覚間沢へ侵入し、これを占拠、その勢いのまま南部方、江刺長作隆直配下の小田代肥前が守る田瀬館を攻撃する。

 江刺長作とは、かつての葛西氏旧臣で江刺郡主で岩谷堂城主、江刺兵庫頭重恒の孫で、江刺氏が奥州仕置きで没落した後に、奥州仕置軍の将、浅野長吉に嘆訴して南部信直の家臣となり和賀郡内の土沢を領し新堀城を居城としていた。

 江刺長作は隆直といい、父は江刺重隆。

 

田瀬館跡(花巻市東和町)

 伊達勢の攻撃の前に田瀬館は落城寸前まで追い込まれたが、江刺郡の住人で旧千葉氏家臣の及川左近、左近の子で下河原若狭が手兵を率いて寄せ手の上郡山勢を攻撃し、これを撃退した。

 

田瀬湖

 当時はダム湖はありません・・・笑

 

 一方、安俵城は原帯主膳が守将であったが、伊達家臣、藤田右衛門が率いた浪人部隊が口内(北上市口内)方面から侵入したので、口内近辺で激戦が繰り広げられ、原帯主膳は討死するも新堀城から江刺長作、花巻鳥谷崎からの援軍も到着して、伊達勢は敗れ撤退となる。

 

 さらに密かに稗貫郡大迫(花巻市大迫)に侵入潜伏していた、かつての稗貫家臣で大迫城主であった大迫右近の子、又三郎、又右衛門兄弟は旧臣を集め、伊達勢の猪倉伯耆の鉄砲隊の支援のもと、約300の兵で南部方、田中藤四郎配下の石田数衛の守る大迫城を攻撃し、石田は討たれ、大迫城の奪還に成功する。

 

 一方、花巻鳥谷崎城は、「和賀岩崎の陣・弐」で記したように、旧和賀、稗貫勢の攻撃を城将、南部家重鎮の北信愛(松斉)が僅かな城兵でよく守り通し、和賀勢は二子城へ撤退、そして和賀岩崎城に籠城となるのですが、大迫は稗貫郡の北方に位置し、真先に南部勢の反撃に遭う位置付けでもあり、南の田瀬、安俵、そして稗貫郡内の本拠地たる鳥谷崎城が一揆勢の手に落ちなかったことで、後方からの支援が望めないことで孤立という状況で、しかも南部利直が最上山形から大軍を率いて戻ってくれば、ひとたまりもないと判断した伊達勢は撤退、大迫兄弟も夜陰に紛れて密かに城を逃げ出して、岩崎籠城軍と合流している。

 別説では大迫城は南部方、乙部氏によって攻められ再奪還されたともいわれる。

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