「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

米ヶ崎城探訪

2010-01-27 18:16:24 | 歴史・民俗

 遠野市内をはじめ隣接市町村の山城等の城館跡探訪はオフシーズンですが、積雪がほとんどない県南地区や三陸沿岸地区の城館跡はベストシーズン、遠野でのオフに合せて少しでも他地域の城館跡を見てみたいということで、予てから気になっていた陸前高田の米ヶ崎城を訪ねて参りました。

 

米ヶ崎城

広田湾に若干突き出た半島に築かれた海の要害

葛西領気仙郡旗頭である千葉氏(浜田氏)の主城

 

空堀跡

県道38号広田~高田間の県道沿い近くに残されているかつての空堀跡の形状

 

 海側突端より現八幡社、本丸、二の郭、三の郭・・・さらに県道沿い、県道、JR大船渡線を越えての山野も城域といわれ、広大な城であったと思われます。

 

本丸から米ヶ崎八幡が鎮座する平場方面

 

本丸付近の空堀

幅25m~30mに及ぶ大きな空堀

 

突端部分、八幡社側の帯郭

 

米ヶ崎八幡神社

 

八幡社下の郭

 

本丸

 

 勢力と城館の大きさは、必ずしも比例しないともいわれるが、米ヶ崎城に関しては気仙郡千葉一族の旗頭に相応しい規模を誇ると正直思いました。

 しかし、実際にじっくり見れたのは海側の突端部分、米ヶ崎八幡とその周囲の郭、そして半島部分の最高点と思われる本丸跡付近が主でもありました。

 山野の中央付近は住宅地、畑等の農地で、かつての形跡を若干確認することはできますが、道路や宅地となったり、藪と畑といった組み合わせで探訪には少し難儀したのも事実でもありました。

 しかしながら、遠野では絶対見られない海に面した城跡、三方を海に面し、斜面には3段程度の帯郭が配置されていますが、最下部は海面も至近ということで小船等を寄せれば城に入ることも可能ということで、とにかく珍しいものを見たという思いが強いものとなっております。

 

八幡神社から広田湾(太平洋)

 

千葉氏(浜田氏)

 鎌倉時代初頭、葛西氏領に千葉一族が何家が入部したと伝えられるもその詳細は不明とされる。

 気仙郡の千葉氏は、最初本吉郡南部に入部した千葉氏が兄弟の一人を気仙郡へ分立させたことが始まりと伝えられ現在の陸前高田矢作辺りといわれる。

 これが矢作千葉氏であり、矢作氏は高田、広田方面に勢力を広げ、さらに後に浜田・高田・長部となる兄弟を各地に分立させ、気仙郡内の一大勢力へと成長していく。

 南北朝争乱が終焉して間もなく、浜田氏、長部氏に亀裂が生じ、一族間の争いとなり、浜田氏が長部氏を破ってその勢力下へ置くと高田氏の後継問題に付け入り浜田氏が養子を送り込んで実質的に高田氏も把握する。

 永正元年(1504)、時の浜田氏当主、浜田基継は磐井郡大原山吹城の大原信明と気仙矢作で戦っている。

 この戦いでは、浜田氏の宗家矢作氏は、大原方となった模様で浜田氏が敗れ、浜田氏は一時成りを潜めた時代が続くことになったと思われる。

 

浜田広綱の乱

 戦国末期、浜田氏当主、浜田安房守広綱時代に気仙郡千葉一族の旗頭としての地位を確固たるものとしたと推測されますが、永禄3年(1560)、浜田広綱は惣領葛西氏に背命して騒擾し、熊谷直賢らと交戦したが、熊谷勢の必死の反撃で降伏。

 この頃、高田城から米ケ崎城へと拠点を移し、軍拡を進め、浜田氏の軍事力は最大となり、天正15年、本吉重継と不和となり、本吉郡に侵攻したが、葛西太守の仲裁で撤兵する。

 しかし、翌天正16年春、再度本吉郡へ侵攻、浜田勢は防衛の主力である気仙沼熊谷勢と篠峯山麓で激戦を繰り広げるも、熊谷勢の奮戦の前に終始劣勢となり徐々に戦線か本吉郡から後退、ついに8月に浜田広綱は降伏した。

 この一連の合戦を「浜田広綱の乱」と称される。

 

 千葉安房守広綱(浜田安房守広綱)は、熊谷氏との戦いで敗れ惣領葛西晴信により浜田領が熊谷氏をはじめ浜田氏との合戦で功のあった諸将に分け与えられ、没落する。

 広綱は文禄年中に病没と伝えられる。

 

千葉安房守の墓



 

 米ヶ崎城本丸跡、北東端に千葉安房守(浜田)の墓所がある。

安房守、安房守夫人、家臣の大和田掃部、それともう一基

家臣の苗?姓・・・読めなかった・・・汗

 

 なお、米ヶ崎八幡神社関連で記名されるものには大和田姓が書かれていた。

 また、陸前高田市内には大和田姓が確認できる。

 別説では大和田掃部は安房守配下の広田城主で、豊臣政権時代初頭、深谷で討死或いは佐沼城で討死ともいわれる。

 子息の右馬亟は難を逃れ遠野に流浪、潜伏していたともいわれる。

 

 浜田広綱の弟とされる浜田喜六(気仙上有住城主)の存在、また遠野阿曽沼氏に仕え、八戸から八戸直義が遠野へ入部前に南部利直より500石を給されていた浜田彦兵衛の存在等、かなり気になる内容なのですが、浜田を名乗ること自体、今回探訪した米ヶ崎城の浜田氏に何かしら無関係ではないと思われてならない・・・。

 

 気仙千葉一族の高田氏の居城、高田城(東館)、後に浜田氏が米ヶ崎城へ移るまで居城としていたともいわれ、高田城跡も探訪しなければと考えているところです。

 

ソテツ

 岩手県では一番温暖な地である陸前高田、遠野ではほとんどみられない木々が至るところで見られる。

 住田の世田米辺りまでは日陰等に積雪がみられましたが、陸前高田市に入ると高い山以外は雪が皆無、たまたま本日は南寄りの風が吹いて少し気温が上がったせいもあるかもしれませんが、高田の風は柔らかく、春先のような気候・・・

 

 こちらも無論、屋外の遠野ではほとんどみられない・・・というより見たことがない。

椿

終わりかけてました。

 

 

本丸の番犬

・・・

・・・

 

吠えない番犬でした・・・爆

 

 

そして心地良い汗をかいた後は・・・・

・・・

・・・

 

温泉

 

 

かなり久しぶりの五葉温泉

しゃくなげの湯

 

 

いい湯っこでした・・・。

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16 コメント

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ラーメン・温泉・飲み会 (カニ)
2010-01-27 22:15:03
とらねこさんのコース?段々わかって来ました♪
しっかし、長文打って疲れませんか?
関心します。
雪がないのにも・・汗
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ソテツ (女王様)
2010-01-28 14:11:27
珍しいですね。私の姉が好きな植物です。こちらには、お邪魔しているようなので、嬉しい一枚だと思いますよ。温泉と言えば「東○温泉」宣伝を聴いていると、とっても良さそうですね。気になっています。
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2時間 (とらねこ)
2010-01-29 09:40:17
カニさん
ブログ編集、特に歴史ものなら画像の編集から始まって、参考書籍や資料をみながらの打ち込みで、2時間以上はかかりますね・・・汗
中には半日、4時間もかかったものもあったと記憶しております。
編集途中で変なところをクリックしてしまって、その努力が水の泡という場面も何度もあって、やり直しにさらに数時間、確かに疲れます。
そして自分でも力作だと思ってエントリーしてもコメントがない、反応がない時もあって、さらにガックリというのも多々あります。
マイナーな内容でもありますから仕方ないと割り切りながらも歴史ネタはやめられません・・・笑
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南国 (とらねこ)
2010-01-29 09:43:35
女王さま
岩手の内陸では滅多にみることのない植物、なんか南国にでもいるような錯覚も覚えました。
最近までソテツとかも知らなくて似たような木々をみれば、みんなヤシの木だと思ってましたから・・・汗

そういえば東○温泉、リニューアル工事も終了して再開しているようですね。
早いうちに湯っこを堪能しに行かねばと思ってます。
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本を前提に (稲用)
2010-01-29 17:42:52
多忙人士からすると、2日に一度、2~4時間をかけるというのは、うらやましいとしか言いようが無いと思いますが、どうせそれだけの時間を使うのであれば、本を出す、あるいはWebサイトを作るのを目論んで書いてみてはいかがでしょうか。

結果的に本になる、ならないは別として、それを目標として、テーマを決めて、構成を決めて、そして部分を書いていくのです。

そうすると、まとまったものになって、ご自身も満足感があると思いますよ。

館跡も行って感想を述べておしまいではなく、もう一歩「研究」という分野に踏み出してみてはいかがでしょうか。

あ、でもブログってそこまで硬いものじゃないんですよね。スミマセン。
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もうちょっと・・・ (とらねこ)
2010-01-29 18:04:37
稲用さん
以前共に史跡探訪したり、色々と郷土史関連について語りあった頃の夢はまだもち続けながらも、現実との狭間で本腰を入れるには、もう少し先といったところです。
2時間前後といっても、歴史ネタのみで、これは月に一度あるかないかですから・・・後のブログエントリーは1時間もかかりませんしね。
8年開設していたウエブサイトも閉鎖、気持ち的には身軽になった思いですが、その時期が来たら大いにはじけると思います。
いずれ今後もご教授をいただければと思ってますのでよろしくお願いします。
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2時間?(*_*) (カニ)
2010-01-29 23:40:49
これだけやれる、とらねこさんで2時間って事は・・カニは1ヶ月ですね(無理か)

コメント0は、同じく悲しいけど、自分勝手な日記なんだ!って思うようになりました(悲し)
人それぞれ興味?感性?が違うし、しかたのない事ですよね。
でも、とらねこさんの『史跡探訪』自分の足で歩いて調査して写して書いてって、凄いと思います。
絶対×2カニは無理なので・・尊敬の一言です!
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日記的 (とらねこ)
2010-01-31 09:48:08
カニさん
確かにブログは日記的に良いものだとは思います。
過去ログなんかみると、あの頃はこんなことしていたとか、イベントがあったとか思い出されて良い面も多々あります。
しかし、全世界に公開されていることを忘れてはいけません。
自分のこと、家族のこと、その時の思いを書きとめる日記とはいえ、全く性質は異なりますからね。
コメントいらないならブログは不要だと小生は思うタチで、誰かに賛同なり意見をいただく、或いは情報をいただく、本心はこういった人との関わりも実は求めていることだと思います。
ですからカニさんの本心は正直な気持ちだと思います。
カッコつけて自身の日記だからコメントはいらないとか、コメント停止している人もおられますが、これは他人の日記の押し付けだといつも考えております。
と・・・行っても歴史なんかの見解や考察は、好きでないとコメント返しは望めないし、書いた側の自己満足という意味合いが強いですがね・・・・笑
返信する
ちょっと異議あり (稲用)
2010-01-31 18:58:43
カッコつけないでコメントできないようにしている人もいますよ。私みたいに。でも、必要であれば皆さんメールを送ってくださります。ありがたいことです。やり取りは極秘のうちに行われております。

では、逆にお聞きしますが、コメントがつけられる状態であっても、他人の日記の押し付けにはなりませんか?

ちょっとつぶやいてみたいなとか、その程度でも良いんじゃないでしょうか。

要は、見たい人は見ればいいし、見たくない人は見なければいい。それだけのことだと思います。
返信する
小生の考え方です (とらねこ)
2010-01-31 21:03:39
稲用さん、こんばんは。
手厳しいご意見ですね・・・。
あくまでの小生の考え方です。
稲用さんのスタイルを否定するものではありませんし、稲用さんのサイト等で気になる記事やら内容があればメールで問い合わせも可能で、また他の方々とのやり取りがそれで済むのであればそれにこしたことはないと思います。
また稲用さんは知らない仲でもありませんので、小生も何か記事や内容で気になること、興味あることはメールで問い合わせをすると思います。

ブログ等、日記的意味合いも含めて誰かにみてもらいたい、できれば反応があればなおよろしい・・・が小生の本音です。
カッコつけてとかの文言は小生の言い過ぎ、配慮不足であったたことは認めます。すみませんでした。
コメント欄があること、これを閉じる必要は迷惑コメント防止とか心無い人の書き込み抑制以外は閉じるべきではないと思うのが小生の考え方です。

コメントがつけられる状態でも、他人のの日記の押し付けという考え方、これは良く考えてみればその通りかと思いました。
見たくなければ見なければ良い、これもその通り、でもこれと同じでコメントしたくなければしなくて良いと同じかもしれませんが、ゆはりコメント欄を開放しているのであれば、コメントがほしいが小生の気持ちです。
これは正直な気持ちです。

重ねて申しますが、これは小生の考え方です。
どんなスタイルでも良いと思いますし否定はしませんが、小生とのスタイルとは違うというだけですので、お含みおき願います。
返信する

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