「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

板沢しし、小春日和に舞う

2009-11-22 19:03:27 | 歴史・民俗

 遠野郷しし踊り、板沢しし踊りの踊り納めを翌日に控え、本日11月22日、その踊りの記録の為の撮影があって、午前、午後とほとんどの演目が披露されるとの情報をブログ「遠野なんだりかんだり」(笛吹童子氏)で得ておりましたので、画像取材も兼ねまして見学して参りました。

 

午前10時頃、集合場所のお宅から一斉に地域の旧家へ移動

ビリッと冷え込んだ朝でしたが、青空が広がり久し振り良いお天気に恵まれました。

 

 

踊られる場所は地域での名士、旧家のお宅

かなり大きな古民家

 

通り踊りから各種誉めの踊り・・・

 

 

位牌誉め

 

 

柱掛り

 

 

 午前は柱掛りを演じて終了、午後は四っ掛り、雌鹿子狂い等の見せ処の演目ということであったが、小生、前夜の飲会で体調が悪い、しかも睡魔も降臨しかけて、取材を共にした笛吹童子氏にこれにて失礼する旨を伝えて自宅へ戻りました。

 翌23日は板沢しし踊りの踊り納めが予定されているそうですが、本日踊るということで、若干踊っただけで納会の予定とか、また青笹しし踊りも23日に踊り納めの予定で、遠野プロガーの多くは青笹しし踊りの取材へ出向く雰囲気が・・・・小生は勤務日となっているので、今年のしし踊り関係は本日の板沢しし踊りで終わりとなると思います。

 

午前の部終了

太刀振り(刀掛け)の上郷美人の彼女達

 

 さて、ちょっと今までの本音を語らせていただきます。

 今まで、少なくても今年になるまでは、上郷町のしし踊りは自分の中では認めたくない、観たくない地域のしし踊りでした。

 なかでも板沢しし踊りは、その中でも最たるもので、表には出さずとも観るに値しないと決めつけておりました。(関係者、ファン方々、上郷町の皆さんすみません)

 ひとつは駒木しし踊りから習い覚えたと伝えられるも、何故に旗印に元祖の文字を染めているのか、確かに上郷町では板沢しし踊りを習い覚え、他のしし踊りが創始されたと伝えられ、上郷町では元祖、本家であろう・・・でも少し納得がいかなかった。

 さらに、テンポが速く踊りは躍動感というより飛び跳ねている印象、それと小生が駒木しし踊りの付き添いをここ何年か勤め、カメラマン的に少し離れた場所にいることもあって、以前にも何度か愚痴みたいな内容を記したことがありましたが、観客の一部からは、駒木しし踊りはつまらないとの声を聞いたり、決まって駒木しし踊りの近くには板沢や細越のしし踊り団体がいて、「細越の方が面白いぞ・・・」とか「あっちに板沢がいるからあっちへ行こう・・・」とかの声も耳にしたことがあった。

 こういったことから、上郷町のしし踊り団体は嫌な存在と化していたこと、駒木しし踊りが遠野の元祖とするならば、彼等の踊りはアレンジしすぎ、しし踊りの流れがこういった方向へ行ってしまうと、将来はさらに踊り方も変わるのだろうな?・・・なんて勝手に思ったりもいたしました。

 しかし、こうして青笹しし踊り等、板沢も含めて他団体の踊りを観る機会が増え、なかなか観客に魅せつける何かがあると感じはじめ、特に板沢しし踊りに関しては、平日開催であった遠野郷八幡宮例大祭に参加したこと、神事としてのしし踊りという捉え方に感銘を受けたこと、11月3日に行われた駒木しし踊保存会結成50周年に歴史的関連が伝えられるとはいえ、板沢しし踊りの重鎮の方々が出席されお祝いいただいたこと、大袈裟ながら義を重んじる団体なんだとこちらでも勝手に感じたところです。

 単純な考え方なのですが、各団体それぞれ素晴らしい内容もあって、何処が凄いとか上手いとか、そんな心の狭い考え方であったことが恥ずかしいです。

 来年から、堅く考え過ぎず、遠野郷しし踊りを楽しみたいと思っておりますし、板沢ししはお気に入りのひとつとなりました。

 板沢しし踊り保存会の皆様、すばらしい踊りをお見せいただきありがとうございました。

 今後、ますますのご活躍をご期待しております。

 お疲れ様でした。

 

 

 一反もんめ目撃

 

 

これはスクープですぞ・・・・汗

 

 

 

ついでに・・・

 

 21日、東京から知人が久しぶりに来遠、家族ぐるみでお付き合いがありますので、我家族含めて総勢8名の宴を、遠野ぶれんどの集まり等でよく利用する某店で行いました。

 

 

 小生は得意分野ではありませんが、知人は魚介類、特に新鮮な三陸の味を楽しみにしており、大正解だったようです。

 

 未成年者を一旦自宅等へ送り、大人達だけで二次会へ・・・・

 知人は沖縄出身ということで以前遠野で知り合いとなった宮古島ご出身のM氏をお呼びして、大いに盛り上がる・・・・。

 二次会の場所は・・・・?・・・汗

 

 ちょっと有名なマスター?ママ?・・・笑・・・がおられる某店で・・・。

 

 

 

 

 すばらしいキャラクター・・・ホント・・・ピンクレディのカラオケが始まると、歌に合わせて振り付けをご披露・・・凄い・・・よく覚えてますねぇ・・・。

 また、我々が歌を歌う度に手拍子と笑顔・・・・お客さん思いだと感じる。

 そして何より歌が上手い・・・ホントなかなか良い声で、歌手並でしたよ・・・ホント

 

 結局、代行も終了、タクシーもほとんど終わった時間の解散、夏場なら夜が明ける時間帯です・・・汗

 なんとか運よく知り合いのタクシーが通りかかり、自宅に行き着くことができました・・・大汗

 

遅いお帰りだ二ャー

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大迫城探訪

2009-11-20 19:08:19 | 歴史・民俗

 紫波町に用向きがあって出かけておりましたが、そのついでといいますか、2時間程早く自宅を出発して、気になっていた城館跡を探訪いたしました。

 

大迫城跡

花巻市大迫町内川目

 

 遠野の城館跡探訪、秋・冬編に突入しておりますが、用向きついでに何処か探訪できないものか、と少し悩みましたが、遠野市外の市や郡(旧郡)等で、その地域を代表する城館跡ということで、紫波への道すがらということ、旧稗貫郡を代表する城館跡ということで大迫城を選択いたしました。

 以前、ネット仲間の八戸の藤九郎さんが探訪した経験があって、その攻城の模様をお聞きしたことがありましたが、かなりきつい山城との印象、直前まで実は悩みながら車を走らせておりましたが、覚悟を決めて大迫バイパスから早池峰方向へ右折、間もなく目印の桂林寺に到着、勝手ながらお寺さんの駐車場に駐車させていただき、城跡の山野に分け入りました。

 さて、何処から登ろうかと思いつつも民家等が数件ある沢沿いの道をテクテクと歩いていると山野へつながる林道を発見、そのまま谷沿いをまたもやテクテクと歩く・・・。

 城跡は右手の隣接山野らしい・・・しかし、道沿いに徐々に登って行く・・・途中、林道が少し下るところがあって、その場所には隣接山野からの尾根があって、その尾根を少しずつ進む・・・。

 間もなく空堀跡を発見、斜面には大きめの帯郭と思われる平場があって、その上はどうやら山頂らしい・・・。

 案外楽に辿りついた雰囲気・・・汗・・・搦手側から登城したような・・・笑・・・間もなく本丸の背後、東端の堀切にたどり着く。

 遠野の標準的な館跡の堀切と遜色はない、むしろ小さい。

 どうやら二重の堀切、内側は幅狭な土橋があって、わたると若干な段差を越えるとそこは主郭、本丸と思しき大きめの平場がありました。

 

北側の帯郭

 

 

堀切跡

 

 本丸は案外広く、しかもその本丸から覗いた北側や南側斜面に張り付いた階段状の平場は案外大きくて、幅も広かった。

 遠野の比較的大きな館跡とは比べものにならない帯郭だっ、これより大きいのは遠野では鍋倉城か鱒沢館くらいか?切岸も高く見事といっとところ・・・。

 ただ南側は藪が多くてその遺構の確認は難しい、写真もなかなか上手く撮れなかった。

 西側は杉林となっておりこちらも規則正しい階段状の平場が数段展開されておりましたが、中腹に社が祀られておりました。

 探訪を終えて桂林寺駐車場設置の説明板には稲荷社とあった。

 

山頂本丸跡

 

中腹の稲荷社

 

 約1時間強の探訪でしたが、細かくは見ておりません。

 それでも、稗貫一族大迫氏の往時の姿を想像するには、なかなかの城跡でもありました。

 大迫城跡に関しては、別家ブログ「遠野中世城館録」で少し詳しく掲載予定です。

 

 

○大迫城主・大迫氏

 大迫氏は稗貫氏の一族で亀ヶ森以外の大迫全域を分知され、稗貫領の北東部分を治めた比較的大きな勢力だったといわれる。

 歴代に関しては調べておりませんので、なんともいえませんが、遠野との関係を伝承により紐解けば、綾織谷地館の宇夫方氏が宝徳年間に葛西勢を率いた金成右京大夫政実に攻められた際は、隣接の達曽部氏と共に大迫掃部が宇夫方氏援軍として参戦し、葛西勢を敗退させたと伝えられる。

 いずれ他領である稗貫郡からの援兵、宇夫方氏というより達曽部氏と何かしら盟約なり誼を通じる何かがあったものと推察されますが、詳細等は不明です。

 

 天正19年(1591)大迫城主、大迫右近の時、主家である稗貫氏が奥州仕置きで改易となると、大迫氏も没落するも九戸一揆(九戸政実の乱)に加担して抵抗、間もなく大迫右近は子の又三郎、又右衛門を連れて江刺郡人首に逃れ、彼の地で大迫右近は死去する。

 時は過ぎ、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの余波は奥州にも戦乱を招き、旧和賀氏、稗貫氏の遺臣達が蜂起する。

 蜂起軍は伊達政宗の物理的支援を受け、南部領となった旧領地に攻め込んだ。

 この時、大迫兄弟は伊達政宗からの後援を得て一族旧臣約3百の兵を以て大迫城を攻撃し、これを落城させ宿願が果たされたかのようにみえたが、南部利直の反撃で大迫城は再び南部勢の手に落ち、和賀氏旧臣達が籠る和賀岩崎城(北上市)の戦いで大迫又三郎は討死、弟又右衛門は捕えられて盛岡で処刑されたと伝えられる。

 なお、大迫兄弟の叔父で大迫右近の弟、十郎兵衛の系統は南部氏に仕えとされる。

 

寶鏡山桂林寺(曹洞宗)

大迫右近によって永禄年間(1578-80)開基と伝えられる。

 

 

大迫氏の菩提寺であり右近の墓地と位牌があるという。

 

 

おまけ・・・

久しぶりに温泉・・・汗

 

 

 用向きの前に山野徘徊での汚れをサッパリと洗い流し、着替えもして・・・。

 

 

 野暮用の後はちょっと遅い昼食

 

久しぶりに・・・・

 

 

今月26日から、またもや例の冷麺祭りとか・・・汗

 

今回もいくぞぉ~・・・・おっぉ~・・・

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鱒沢館探訪

2009-11-17 18:48:35 | 歴史・民俗

 遠野では3度六角牛山が雪化粧すれば、里も本格的な降雪シーズンとなり冬の季節となるといわれている。

 本日、自分では2度目の雪化粧と思うが、他人によっては3度目だという方もおりますが、どちらにしても暦では11月も半ばを過ぎ、いつ積雪があってもおかしくない季節でもあります。

 

17日の六角牛

 

 

 早池峰山は厚い雲で確認できなかったが石上山も雪化粧、貞任高原の奥の方も白くなっているのが視認できました。

 六角牛山をみると標高7~800メートル辺りから白くなっているようにみえますが、高清水、物見山は白くなっていなかったようです。

 

 

 さて、職場の後輩と予てから同行を約していた館跡探訪を午前中行いました。

 本来は上郷町の板沢館跡の予定でしたが、折角だから遠野でも大型城館で遺構も大きめで見応えのある館跡ということで上鱒沢の鱒沢館跡に急きょ変更して探訪いたしました。

 

西側の空堀跡

 

 ちょっとサブ機で史跡めぐり専門のE-500の調子がイマイチ、暗かったせいもありますが、なかなかピントが定まらず、こんな調子の画像連発・・・汗

 

主郭(本丸跡)に祀られる館神様

 

 今回で4度目の探訪、今までの画像データを小さくしてしまい、元画像がないということで画像取材も含めての今回の探訪、ここでもE500君はピンぽけ連発・・・汗

 この後、脇差的なコンデジに切り替えて画像取材、コンデジの方が広角も狙えてピンボケもなし・・・汗・・・一眼デジE500は軽い方なので館跡探訪にはうってつけながらも、この分野専用のコンデジのちょっと大きいカメラも必要か?・・・なんてまた金のかかる考えが頭をもたげる・・・マイクロフォーサーズが欲しいなんて一言も言ってませんよ・・・大汗

 ということで館神様の社に覆いが作られておりました。

 2年前はなかったような?・・・。

 

 東側の空堀跡

 

 館跡は猿ヶ石川流域では随一といわれ館域面積1万平方メートル、遠野を代表する山城で大規模な土木工事が施され、館主一族の鱒沢氏の隆盛が偲ばれます。

 館や鱒沢氏の歴史、事績等は分家ブログ「遠野郷中世城館録」(ブックマークにリンク)にて後日、掲載予定ですが、久し振りにその威容をみて、心躍る思いでもありました。

 遠野阿曽沼氏分家鱒沢殿と呼ばれ、上下鱒沢、小友半分の1千石を領有、後に本家である横田城の阿曽沼氏を凌駕する勢いがあって、度々本家と争い事なとがあり、合戦に及ぶ場面もあったと伝承されております。

 その名は遠野領域外にも知られ、葛西氏、大崎氏等の内紛等にも出兵を主家阿曽沼氏と共に催促される内容もあったとされております。

 慶長5年(1600)の遠野騒動では主家の阿曽沼広長を気仙郡へ走らせる謀反の立役者で南部利直より遠野盟主と大封を得た鱒沢広勝(左馬助)が有名でもありますが、間もなく広勝は気仙平田の戦いで戦死、後を受けた鱒沢広恒、後の浅沼忠次郎(忠右衛門)は南部家の策謀で御家断絶の憂き目となった歴史でもあります。

 忠次郎の愛妾おなべの方や忠次郎の嫡子、千代松の悲話等も残され、非業の一族でもあります。

 

 

 

八坂神社

 

 館跡の南端部分、一部空堀が見られる箇所に八坂神社が祀られている。

 社の由来等は調べてないので不明・・・。

 

牛頭天王

 

 

竜興山長泉寺(臨済宗)

 

 天正2年(1574)、時の鱒沢館主の鱒沢広勝によって開基と伝えられる。

 当初は高館(下鱒沢)に長泉寺は建てられたそうですが、現在の場所に寺院が移されたのは江戸中期頃とされている。

 鱒沢館跡は長泉寺の裏山であり、鱒沢氏縁の場所に寺院が移され鱒沢歴代も心安らぐ思いではないでしょうか?

 

 

 

おまけ

 

 館跡探訪、同行した後輩の反応はイマイチといった雰囲気でしたが、それでも大がかりな土木工事の跡をみて、数百年も前の昔、人力だけでこれだけのものを作り上げたこと、さらに単なる山にこのような遺構が残されていること自体、驚いておりました。

 今回の同行のお礼としてお昼を御馳走という条件でしたので、鱒沢駅に移動して、某ラーメン店にて昼食といたしました。

 

濃厚しょうゆラーメン(じょう吉ラーメン)

 

 なかなか美味いラーメンでした・・・ホント・・・癖になりそう・・・笑

 濃厚ということ、こってり系ということですが、検診も終わったので少しこういったものも良いのではないのか・・・汗

 

 ところで、いつも目にしながら来店することはなかったのですが、嫁さんにもし行ったら長渕 剛のポスター貼ってあるか見て来い・・・と指令されておりました。

 なんでも店主は長渕ファンとか?・・・嫁さんは長渕ファンなので長渕に関係あるものは気になるようです・・・笑

 今回、食べるのに夢中で確かめて来なかった・・・笑

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遠野の馬っこ・べごっこ

2009-11-08 14:58:38 | 歴史・民俗

荒川高原に放牧の馬(一部)

 

 

 

 

 

遠野馬の里の馬(一部)

 

希少和種  トカラ馬

 

遠野馬の里  走路

一周約980メートル弱

 

施設や飼育、調教馬数頭の概要は「遠野馬の里」HPをご参照ください・・・汗

 

 

ぺご(牛)

高清水牧野にて

 

 

 

 

 遠野は古より馬産地と語られており、明治以前は南部駒の産地であったといわれている。

 明治になると岩手県内陸と沿岸を結ぶ交通の中継地として遠野は栄え、荷物を運搬する駄賃付で賑わい馬3千とも言われ、馬のセリが立つ期間は馬1千頭がセリにかけられ1週間も続けられとか、また東北は無論のこと、関東からも買い付けにくる人達もいたと語られております。

 釧路(北海道釧路)・十和田(青森県)そして岩手県の遠野が全国三大馬産地とも評される所以でもあります。

 遠野の民俗伝承等、オシラサマや遠野市内各地に点在する馬頭観音、駒形社、蒼前社等多数の分布、さらに今はほとんどみられませんが馬と共にひとつ屋根の下で生活した南部曲屋の存在、馬と遠野は切っても切り離せない関係でもあります。

 

 太平洋戦争が終結し軍馬の徴用が無くなり、農耕馬の役割が機械等へ移行した現代、生活に密着した馬の存在価値は薄れ馬の数も激減すると家畜としての牛が増えはじめ、その数は1万頭を超えている。

 馬の郷遠野も牛の郷遠野となっておりますが、馬の方は遠野馬の里が出来、かつての馬産地遠野、復活への道が開けているといっても過言ではないと思います。

 

 そんな中で、遠野馬の里と隣接する駒木蒼前神社の存在・・・・馬の里の隣という表現は不味いかな・・・笑・・・神社の隣が遠野馬の里、こちらの神社の方がずっと古い歴史がありますから・・・。

 

駒木蒼前神社

 

 

 由緒では、後三年の役で八幡太郎義家(源義家)が衣川から敗走する安倍軍を追撃して遠野入りし、この地で義家の愛馬の足が折れ、この地に祀ったのが始まりとも伝承されますし、後の時代の長者の馬が足を折ったとの伝承も残されている。

 いずれ馬に関わりある創始ではありますが、実はこの場所に最初からあったものではなく近世になって現在の駒木妻の神石碑付近大沢川沿いにあった社をこの地に移転したものである。

 蒼前様は宗善、想善、勝善とも書き、牛馬を飼う人達が崇めた神ともいわれます。

 境内は、馬というよりも牛を祀った雰囲気が強く感じるところでもあります。

 

狛犬ならぬ狛牛

 

 

 昭和50年代、地元の牛を扱う方々により奉納されたとある。

 

 しかし、以前は旧正月16日、旧4月8日に参拝する方々が多くいたといわれておりますが、今は参道は廃れ、僅かに草地を通っていく手立てのみである。

 

 馬の存在も確かにあります。

 

 由緒書きは地元の寺院、福泉寺2世住職 尻石宥燃師の直筆で昭和54年に書かれたもの・・・そして社内に納められている木彫の馬は、紛れもなく宥燃和尚によるものだと思います。

 

かつての参道

鳥居をくぐり真っ直ぐ草地を進めば間もなく到達できます。

 馬の里側の方が目の前ですがね・・・笑

 

 

余談ですが・・・

 

 遠野の方言関係の講演を聴いたことがありますが、牛は東北地方では「ぺご」と言いますが、馬はなんといいますか?

 ベゴは方言かどうかは忘れましたが、馬は「うまっこ」牛は「べごっこ」と愛着込めて呼んだりもしますか、本来は牛のことを・・・「うす」と言うはずとのこと。

 これって訛りではないですかね・・・・聴いた内容を忘れてしまって中途半端なことですみません・・・謝

 

 

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懸下茂左衛門

2009-04-16 16:17:48 | 歴史・民俗
 遠野の桜開花情報は当エントリー最下部に記しておりますので、お見逃しなく。


 さて、紫波町の佐比内関連調べの過程において、ひょんなことから欠下茂左衛門に関する内容を発見、それでも概要のみですがご紹介いたします。


遠野・欠之上稲荷神社









 欠之上稲荷神社は文禄年間に葛西氏旧臣の欠下茂左衛門が石巻の日和山にある稲荷社を勧請したと伝えられており、欠下氏は主家葛西氏が豊臣秀吉により所領没収となり没落した際に遠野に流浪し、遠野横田城主、阿曽沼広郷、広長父子に仕え遠野阿曽沼家臣となったといわれている。

 欠之上稲荷のある山野は杉山館跡であり、館主が欠下茂左衛門とも伝えられ、稲荷社と館に深く関わっていた人物として考えてもよさそうでもある。

 なお、かつてはこの稲荷社、山の中腹にあって勧進した欠下氏の名にちなんで欠下稲荷と呼んでいたようですが、後の享保年間に山上へ遷され、欠之上稲荷と呼ぶようになったとか?・・・・。





 欠下氏(懸下)は、阿曽沼氏没落後も遠野にあって、さらに寛永4年(1627)八戸根城から遠野へ入部した八戸氏(遠野南部家)家臣として欠下氏の名が散見されますので、八戸氏家臣に採用されて遠野にあったものとばかり思ってましたが、よく資料等をみますと、寛永4年、11年と家臣達の俸禄、召し抱えとなった名簿に欠下氏の名は確認できず、その空白時期は?・・・・それとも姓名を変えて仕官したものか?少し気になってはおりました。

 こういった内容調べは結構難儀し、どの書籍、資料から手をつけようか・・・?目星をつけていた書籍等が空振りに終わるとお先真っ暗という場面もあって大概は途中で止めてしまうことも多々ありました。

 そんな中、紫波町佐比内関連にての調べで、まずは市外の歴史等を調べるその初期段階で各市町村の自治体史、すなわち市町村史を手始めに調べるのですが、これが案外便利な代物で広く浅く、時には深く・・・かなり重宝いたしますが、今回、たまたま見ていたページ前後に佐比内の金山関連が掲載されており、その中で懸下茂左衛門の名を発見、紫波町史に記載されておる内容ですが、ご紹介いたします。


〇懸下茂左衛門と女牛金山

 紫波町舟久保にあった女牛金山の開発者は伝承によると懸下茂左衛門とされる。
 葛西臣であった懸下茂左衛門は主家没落後、南部利直に出仕して300石を給され、遠野城代配下として遠野坂の下に住まいしていた。
 寛永3年(1626)事故あって南部家より家禄没収となり郎従5人手回りの者を引き連れて遠野を後にし、紫波の舟久保村に来住、同村には茂左衛門の姉婿である南部藩士小山田新右衛門の知行所があった為にそこを頼ったものと考察されており、此処で女牛金山を開発、茂左衛門は承応3年(1654)現地で死去と伝えられている。

 
 女牛金山は茂左衛門が来た頃は既に廃れていたといわれる。
 女牛金山のある近在を農地として開墾した功績があり、このことで金山開発者と混同されたものとの見解も示されている。

 
 茂左衛門は現地で死去したが、寛文3年(1663)茂左衛門の子息、宅右衛門が八戸弥六郎に召し出され、再び遠野へ戻り、以来八戸氏(遠野南部家)家臣となったと記されている。


 おそらく文禄年間に遠野に至り阿曽沼家臣となり、阿曽沼氏没落後の慶長6年以降に南部利直に仕え、寛永3年、八戸直義の遠野入部前に何かしらの理由にて改易の憂き目となり遠野を離れたものと思われる。
 そして紫波郡内で帰農していた時に、近隣の佐比内村を知行した八戸弥六郎にその噂が広がり、或いは自らアピールしたものか?いずれ子の時代に遠野へ帰還といった流れだったと想像できる。


欠之上稲荷神社から遠野市街地







 さて、桜開花情報・・・・
 
 既に早咲の桜で有名な大工町の善明寺では開花とのことですが、以前から小生の勘違いか思い込みか?いずれ遠野での桜開花標準木である新町の法務局の桜がほころんでましたので、自分的には遠野の桜の開花宣言だと思います。












 ここ週末には市内の桜が続々と開花、来週には有名処を含めて揃い踏みといったことかもしれません。
 見頃は今月末の週か?上手く持てば5月第一週までかな?・・・・。

 
 次回は福泉寺桜情報をお伝えします・・・18日の予定
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佐比内館(熊野神社) ・紫波

2009-04-15 16:06:52 | 歴史・民俗
 紫波町の大巻城跡探訪に伴い、資料によると大巻城に居た河村氏は同町の佐比内館に後に移ったと記され、大巻城と佐比内館はセットとして見るべきと判断し、大巻城跡探訪の道すがらでもある佐比内館跡をまずは訪ねてからということで、大巻城跡探訪の同日、まずは紫波町佐比内の佐比内館跡、現熊野神社の山野を探訪いたしました。


〇佐比内館  紫波郡紫波町佐比内字神田
 平山城  標高175メートル 比高45メートル
 遺構  空堀二重、土塁、郭
 館主  河村一族  天正年間 河村喜助


 舘南方の佐比内川に中沢川が合流する右岸の山上にあり、現在、熊野神社の境内となっている。
 熊野神社再建の際に、頂部部分がかなり削平された形跡があるも境内奥の一段高い平場の背面(北側)には大きめの二重空堀が残され、北側以外の方向は急な斜面となっているが、二段から四段の帯郭が配されている。

 佐比内川に沿う遠野街道を見下ろす絶好のロケーションであり、交通の要衝であったことが伺われます。


山上の平場・・・熊野神社



主郭部分



北側の空堀





帯郭 西側



東側


南東側



 遠野から紫波町日詰に至る県道沿い、右手にある熊野神社が館跡であるが、盛岡方面への用向きには、こちらの道を利用するといったことは少なくなっておりますが、以前は案外利用していたこともあって、佐比内の熊野神社と資料に記されておりましたので、直にピンときました。
 また至近のバス停も「舘前」?「舘の下」?とあり、それらしい雰囲気が漂っておりました。


 河村氏が南北朝が合一前後の時代に大巻城から佐比内館に居館を移したと伝えられ、当初は川向いに館があったとしている。
 
 佐比内館は、ある程度遺構が残され、結構見応えのある場面でもありましたが、道路脇の鳥居の下から徒歩で山上を目指しましたが、東側の農道からは直接車で乗り入れることができるようです。
 そんなことは知らないので、下からゆっくり登って参りましたが、5分もかからずに到着、熊野神社の社は思っていた以上に大きく立派でしたので、少しビックリしました。






〇熊野神社  佐比内村鎮守






 神社由来は説明板のとおりかと思いますが、補足しますと・・・

紫波佐比内 熊野社

 喜明院によって応永3年(1396)熊野権現社創建、代々の別当は喜明院。
 一説によると河村一族ともいわれ、明治2年、喜明院は川村氏を名乗っている。
 
 熊野権現→熊野大神→熊野神社(明治2年)


 また、江戸期の南部藩政時代、紫波の佐比内は八戸弥六郎(遠野南部家)の所領であったので、何かしら熊野神社との関わりがあるのではと少し調べますと・・・

 寛永12年(1635) 八戸弥六郎直義より社領3石の寄進を受けている。








 ついでに、むしろこちらの方がメインエントリーと成り得ますが、遠野南部領、志和佐比内(紫波佐比内)について・・・


 さて、遠野郷土史に興味ある方々においては、紫波町の佐比内がその昔、江戸時代に八戸家領、すなわち遠野領であったことはご存じのことと思います。


 寛永4年(1627)南部利直より八戸弥六郎直義に宛てた墨印状には・・・
 志和佐比内 677石825合・・・とあります。

 寛永4年以前、遠野南部家の知行所となる前は南部藩大迫代官区に属し、寛永4年に八戸弥六郎(遠野南部家)の所領となりますが、延宝3年(1675)11月、佐比内村の内、221石余(下佐比内)が盛岡直轄地に編入され大迫通となる。
 佐比内村は上佐比内が遠野領、下佐比内が盛岡領と二分された。

 このことは、遠野南部第4代(25代)八戸利戡時代の出来事で遠野領の鱒沢、小友と盛岡領の下宮守と紫波佐比内の所領交換が行われたことによるものと思われるが、少しつじつまが合わない気もする。
 佐比内は寛永4年から遠野領となっているので、後に所領変換の際に佐比内の一部がそのまま盛岡に組み入れられたものか?
 
 後に小友、鱒沢は返還されますが、下佐比内村に関しては文政10年(1827)遠野南部家分家の附馬牛八戸家、八戸上総の知行地となる。
 上、下と佐比内は分断された時代は継続しますが、いずれも遠野南部家縁の地ということで明治維新まで続きます。


 寛永4年、紫波佐比内村一円677石余、同郡彦部村46石余が遠野南部家領ともいわれますが、彦部村 彦部与五右衛門38石余、新屋敷新助8石余とある。
 
 寛永18年、佐比内村723石余(八戸弥六郎)、彦部村は資料にみえないとしている。
 彦部村は中野家(南部吉兵衛)の所領となっている。



・遠野南部家志和佐比内村代官
 遠野南部家による私設代官が遠野領内各地に設けられ家臣達が派遣されていた。

 岡 安助
 石橋新兵衛、水越左五右衛門(~宝永2年)・人首平右衛門、米内金兵衛(~宝永7年)・長嶺茂兵衛、岩間佐市右衛門(~享保元年)・十日市左源太、松田安兵衛(~宝暦6年)・金田一弥右衛門、中舘金左衛門(~明和9年)・金田一忠蔵、石橋治郎左衛門(~安永10年)・人首判右衛門、小沼仁右衛門、三上惣吉(~寛政7年)・小笠原金兵衛、野沢高水(~文化13年)・田沢倉寿、江田勘助(~文政3年)・金浜八十右衛門、小笠原秀八、菊地幸蔵、菊地覚左衛門(~文政8年)・両川覚兵衛、鈴木隼人、高橋武左衛門、駒木嘉左衛門(~天保7年)・小原定見、松田七九郎(~明治2年)


熊野神社から佐比内方面


 遠野から盛岡に出向く際は2日の行程といわれ、佐比内で一泊することになっていたようでもありますが、佐比内との関連含み、熊野神社に関わる内容に八戸弥六郎や八戸上総との関わりを示す古き棟札等、檀那として名がみえるか機会がありましたら確かめてみたいですね。




 ネネ



 14日から末娘が修学旅行で東京へ出かけておりますが、遊び相手がいなくなったのでネネも少し寂しそうでもあります。





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大巻館(城) ・紫波

2009-04-13 18:00:09 | 歴史・民俗
 昨年の今時期、ソメイヨシノが3分咲きの紫波高水寺城跡を訪ね、簡略的ながら遠野と紫波の歴史について考察したことがありましたが、その際に北上川東岸側にある大巻城跡も訪ねようと思い、城跡の入口まで行ったのですが、いずれ近いうちにと探訪はせずに帰って来たことがあり、そのことを思い出したこともあって、この際にと思い、探訪して参りました。


大巻館(城)・別名 河村館    紫波郡紫波町大巻
 標高168メートル、比高58メートル 
 山城・・・空堀、郭、土塁
 館主 河村一族




 愛車濁酒特区スッケ号ごと、説明板のある道奥へ進入、軽四輪クラスならなんとか通れそうな道をとにかく進む。
 途中から登りもなくなり平坦な道が続き、おかしいと思いながらもとにかく進む。

 途中に山上へ折れる分れがあり、その場に車を止めて徒歩で山上を目指す。
 登りながら気が付いたのですが、「この道、車が通れる道だよな」ひょっとすると頂上近くまで車で行け着けるような?・・・予感は的中・・・汗・・・軽自動車やスッケ号クラスの小型車なら、なんとか行け付ける道でもありました。

 
 本日も大汗かいてなんとか山上へ・・・・。


本丸(主郭跡)から紫波平野



主郭(頂部平場)


 結構広めの平場が広がっており、周囲は3段程度の帯郭が残されている。
 
 さらに南側には堀切を挟んで二の郭、三の郭と思しき平場が展開されている。


帯郭 西部分



東部分




北部分



空堀  南側部分






 北部分から東、南側まで大きめの一重の空堀が残されている。
 またその上下部には帯郭が配置され、西側は大きめの帯郭、さらにその下部にも空堀が残されており山野を断ち切っている。

 遠野の鍋倉城をこじんまりとした雰囲気が漂うも、よく設計施工されただろうという印象が残る高感度な城跡でもありました。
 館というより城クラス、かつては北上川東岸側の紫波郡内及び岩手郡内まで勢力下としていた河村氏の隆盛が想像できます。




 手持ちの資料(書籍・日本城郭体系2)によると大正時代に公園として整備されていたと記されており、その折に若干手が加えられた形状も考えられる?そんな内容が記されていた。
 

城跡北側にある千手観音堂


 扉を開ければ、あの金色に輝く中国の少女達がすばらしい舞をご披露というものではございません・・・笑




〇大巻城主 河村氏
 河村氏の発祥の地は、相模国(神奈川県)足柄郡河村郷とある。
 藤原秀郷の後裔で、相模の武士波多野遠義の子秀高から始まるとされる。
 遠野阿曽沼氏も秀郷流であり、遠戚といえよう。
 秀高は父から同国足柄郡上河村郷等の所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称したようでもある。
 
 秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、所領の全てを失い没落したと伝えられているが、後に義秀の弟千鶴丸十三歳は、文治5年(1189)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許されて、阿津賀志山の戦に功をたて、後に元服し河村四郎秀清と名乗ったといわれている。

 奥州平泉征討の論功行賞で、秀清は岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭(宮城県)の地、そして摩耶郡(福島県)の三ヶ所に所領を賜った。
 秀清はこの三ヶ所の所領のどこに居を定めたかは、はっきりしないとされるが斯波郡では大巻に大巻城を築いたと伝えられている。

 斯波郡への本格下向についても、はっきりとしていないが、鎌倉末期には秀清の末孫、秀興が下向して斯波郡内の本格統治が始まったとの考察されますが、河村氏庶流等の一族が下って郡内に土着したともいわれる。
 河村氏の分流は北上川東岸一帯に広まり、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内の諸氏の名がみられる。

 南北朝の動乱時代となると、南朝方に組みし、八戸の南部氏と共に南朝方鎮守府将軍、北畠顕信に従っている。
 しかし、北朝有利が強まる中、斯波郡高水寺城の斯波氏の勢力が伸長、どの時点で河村氏が斯波氏の勢力下となったかは不明ながら、斯波氏の圧力が徐々に強まり、その勢力下へ取り込まれていく過程があったと思われる。

 戦国期、大巻城の河村氏は同郡の佐比内館に居館を移したと語られるも、大巻城が戦国期に廃された形跡は見当たらず、佐比内館含み斯波氏家臣、河村一族が居たものだろうと推測されます。

 主家斯波氏が南部信直に攻められ滅亡した際は一族分裂し、帰農した一族、南部家、伊達家に仕えた一族とそれぞれ独自の道を歩んだものと思われます。


 ということで、河村氏と遠野との関係等は多くは見出せませんが、大巻城から佐比内館へ一族が移ったとされる内容も語られますので、ついでに紫波町佐比内の佐比内館跡も探訪して参りましたので、次回にエントリーの予定です。
 江戸期、紫波の佐比内は遠野領(八戸氏・遠野南部氏)でしたもので・・・。



 今が盛ん・・・。



 今時期、山野の至る所に咲いております。
 



 おまけ


 盛岡、北上でソメイヨシノ開花、大迫、紫波では梅が満開で、桜のつぼみもピンクが強くなっており、間もなく開花といった場面でもありました。


 遠野市綾織町バイパス 国道283



 まだまだピンクがかってませんが、この陽気ですと来週には開花か?福泉寺も同様です。

 

 








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刃金館と平倉氏

2009-04-10 18:54:19 | 歴史・民俗
 平山城や平城の類の館跡探訪をこの春シーズンの序盤を主に考えていたが、3年程前に探訪した上郷町内の板沢館、同町の刃金館の画像をHPにアップする際に全て縮小したまま保存してしまい、オリジナルな画像が皆無という事態に陥っていたために、急きょ、まずは割と山野に入りやすく、きつい山登りもそれほどでもないということで、上郷町平倉の刃金館の探訪をいたしました。


刃金館跡・・・遠野市上郷町平倉



 今回で3度目の探訪、過去に訪ねた際は、整然と配列された帯郭、館中央を下る縦堀跡が印象的でしたが、杉林となっている館跡が多い中、ここ刃金館の主な部分は雑木林で明るいといったこと、かなり歩きやすい山野との記憶もあって、痛めている左肩をかばいつつも、比較的探訪しやすいと踏んでの今回の探訪、思惑通り左肩の違和感も薄く、以前に増して濃い探訪ができました。


東側の空堀跡・・・二重堀跡






頂部平場から主郭と推測される平場



主郭平場から頂部


 主郭は高い部分から二段下がった場所と推測され、南北7メートル、東西15メートル程の平場が形成されている。



 刃金館といえば、判然と残る帯郭が印象深いが、きれいに斜面が切岸、削平され、段差がはっきりと残されている。
 最大7段の平場が整然と配列されている様は見事というほか言葉はみつからない。


帯郭群












縦堀跡


 急斜な堀跡であるが、かつては大手口という位置付けで館の出入口だった可能性がある。
 下部付近は土塁跡も見られ、虎口といった雰囲気もある。




○刃金館(はがねだて)

 標高450メートル・比高56メートル  山城
 築、使用年代 阿曽沼時代
 館主  平倉新兵衛
 遺構等 山頂・段丘・空堀




 今回、館跡探訪は2時間程、画像収集の他にじっくり山野を踏破して現地で少し丁寧に簡略図を描いてみました。



○ 平倉新兵衛・・・本姓菊池

 刃金館主を阿曽沼臣、平倉新兵衛と伝えられ、平倉村200石、慶長6年(1601)
遠野旧主、阿曽沼広長が遠野を追われ気仙郡世田米に亡命し、伊達政宗の支援により遠野奪還を挑んだ第2回目の戦い、赤羽根合戦にて遠野方の先鋒して気仙勢を迎撃するも乱戦の中で討死にと伝えられている。

 当時、確実な内容ではないが、和賀氏、稗貫氏といった遠野周辺の諸氏の家臣達(舘主)の俸禄(知行高)をみると、ひとつの郷(邑)にひとりの武士(舘主)、平均200石という見解が示されている。(岩手武士団の編成、稗貫氏・大迫町史)
 遠野でもほほ同様といった内容とも思われます。

 騎馬の地士(舘主)1名に歩卒6名が動員基準とされるが、まさか赤羽根合戦に7名で出撃したとは思えず、知行地の平倉村やその周辺から兵を数10名徴兵しての出撃だったと推測されます。


 また平倉新兵衛は平倉新兵衛盛任と「奥南落穂集・遠野家之次第」には記され、一族と思しき名に・・・・
 平倉刑部(新助)、平倉新八、平倉長門守盛清、平倉平兵衛・・・とある。

 なお、平倉長門守盛清に関しては、平倉地域に存在する平倉館の館主という伝えもあり、平倉新兵衛の時代に刃金館に主舘を移したものか?いずれ平倉長門守盛清と新兵衛盛任、「盛」という字にてかなりの近親者であると推測されます。


 平倉氏は慶長5、6年の遠野騒動にて南部利直方となって気仙勢の遠野侵入を防ぐといった功労があったと思われるが、細越氏や平原氏、内城氏といった上郷地域の諸氏が南部利直から改めて知行地を安堵される中、平倉氏に安堵或いは賜るといった内容が残されていない。

 また平倉氏と同族といわれる板沢氏もまた同様であるが、これまた同族である本姓菊池、平清水氏が南部家の大身となり、これに含まれたものなのか?このことは後に遠野の菊池姓調べでの課題として明らかになればと思っているところです。


 ところで八戸氏(遠野南部家)が遠野へ入部した際に、平倉平蔵200石と遠野旧事記にあるが、板沢平蔵のことか?板沢氏と平倉氏はなんらかの深いつながり、血縁含みと考えているが、先人史家の中には平倉氏の後年については不明という見解が主でもありますが、「寛永11年遠野諸士俸禄」にある菊池新四郎40石は、「新」の字からして平倉新兵衛に極めて近い血縁者ではないのかと、或いは後継者ではないのかと思えてならない。


 ということで、これ以上書き連ねますと、自分でも何を言いたいのか、まとまりもつかなくなりそうですので、後で遠野の菊池姓関連でさらに考察をして記したいと思ってます。





 おまけ

 東隣の平倉観音側から車で進入、館跡山野至近の水田で老夫婦が農作業中ではありましたが、そそくさと探訪準備をして山野に分け入りました。
 オレンジ色の上着に黄色のヘルメット、ゴム長履き、さらに首からカメラとレーザー距離測定器をぶら下げ、おまけにファイルに製図板、なにやら山林調査やら測量にでも来たものか?それとも他人の山を勝手に調べる不審者と思ったに違いない・・・汗

 山野滞在2時間、昼時も過ぎておりましたが、小生の下山を待っていたかのように姿を見ますと、「何しに来たか、何処から来たか」と矢継早に質問を受ける。

 「駒木から来ました」とお答えすると、「松崎の駒木か」ということで、さらに市役所の林業担当か?ともいわれました・・・汗
 館跡調べを趣味としていること、個人的にこの分野が大好きであるとお答えすると、かなり安心したようで、「今時のわげものにしては、ながなが良い趣味だ」と誉められました・・・笑

 それから地域の歴史や言い伝え等、話の花が咲きましたが、最初に山野に入ることを伝えてから探訪すればよかったと反省しきりです。
 なかなか下りて来ないので少し心配もかけたようでした・・・反省

 
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阿津賀志山の戦い

2009-04-04 16:16:47 | 歴史・民俗






○阿津賀志山の戦い

 文治5年(1189)2月、鎌倉の源頼朝は奥州平泉の藤原泰衡を征討するため、御家人に7月10日までに鎌倉に参集せよの命を発する。
 鎌倉軍は28万数千騎というとてつもない大軍を海道軍、大手軍、そして北陸軍の三軍を編成し、7月19日に鎌倉を出陣、奥州への征途についた。
 同月29日、白河の関を越え、いよいよ敵地奥州へと入ると、奥州勢の抵抗を受けないまま、8月7日伊達郡藤田宿(福島県伊達郡国見町)に着陣したといわれる。


 一方の平泉の藤原泰衡は、鎌倉の動きを察知すると伊達郡、刈田郡の境にある阿津賀志山に堅固な城塞を築き、さらに阿津賀志山から阿武隈川岸に至る遠大な防塁を築いて防備強化に努め、異母兄である藤原国衡を総大将に金剛別当秀綱以下奥羽の精兵2万騎を配して迎撃態勢をとって待ち構えていた。


 鎌倉軍28万4千騎・・・・軍士28万4千騎、但し諸人の郎従等加う・・・(吾妻鏡)とあるように兵員数についてはかなりの誇張はあるにせよ、山野を埋め尽くす大軍団であったことは想像できる。
 平泉第3代当主、藤原秀衡は盛んに鎌倉に対しの情報戦で侮り難し奥州勢と思わせるような布石をいくつもインプットさせている実績があり、そのひとつ奥州軍17万騎、ひと筋縄ではいかない大軍団を要する奥州平泉の印象でもあろう・・・。

 では実際の兵員数は・・・10分1程度だったという見解もあり、鎌倉軍2万5千~3万だったという・・・・?。

 一方の平泉軍は17万騎という強大な軍事力を擁していたはずが、2万騎が決戦の地に集結という史実でもあり、おそらくこの数値が藤原泰衡が集めることができる最大数だったものかもしれません・・・?。






 文治5年8月7日早朝、源平の戦いで名を轟かせた武勇の士、畠山重忠、小山朝光勢が金剛秀綱勢に攻撃を仕掛けた。
 鎌倉勢の猛攻ながらも金剛秀綱は序盤戦をよく防ぐも、ついに戦い三日目、8月10日防塁を突破される、また小山朝光が率いる小勢が阿津賀志山背後の山道を迂回して平泉軍後衛の陣に攻撃を加える。
 これに加えて鎌倉軍大手軍が防塁を越えて殺到すると平泉軍は大混乱に陥り、ここに平泉軍は壊滅、金剛別当秀綱は小山朝光に討ち取られ、子の下須房秀方(13歳)は、工藤行光の郎党に討ち取られたと伝えられている。

 総大将の藤原国衡は退却途中、鎌倉御家人、和田義盛に呼び止められ、一騎討ちに応じてその場に留まったところを和田義盛の放った矢にて受傷、殺到する鎌倉勢から逃れようと深田に人馬もろとも足をとられ動けなくなったところを畠山重忠の家人に討たれと語られている。

 今の宮城県仙台辺りの国分原に本陣を構えていた藤原泰衡は、阿津賀志山や各地の防衛拠点が次々と破られるの報で、平泉を目指して退却したといわれる。



 平泉当主の意地といいますか、逃げ戻った兵と共に雌雄を決する戦いを今一度とはならず、僅か3日の戦いでほぼ天下分け目の決戦は終了・・・平泉の命運、歴史は皆様が御存知の通りということになります。





 この場所で古の戦いが繰り広げられた、奥羽の歴史を変える戦いが・・・しかし、既に源平合戦を制した鎌倉方による全国制覇は時間の問題だったかもしれません。
 勝敗は時の運ともよく言われますが、この阿津賀志山の戦い含み、太平100年の世であった奥羽の兵と源平の戦いをくぐりぬけてきた関東武士団とは、勝負にならなかったとも言われます。
 この要因は無論大きなものでもありますが、藤原秀衡や源義経が健在だったらどうであったのだろう・・・・単なる物理的な部分のみならず時の運、これを制した源頼朝の勝利ともいえるのではないのか?




 ところで遠野においては藤原時代といわれる伝承や史跡がほとんど伝えられていない。
 鎌倉方により、また地頭として赴任した御家人達によって徹底的にその歴史や事績は葬られたのだろうか?
 それにしても無さ過ぎという感覚もあり、遠野保といわれるように平泉の影響は受けていても別世界であった遠野であったものなのか?
 遠野で平泉時代の痕跡を探訪するのも今後の課題ともなりそうです。
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阿津賀志山防塁

2009-04-03 19:11:18 | 歴史・民俗






 遠野とその周辺地域の中世城館跡探訪をひとつの趣味としている小生であるが、以前から是非とも見てみたい、探訪したいと念願していた史跡に福島県伊達郡内、国見町に残されている「阿津賀志山防塁」がありました。
 宮城県と福島県との境付近であるということで、岩手の遠野からなんとか行け付ける場所であるも、それでも何かの用とか、そのついでというわけにもいかず、その思いだけで、なかなか出かけることは叶わず状態、機会はこちらで作るものとはいいますが、思い立ったらが吉日という例えもあり、今回、時間的な制約はありましたが、やっと見学することができました。


 
阿津賀志山(厚樫山)麓の防塁跡








 主に二重の空堀と三重の土塁によって構成されている防塁、年月による風化は避けられない現実ではありますが、自分的には残存度良好といった思いでもあり、凄いものを見させていただいたという思いが強く意識されました。


攻める鎌倉軍が陣を敷いた福島市内方面




 阿津賀志山麓から阿武隈川岸までの約3.5キロにわたって築かれた防塁であるが、東北本線(鉄道)、国道4号線、その他農地開発等で、年月を重ねるうちにその遺構のほとんどが消滅という状態でありますが、阿津賀志山(厚樫山)麓の始点部分と南側の終点付近にその遺構跡が残されている。



南側部分の遺構
















 
厚樫山方向




 文治5年(1189)、奥州平泉の藤原氏征討のため、源頼朝は御家人達に同年7月までに軍を整え鎌倉に参集せよと命じた。
 一方、平泉の藤原泰衡は、鎌倉方の動向を察知すると伊達郡と刈田郡の境に位置する阿津賀志山に堅固な防備施設を構築、さらに山麓から阿武隈川岸までの大防塁を築いて鎌倉軍の来攻に備えていた。

 同年7月、鎌倉軍団は太平洋側を進軍する海道軍と中央の大手軍、北陸軍の三軍が編成され、7月末には早くも白河を越え、8月7日には藤田宿(国見町)に到達して陣を構える。

 迎え撃つ平泉軍は藤原泰衡の庶兄、藤原国衡(西木戸国衡)を大将に奥羽の精兵2万騎を以て阿津賀志山防塁に配して迎撃態勢を整え、天下分け目の大決戦が開始されようとしていた・・・・・。







 次回エントリーは阿津賀志山の戦いの予定です。


 
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